忍城(御三階櫓) 続日本100名城
室町時代中期、成田氏によって築城され、天正18年(1590)豊臣方の水攻めに耐え抜き浮き城または亀城と称されました。開城後は松平忠吉が入城。その後松平伊豆守信綱が城主となり、阿部氏の時代に御三階櫓が新たに建設され城郭改修や城下町の整備が行われました。明治維新後に廃城となりましたが、昭和63年(1988)、本丸跡に御三階櫓(行田市郷土博物館)が再建されました。
石田堤 → 丸墓山古墳→ 行田市駅(集合) → 忍城水堀跡(今は窪地)諏訪曲輪門跡の碑→ 諏訪神社 諏訪曲輪土塁(現存)→ 本丸跡 本丸土塁(復元)→行田市郷土博物館 → 下忍口跡(酒巻靱負守備・戦闘は弟の右衛門次郎)→ 水城公園【休憩】駒形屋水城公園売店(ゼリーフライがあります) → 佐間口跡(正木丹波守備)佐間天満社→ 高源寺 正木丹波開基 → 大手門跡・枡形門跡 → (行田兵衛尉館跡・鳥居強右衛門居宅跡) → 長野口門跡(柴崎和泉守備) → 行田市駅
「のぼうの城」を見て行ってみたいと思っていた忍城。街道歩きでお世話になっている”ちゃらぽこ”の散歩会で歩いてきました。古地図を見ながら講師のサイガさんが映画と史実の違いも丁寧に教えてくれて楽しい散歩会でした。ビデオを借りて検証しなくちゃ。行田兵衛尉館跡・鳥居強右衛門居宅跡は予定に入っていたけど寄らなかったような・・。今回の散歩会で訪れない石田三成が本陣を置いた丸墓山古墳や石田堤は集合前に見てきました。
石田堤(下忍)
堀切橋(土木遺産・昭和8年竣工)
忍城を水攻めにした際、この付近で石田堤が破堤したことが名前の由来とされています。
丸墓山古墳
石田三成が陣を張った古墳。高さ約19m、直径105mの円墳は日本最大で、埼玉古墳群の中では一番高い墳丘です。
丸墓山古墳から見た忍城方面
石田堤
丸墓山に続く桜並木に石田堤の一部が残っています。
---☆☆
地獄橋跡
集合時間の12時にはすっかり雨も上がり絶好の散歩会日和となりました。行田市駅から歩いて地獄橋跡へ。ここから左の道に入り帯曲輪に入ります。写真右手は堀だったそう。
帯曲輪から続くこの四角い空地は古地図のまま。この先に皿尾口があります。
諏訪曲輪御門跡
正面に続く道が虎口。駐車場は堀でした。
諏訪曲輪土塁
鳥居の脇に土塁が残っています。
本丸跡
こちらは復元された土塁跡
御三階櫓
復元された忍城御三階櫓からみた丸墓山古墳方面。矢印の辺りが丸墓山古墳。映画で見るとすごく大きく見えたけど、今は建物が多くて教えてもらわなければわかりません。
太鼓門跡
太鼓門跡から続く道は当時の道筋が残っています。
成田門跡
下忍口跡(酒巻靱負守備・戦闘は弟の右衛門次郎)
水城公園
お城の堀の跡に造られた公園で桜の名所になっています。公園や市役所の辺りもすべて沼でした。
天真山高源寺
戦後、正木丹波守は戦で亡くなった霊を弔うため、武士を捨てて高源寺を開基しました。
佐間口跡(正木丹波守備)佐間天満社
天満社の辺りが佐間口とも、正木丹波守の屋敷がこの付近にあったとも言われています。
佐間口脇の堀跡
暗渠のようだけど、道路をして使われているわけでもなさそうネコたちの昼寝場所かな。
八軒口御門跡
大手門跡
大手門跡と堀跡。この辺りも昔の地形が残っています。講師のお話しを聞いていると戦闘の様子が目に浮かぶようです。
長野口に向かって昔の堀跡だった道路を歩いていきます。忍川に近いこの辺りの建物は一段高くなっています。ここは船着き場だったのかなぁ。
忍川
ここに船着き場がありました。荷物を江戸へと運ぶ中継地として重要な城下町でした。
長野口門跡(柴崎和泉守備)
☆おまけ☆
水城公園で行田名物のゼリーフライをいただきました。じゃがいも、おからをベースに油で揚げた食べ物。形が小判(銭)に似ていることから「ゼニーフライ」が「ゼリーフライ」に変わったとか。食べた感想は、コロッケ!
埼玉古墳
さきたま緑道
行田市マンホール
足袋蔵 1.時田蔵(かるた足袋)2. 孝子蔵(孝子足袋)3.十万石ふくさや(呉服商山田商店 のちに足袋蔵)4.大澤蔵(花形足袋)