・城地種類 平山城
・築城 天正9年(1581) 築城者 武田勝頼
・主要城主 武田氏
(登城日: 2019年10月6日)
新府城 (乾門枡形虎口)
天正9年(1581) 武田勝頼により、武田領国の新しい首都(新しい府中)として八ヶ岳からのびる七里岩の断崖の上に築城されました。しかし翌年の天正10年(1582) 3月 織田軍の侵攻を受け、勝頼自ら新府城に火をかけ、岩殿城に向かうも小山田信重の離反にあい、田野天目山で自害。武田家は滅亡します。
東出構
西出構
堀
乾門枡形虎口
木橋橋台
井戸
二の丸
本丸
武田勝頼公霊社
藤武神社
西三の丸
大手枡形虎口
丸馬出
武田信玄の四男 武田勝頼。本来なら武田の家督を継ぐ立場ではありませんでした。母親が諏訪御寮人と呼ばれる諏訪家の人間で、諏訪家を継ぐために育てられました。そして諏訪宗家最後当主 頼重を殺して滅ぼしたのは武田信玄。孫である勝頼は、信玄に敵対して滅ぼされた家の子でした。なので、勝頼には「信」の字は与えられていません。
ではなぜ継ぐことになったかというと、嫡男義信が謀反により自害。次男は盲目で出家。三男は早世。というわけで四男の勝頼にまわってきたわけで、なりゆきで後継ぎに据えたという感じでしょうか。家臣も、諏訪の人間が・・・みたいなものはあったようですし。武田を滅ぼした愚息のイメージがありますが、実は優秀で、信長も侮れない相手と認めていたとか。あと数年信玄が生きていれば、長篠の戦いで引いていれば、謙信が長生きしていれば。歴史にifはありませんが、城跡に立つといろいろ考えてしまいます。
☆おまけ☆
続百名城スタンプは民俗資料館あります。不便な場所にあります。もう少し近くにあるといいのだけど。裏手にはちょっと面白いものがありました。
「花子とアン」で使われたセットを手直しして展示しています。よく見ると新しいものだというのがわかります。
小野家住宅
韮崎宿にあった豪商の蔵座敷が移築されています。富士身延鉄道会社(身延線)を創設した実業家小野金六の生家です。で、なぜ教会かというと・・こちらも「花子とアン」で教会として使用されたからです。
こちらは民俗資料館から見た景色。奥のほうに武田八幡宮があるはず。