☆データ☆ (100名城ガイドブックより)
・城地種類 平城
・築城 永正16年(1519) 武田信虎
・主要城主 武田氏
(登城日: 2017年4月15日)
0358
武田氏館(西曲輪・北側枡形虎口)
甲斐源氏の流れを汲む武田信虎が、石和から館を写したことに始まり、その後、信玄、勝頼と武田氏三代にわたり約63年続いた館です。扇状地の頂部の三方を山に囲まれた要害の地に築かれ、四方に濠と土塁をめぐらせてあります。甲府の地名は、「甲斐の国を司る府中」に由来し、武田信虎が、現在の武田神社の地に館を置いたのが始まり。
神橋脇の水堀
中曲輪
現在神社のある場所は、中曲輪でした。
信玄公 御使用井戸
躑躅ヶ崎館の中心部に掘られた井戸は、本殿右側にあります。
姫の井戸
信玄公の娘が産湯をつかったと云われています。
西曲輪 南側枡形虎口
西曲輪 南側水堀
土塁の上は歩けるようになっています。
西曲輪
北側虎口の土塁の上から見た西曲輪
西曲輪 北虎口
土橋から見る堀の深いこと。
館というより城の風情です。写真で深さが伝わるかなぁ。西曲輪と中曲輪の間の堀も深いです。写真が撮れなかったのだけど、黒い鳥が何羽かいて飛ぶと背中の一部が白くて印象的でした。後で図鑑を調べてみたらアマツバメみたいだけど、よくわかりませんでした。
味噌曲輪
西曲輪 北虎口から土橋を渡ると視界が開けます。この辺りがたぶん味噌曲輪。奥には信玄公が生まれた要害山が見えます。
この辺りが、無名曲輪でいいのかな。
大手門東遺構
土塁や惣堀も復元されています。
奥に見える石垣の上が蓮華池。そしてそのわきつながる丘が躑躅ヶ崎
厩跡平面表示
蓮華池まで上ると大手門東遺構の全体がよくわかります。
「人は城 人は石垣 人は塀 情けは味方 仇は敵なり」を信条に、人を城や石垣、塀にもまして信頼し、「和」を尊び、生涯、城を持つことはなかったという信玄公。
武田神社だけをお参りして帰っていたら、城をもたない武田氏というのも納得ですが、まわってみると堀や土塁などでしっかりと固められた躑躅ヶ崎館はやっぱりちょっとした城です。甲府駅から歩いてきた武田通りには家臣団の屋敷跡があり、さすが戦国時代。神社の東側の車の出入口が武田氏の時代は大手でした。大手の堀にかかる橋の写真、撮ってなかったなぁ。大手門東遺構はとてもきれいに整備が進んでいます。西曲輪は土塁や堀が整備されて残っています。土塁の上を歩いていると、やっぱりここは城として造られているんだと感じました。100名城スタンプは宝物殿でもらえます。が、2つあるのに2つともきれいに押せない!とても残念な感じのスタンプになってしまいました・・・。せっかくだから宝物館も見学。一番気に入ったのは大久保長安が着用していたという鎧兜。洒落者のイメージのある長安にぴったりの粋な鎧兜でした。