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まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【続・日本100名城 その17】  145  興国寺城

145 興国寺城 (静岡県沼津市) 別名:杜若城

・城地種類: 平山城

・築城  : 不明

・築城者 : 不明

・主な城主: 北条氏 今川氏 天野氏

       (登城日:2023年8月31日)

興国寺城(大空堀

興国寺城

 築城は不明ですが、長享元年(1487)、今川氏親より興国寺城を与えられた伊勢新九郎守時(北条早雲)が、ここを拠点に堀越公方を討ち、伊豆侵攻への足掛かりとした城です。興国寺城は東駿河の要所であり、北条氏、今川氏、武田氏が争奪を繰り返していました。江戸時代には徳川家康の家臣天野氏が立藩しますが、後に改易され城は廃城となりました。

 

根古屋の信号を渡って、いざ、興国寺城跡へ。

 

三の丸、二の丸、本丸と並び、奥に見える高台が伝天守台とされています。

 

本丸近くで振り返ってみると、道の西側に二の丸、大きな木の先から正面にかけてと道の東側が三の丸。

 

パンフレットで見ると、こんな感じに並んでいます。

 

高尾山穂見神社

本丸跡に建つ神社です。安政の大地震で大きな被害を受けた根古屋の人々が、五穀豊穣を祈願して農業神/保食神(うけもちの神)を山梨県櫛形山山腹の穂見神社から分祀したものです。

 

神社本殿脇にある天野三郎兵衛康景の碑の説明文。足軽をかばったところまでは優しい城主であるけど、城を棄てて行方をくらましたらダメでしょ・・

 

続百名城のスタンプ置き場

スタンプは神社本殿脇に設置されています。

 

本丸脇から土塁を上っていきます。道は整備されていますが、急なので足元注意です。

 

石垣

天守台の下に石垣が残っています。

 

天守

建物の礎石が残っています。

 

天守台の上からの眺めは最高! すぐ下には、本丸、二の丸、三の丸が続き、平野の奥には、駿河湾を挟んで伊豆の山並みが連なります。土塁も見事です。

 

西櫓台

天守台を西に進んだところにあります。

 

天守台から覗く大空堀は、深い谷底のようです。空堀の奥は北曲輪です。

 

空堀に下りていきます。ここは急坂です。

 

空堀に下りていく途中からみた堀の東側。この奥に船着き場があったようです。

 

空堀

堀底に下りてきました。幅約30m、深さ約20mの大きな堀です。

 

堀を挟んだ北曲輪にも登れましたが、階段の上だけで、その先はロープが張ってあり進めません。それにしても深い堀です。

 

堀底を歩いていくといくつかの丸い穴。防空壕として使われていたようです。

 

さらに大空堀を進んでいくと外に抜けられそうです。・・・が、道は続いていると思われるものの、藪に覆われていました。藪こぎはしたくなかったので戻ります。

 

二の丸と三の丸の間から城の西側にでて、北曲輪に向かいます。この辺りの草地は外堀になっていたようです。少し進むと大堀切につながっていると思われる道の入口があるけど、やっぱり藪こぎする勇気は・・ない。

 

北曲輪

北曲輪の入口らしきところまで坂を上ってきました。舗装されてはいるものの、その先は藪が侵入を拒んでいます。せっかく坂を上ってきましたが、退散します。

 

興国山本法寺

戻る途中の階段を上って本法寺に向かいます。北条氏滅亡後、興国寺城主となった河毛宗左衛門尉重次(豊臣氏家臣中村一氏重臣)が菩提寺として建立したと伝わります。関ヶ原の功により中村氏が伯耆に移封されるとこれに従い、天野康景が城主になりました。本法寺周辺は、侍屋敷跡であったとされています。

 

本法寺の墓地から興国寺城を眺めます。谷の奥、新幹線の手前が北曲輪です。新幹線工事により曲輪の一部が壊されたという話もあるようですが、詳細はわかりません。

 

三の丸まで戻り、興国寺の東側へとやってきました。この辺りは蓮池になっていたようです。

 

東側の道路から山道が続いていたので、上ってみました。清水曲輪につながると思うのですが、こちらも藪に阻まれて退散してきました。

 

 本当に見事な大空堀でした。この深さには圧倒されます。三の丸から大空堀までは、見やすく整備されていました。三の丸などで発掘された堀とかは埋め戻されていました。そして、北曲輪や清水曲輪。少し予想はしていたとはいえ、やっぱり夏の山城は藪との攻防戦。藪こぎはしたくないので戻ってきましたが、パンフレットだと行けそうなので、冬に来れば歩けるのかな。いろいろと整備を進めている最中のようなので、また折を見て訪れたいと思います。北条五代が大河ドラマになれば、きっとすぐにでも整備されるのになぁ~なんて・・

 伊勢新九郎盛時が戦国大名への第一歩を踏み出したという興国寺城。天守台に建つと伊豆の山々が目の前に広がります。この景色が、茶々丸を倒して伊豆へ進出していく力となったのかもしれません。また、この地は、今川氏、武田氏、北条氏、徳川氏と時代により争奪が繰り返された場所ですが、徳川の時代になり、天野氏の出奔により廃城となります。隣国同士の争奪戦が行われた要衝の地は、平和な時代にはもう必要がなくなるのかもしれません。

 

・おまけ・

興国寺城跡の近くにある阿野全成ゆかりのお寺も見学してきました。

根方街道沿いに石碑がありますが、こちらからは入れません。東井出バス停の信号から細道に入っていくと、住宅の間に山門につながる道があります。わかりにくいです。でもその昔はこちらに富士から鎌倉に通じる道が通っていたとか。根方街道は東海道脇街道ともいわれているようで、この辺りは古くから人々の往来があった地です。

士詠山 大泉寺

頼朝の挙兵を聞きつけて傘下に加わった全成(今若)が、阿野荘の地を賜り、館を建てて祖先の霊を弔うために建てた持仏堂が始まりとされています。当初は真言宗の寺でしたが、天正年間に曹洞宗に改宗されています。本尊は運慶作と伝わる聖観音菩薩です。全成、時元親子と、公暁の位牌が残されています。

阿野全成・時元の墓

全成とその子時元の墓塔です。全成については、大河ドラマを見るまでよく知りませんでした。ドラマでは新納さんの全成が癒しだっただけに、権力争いに巻き込まれた最後が哀れでしたね。

大泉寺のご住職は消しゴムハンコが得意ということで、大河ドラマの登場人物たちを掘った作品が展示されていました。本当にそっくりです。

 

山門前の駐車場わきに、切り株風の台座の上に碑があります。ここには大きな松の木があり、処刑された全成の首が飛んできて枝に引っかかったと伝えられています。残念ながらその松は昭和39年(1964)に枯れてしまったそうです。また、隣にある大きな銀杏の木の実を食べさせるとお乳の出がよくという話も伝えられています。

 

弁財天

大泉寺から興国寺城への途中にある弁天で、井出部落の守護神として大切にされているそうです。

 

まだまだ30℃越えの暑い日が続きますが、稲の穂はすっかり黄金色。

ふと振り返ると、先ほどまで雲に隠れていた富士山がやっと顔を出してくれました。よかったぁ。