・城地種類: 平山城
・築城 : 文明年間(1469-87)
・築城者 : 千葉輔胤
・主な城主: 千葉氏
(登城日:2024年3月16日)
千葉氏代々の居城である千葉城が荒廃したことを受けて、文明年間(1469~1487)に千葉氏の家督を継いだ千葉輔胤が、本佐倉城を築城し本拠としました。天正18年(1590)に豊臣秀吉によって千葉氏が滅ぼされるまで当主9代が居城し、下総の政治・経済・文化の中心となっていました。
本佐倉城跡が見えてきました。酒々井駅から道標が案内してくれたので迷わずに来ることができました。
本佐倉城案内所
城山の麓にある案内所でスタンプを押し、散策マップをゲット。千葉氏と本佐倉城についてのビデオも見ることができます。ガイドさんもいるので、まずはここに来ることをお勧めします。マップを参考に散策開始です。
東山馬場(Ⅴ郭)
案内所のすぐ先にある馬場。奥に見えるのが東山です。
案内板のところで道が分かれます。Ⅳ郭からまわることにします。
Ⅳ郭
千葉氏の家紋が並んでいますが、利用不明の郭だそう。
Ⅳ郭虎口
ここでは堀跡と門跡が見つかっています。
大堀切
城山と奥ノ山を分ける堀切です。この先でも門跡が見つかっています。堀切を抜けると、城山と奥ノ山に道が分かれます。
城山に向かいます。
城山門跡
虎口を抜けると城山内部に続く最後の門がありました。
城山(Ⅰ郭)
城主のための空間で、主殿や庭、倉庫などの跡が見つかっています。城山のすぐ下に案内所が見えます。
奥ノ山(Ⅱ郭)
別名妙見郭とも呼ばれています。儀式や儀礼が行われていたとされ、一段高い基壇が妙見宮(千葉氏の守護神)の跡といわれています。
倉跡(Ⅲ郭)
最も広い郭で、炭化米がみつかっているため倉が建っていたとされます。倉跡の奥からセッティ山との間の空堀を見ることができます。
倉跡から妙見神社に下ります。奥ノ山の妙見宮に建っていたものを移したそうです。妙見様は千葉氏の守護神で、千葉氏の城のある所には必ずあるそうです。
根古屋の館(向根古屋)・中池
ここには中池と呼ばれる池と中島があり、弁天様が祀られていたそうです。外郭の根古屋には侍屋敷がありました。
水の手
民家の脇を城山沿いに進むと、城の貴重な水源がありました。
この先で右の土道に入ります。数日前に降った雨で道がぬかるんでいました。
セッティ空堀
セッティ虎口
セッティへと侵入するための出入口です。門があったと推定されています。
セッティ山(Ⅶ郭)
この山は人質曲輪とも接待館とも伝わっています。立ち入り禁止でした。
竹林の小径
金明竹という真竹の一種で、この辺りだけに群生しているそうです。
倉跡-セッティ空堀
倉跡とセッティ山を分ける空堀です。倉跡から眺めていた空堀です。
南奥虎口
木戸跡や柵列跡などがみつかっています。
東光寺ビョウ(Ⅵ郭)
利用不明の郭ですが、馬場として利用されていたのではないかと考えられています。京成大佐倉駅から歩いて来るとここに着きます。
東山虎口
2つの門と蛇行した狭い通路、内枡形の長方形の空間によって厳重に守られています。
東山(Ⅴ郭)
東山からは筑波山まで望めるそうですが、今日は見えませんでした。印旛沼は当時、京成線のすぐ北側まで来ていて、沼から城までの間は湿地になっていて、敵からの侵入を阻んでいました。
虎口や堀切などがきちんと整備され、案内板も設置されてます。案内所でビデオを見て予習、散策マップをもらってまわりましたが、迷うことなく回ることができました。まずは案内所に行くのがおすすめです。
千葉氏は、千葉常胤ぐらいしか知らなかったのですが、室町時代にはいると一族の対立も多かったようです。やはりここでも、鎌倉公方や上杉氏、北条氏も絡んできて、南北朝以降の関東は一足早い戦国時代だというのが、少しずつ理解できるようになってきました。が、まだまだ勉強が足りません・・・。
-☆-☆ おまけ ☆-☆-
マスコットキャラの「勝っタネ!くん」
下がり松
酒々井宿の北のはずれにある印旛沼に向かって視界が開けた眺めの良い場所で、景勝地として浮世絵や紀行文などに描かれています。田んぼの辺りは沼でした。筑波山は見えませんでした。この道が成田街道なんですね。
下宿麻賀多神社
立派な木が沢山ありました。ここは参道が曲がっていますね。
酒の井
酒々井の地名の由来にもなった井戸で、孝行息子のために、井戸から酒が出たという伝説が残っています。
上岩橋貝塚
約20万年前、ここが古東京湾だったころに堆積してできた貝層です。隣には、内方防空壕跡もありました。