マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

小田原城さんぽ 2024.3.4(月)

小峰御鐘ノ台大堀切 西堀

 

小田原駅 → 幸田門口跡 → 大手門口跡 → 小田原城址公園 → 八幡山古郭東曲輪 → 小峰御鐘ノ台大堀切東堀・中堀・西堀 → 香林寺山内西 → 三の丸外郭新堀土塁 → 早川口遺構 → 箱根口 → 小田原城址公園 → 弁財天曲輪 ・ 蓮池 → 小田原駅

 

 久しぶりにゆっくりと小田原城を歩いてきました。天守に登城して、総構まで攻めてきました。

 

 駅前からお城が見えるのはいいよね

 

 駅前の商店街を抜けてお堀端通りに向かいます。アーケードの天井には歴代の小田原城主の家紋が飾られています。

 

幸田口門跡

 幸田口門跡に来ました。ここは、三の丸の入口にあった門の跡で、土塁の上を歩けるようになっています。北条氏時代の初期は、ここが大手門だったそうです。

 

 土塁を通り抜けて国道につながる道を歩いていくと向かいに立派な建物。

だるま料理店

 明治時代から続く日本料理店です。建物は関東大震災で倒壊後の大正15年に再建されたもので、国登録有形文化財に指定されています。いつか行ってみたいな。

旧明和銀行本店(ろうきん)

 資料によって異なるけど、昭和初期(昭和3年?)に建てられました。100年近く使われ続けている建物です。

 

大手門跡

 歩道橋のところで、合流した国道1号線は、海側に曲がりますが、江戸時代は御成道と呼ばれていて、まっすぐ大手門から城内に入れるようになっていました。第三代将軍家光の上洛にあわせて、箱根口から大手門が移されています。大手門に使われていた石垣が残され、大正時代に浜手御門にあった鐘楼が石垣の上に移されています。鐘は太平洋戦争で供出されたので、昭和28年(1953)に作り直されています。

 

馬出門

 大手門を抜け、お堀端通りにでて「正規登城ルート」と呼ばれるルートで登城。こちらも家光の上洛にあわせて、寛永9年(1632)の近世化工事で整備されたものです。寛文12年(1672)に枡形形式に改修されましたが、関東大震災で倒壊。平成21年(2009)に発掘調査を経て、江戸時代の姿に復元整備されています。

 

馬屋曲輪

 ここも寛永9年の近世化工事で完成した曲輪です。大腰掛跡や馬屋、切石敷井戸の跡が発掘調査で見つかっています。徳川将軍家が来たときに使われる特別な物でした。また、寛永20年(1643)には南東角に二重櫓が建てられました。元禄地震(1703)で倒壊、二重櫓だけが再建されましたが、明治時代に取り壊されて櫓台石垣も埋め立てられました。平成22年(2010)に石垣復元工事が完成しています。

 

旧小田原町図書館(馬屋曲輪)

 昭和8年、小田原町図書館として建設された建物が残っています。現在は、二の丸観光案内所となっています。

 

銅門・住吉堀

 寛永9年の近世化工事で完成した門です。大正12年(1923)の関東大震災で石垣が崩落し、その後、堀は埋め立てられて小田原高等女学校(後の城内高等学校)が設置されていました。後に行われた発掘調査で、北条氏による障子堀や江戸時代初期の野面済みの石垣なども確認されています。1988年から復元工事が行われ、平成2年(1990)に住吉橋を復元、平成7年(1995)には銅門櫓台石垣が完成しています。

 

銅門

 銅門は、二の丸表門にあたる枡形形式の城門です。渡櫓門は、高さ約23m、幅約6m、長さ約23m。明治5年(1872)に解体されましたが、平成9年(1997)に伝統的な工法で復元されています。梁には国産黒松、柱と扉にはラオス産の桧が使われています。

 

 二の丸から馬出門がよく見えます。江戸時代はもちろん土塀があったので、狙い放題です。

 

 早咲きのさくらがきれいです。

 

伝・銅門疎石  銅門・土塀模型

 

二の丸跡

 二の丸には藩主の御殿や政所などがありました。廃城後は、御用邸に立て替えられましたが関東大震災でほぼ全壊したため廃止、昭和4年(1929)に小田原第二尋常高等学校(後の城内小学校)が建設されました。平成4年(1992) 小学校は統合に伴い移転し、残された旧講堂は、現在はNINJA館として利用されています。

 

イヌマキ

 樹齢約520年以上、幹囲4.5m、根元周囲約6m、樹高約20m。小田原城の歴史の証人です。

 

常磐木門

 本丸の正門に位置する門で、戦国時代から本丸に存在した七本の松(巨松 1本のみ現存・樹齢約400年)に由来し、永遠の繁栄への願いを込めています。元禄地震で倒壊・炎上し、宝永3年(1706)に渡櫓門に南多門櫓・北多門櫓が付随する枡形形式で再建されました。明治3年(1870)の廃城と共に解体されましたが、昭和46年(1971)に小田原市生30周年事業の一環として復興されました。

 

本丸跡

 最後まで残っていたサルたちも去年の12月に茨城に引っ越して、サル舎も撤去されていました。何となくウメ子がいなくなったときに動物園が閉園したと思っていたけど、サルたちがいたよね。なので動物園は去年の12月に73年の歴史に終止符を打ったのでした。

 本丸には、天守台と本丸御殿がありました。この本丸御殿は、徳川将軍の宿所として建てられたものなので、藩主といえども使用することができませんでした。上洛が途絶えた後も維持されていましたが、元禄地震(1703)により倒壊・焼失してからは再建されることはなく、二の丸御殿を宿所としていました。

 

天守

 外観三重内部四階の天守櫓に、入口にあたる付け櫓、両者をつなぐ続櫓で構成されています。初代天守(慶長年間)は寛永地震で損壊。その後、二代目天守が再建されますが、これも元禄地震で崩壊。三代目天守は宝永3年(1706)に再建されますが、明治3年(1870)廃城により解体されてしまいます。現天守は、昭和35年(1960)に鉄筋コンクリートで復興されたものです。展示がリニューアルされてから登場するのは初めてかもしれない。廻縁ができたので復興天守になってしまったのですが、ここからの眺めは気持ちがいいです。

 

御用米曲輪

 江戸時代初期から幕府天領などから納められた米を保管する蔵が6棟置かれていたそうです。蔵跡周辺からは、徳川将軍家の家紋である三つ葉葵の軒丸瓦が多数出土しています。小田原藩の用米は場外の「元藏」や「新蔵」で管理していました。南西側には戦国時代の建物群や庭園跡が確認され、北条氏の主要人物の居館であったことが推定されています。

御用米曲輪北西土塁

 野球場として利用されていた時に土塁の一部が入口にするために削られました。御用米曲輪の発掘調査の際に判明した戦国時代からの土塁の変遷が分かるように描かれていました。

 

 青橋を渡ります。小田原城はもっと広かったんです。城郭は線路で分断されてしまいました。

 

 橋を渡った先に早咲きの桜がさいていました。

 

八幡山古郭 東曲輪

 ここからは小田原城が一望です。大森氏は最初、八幡山に城を構えたとか。小田原合戦の頃、現天守には氏直が、こちらにあった天守には氏政がいたそうです。八幡山古郭からは天守がよく見えます。古郭の写真撮り忘れたので、天守から見た古郭の写真を張っておこう。

 

大久保神社

 初代城主大久保忠世と十代忠真を祀る神社です。廃城後に天守台の上に祀られましたが、御用邸ができたのでこちらに移されたそうです。

 

毒榎平

 小田原城の最西端にあたる重要な場所になります。海と小田原城を望むビュースポットになっています。もう少しすると桜も咲いてお花見スポットになります。

 

小峰御鐘ノ台大堀切 東堀 

 小峰御鐘ノ台(標高123.8m)を頂点として、周囲9kmに渡って堀と土塁を構築した外郭が総構です。小峰御鐘ノ台大堀切には3つの堀切があり、残されている東堀の一部が散策路として堀底を歩けるようになっています。深さは8~10m程ですが、発掘調査では12~15mあり、堀底は障子堀になっていたことが確認されています。東堀は戦国時代の三の丸新堀と同時期につくられています。

 

小峰御鐘ノ台大堀切 西堀

 3つの堀切のうち中堀と西堀は、天正18年(1590)の小田原合戦への備えとして、総構と一緒に造られたものです。

 

小峰御鐘ノ台大堀切 中堀

 今は車も通れるような道になっています。

 

蓮船寺 

 中堀から入りましたが、東堀へ下りることもできました。北条氏重臣井出家の菩提寺で、板橋見付の惣構堀の西側にあってものが、戦後東海道新幹線の開通により移転したものです。井出氏は小田原開城後、氏直・氏規に従って河内国に移り、狭山北条氏を支えました。

 

東堀 横矢がかり

 中堀を歩くと、中にははいれなかったけれど東堀の横矢掛りの上が見えます。

 東堀から見ると横矢掛りはこんな感じ。

 

御鐘ノ台 

 中堀を出たところで西に進みます。ここは小田原城の最西端にあたり、小田原合戦の際は陣鐘が置かれていたといわれています。隣にあるのは、北原白秋の「からたちの花の碑」白秋はこの辺りを散歩しながら、この歌を書いたそうです。からたちの花の小径と名付けられています。

 

総構 香林寺山西

 

 中堀から新堀土塁に向かいます。グランドで分断されていますが、こう見ると東堀と新堀が続いていたのがよくわかります。

 

三の丸外郭 新堀土塁

 石垣山が目の前です。突然お城が現れたらびっくりしますよね。ここは午前10時から午後3時までの時間限定の公開。のんびりしすぎて時間を少し過ぎてしまったのですが、ぎりぎりで見学できました。

 

樹高山西照院 伝肇寺(浄土宗)

 1383年に良肇上人が開山し創建しました。戦国時代には北条氏直が深く帰依しています。大正時代、寺の境内に北原白秋が「みみづくの家」を建てて約8年間住んでいました。作品のうち約半数は、この地で作られたと伝えられています。関東大震災後、白秋は小田原を離れ、境内も倒壊して廃寺寸前となりましたが、昭和に入り再建されました。

 

伊神神社

 北条氏綱が永正17年(1520)に創建した神社で、主祭神は三浦荒次郎義意。北条早雲が滅ぼした三浦氏最後の当主です。自刃した三浦義意の首がこの地にある松の木に引っかかり、三年間腐りもせず通行人を睨みつけていました。総世寺の忠室宗考和尚が出向いて読経し、一句を手向けると首は白骨となり落ちたので、松の下に祠を作り、義意の御霊を祀ったのが始まりとされています。北条氏が滅ぼした大森氏が開いたお寺の和尚だからこそ義意に伝わったのかもしれないですね。

「うつつとも 夢とも知らぬ ひと眠り 浮世の隙を 曙の空」

 

総構 早川口遺構

 土塁と堀を二重にして防御を固めた場所で、小田原城総構の虎口であったと考えられています。江戸時代は板橋口に虎口が移ったため、戦国時代の遺構が残されています。

 

小田原城三の丸 箱根口

 小田原城まで戻ってきました。箱根口は江戸時代の初期まで大手口だった門です。当時の石垣と土塁が残されています。

 

 御感の藤の脇にある早咲きの桜が満開でした。

 

御茶壺曲輪

 この曲輪も将軍家のための曲輪。宇治の茶を献上する御茶壺道中の際に、往路で空茶壷を納めるための藏が設けられていたそうです。

 

弁財天曲輪 蓮池

 江戸時代、三の丸から二の丸への裏手の入口でした。北側の弁財天曲輪と蓮池という天然の堀とともに城の北側を守っていました。大手口は将軍専用だったので、小田原藩士たちはこちらの入口を利用していたそうです。上杉謙信武田信玄が攻め寄せたときはこの辺りが激戦地となったそうです。

 

海鮮茶屋魚國

 駅まで戻ってきました。帰りにちょっと覗いたら、中途半端な時間だったせいか待たずに入れました。美味しかったです。

 

 小田原城もじっくりまわると見どころがいっぱいで面白いですね。北条氏の時代は本拠地でもあったけど、領土の一番の西の砦としての機能もあったから、山中城を半日で落とされて、すぐに囲まれてしまったのは痛かったですよね。徳川家康江戸城を本拠としたのは正解なんですね。小田原城は、小田原藩の城というよりも、江戸城の西の要なんです。そんなところも北条氏に比べて大久保氏の存在が薄い原因なんでしょうかね。一番長い小田原城主なのに、二宮尊徳にも負けている感じです。