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【続・日本100名城 その9】  130  高島城

130 高島城 (長野県諏訪市) 別名: 諏訪の浮城 島崎城

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 ・城地種類 平城

・築城   文禄元年(1592)~ 慶長三年(1598) 

・築城者  日根野高吉

・主要城主 日根野氏 諏訪氏

                        (登城日:2020年10月25日)

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高島城

高島城 

諏訪は、諏訪社の神職諏訪氏が領主として納めていましたが、当時の領主諏訪頼忠が徳川家康の関東転封に従って武蔵国へ移った後、豊臣秀吉の家臣日野根高吉が諏訪に転封し、7年ほどかけて築城しました。ここ諏訪湖に突き出た島状の場所で、漁業を営む村落があったことが記録に残っています。完成当時、城は湖水と湿地に囲まれ諏訪湖に浮かぶようだったので「諏訪の浮城」と呼ばれました。関ヶ原後、諏訪頼水(頼忠の子)が諏訪藩主となり、明治維新まで諏訪を治めました。明治8年(1875)に天守閣が撤去され、本丸跡が高島公園として一般開放されました。

 

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高島城縄手(並木通り)

諏訪一丁目の交差点から甲州街道を外れて並木通りに入ります。城の北側の城下町(兼甲州道中上諏訪宿)から城までは一本の道しかありませんでした。阿原(湿地)を埋め立てて造られた道で、1600年代後半には「湖の中の一本道で両側には柳並木があった。」と書かれています。諏訪湖の水位が下がるにつれて乾地となり、1700年代後半には現在の欅並木に変わったそうです。

 

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城は、北から衣之渡郭、三之丸、二之丸、本丸が一直線に並ぶ「連郭式」と呼ばれる形態になっています。この写真ではわかりませんが、縄手からくると枡形になっており、正面に大手門が鳴り、その奥に衣之渡郭がありました。

 

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衣之渡川

上川から分かれた中門川がさらに分かれで衣之川になり諏訪湖に流れます。治水のために造られ堀の役目も果たしていました。

 

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高島城三の丸跡

衣之渡川と中門川との間が三の丸で、道から東には堀をめぐらした三の丸御殿があり、道から西には家老三之丸千野家の屋敷がありました。現在は、大正5年(1916)創業の味噌蔵 丸高蔵となっています。山梨県から移築した蔵は味噌蔵として、木曽の薮原から移築した民家は売店として使われています。

 

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三の丸温泉跡

高島藩七代藩主 諏訪忠粛が下鶴沼(現在の弁天町)に自然湧出していた温泉を引いて浴室を造りました。当初は藩主が使用していましたが、城内の藩士も使用するようになり、明治維新後は払い下げられ共同浴場として運営されていました。使用者の減少により平成八年(1996)に閉鎖し取り壊されてしまいました。

 

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冠木門

絵図に残る門は、楼門または高麗門と呼ばれる屋根付きも門ですが、当初は冠木門だったため名前がそのまま残っていると考えられています。現在は櫓門として復興されています。

 

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冠木門石垣

石垣は野面積みで築かれていますが、稜線のところだけ加工した石を用いています。諏訪湖岸の軟弱な地盤に築かれた城だったので、沈下しないように大木で組んだ筏の上に石垣を積んでいます。

 

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天守

昭和45年(1970)に本丸跡に外観復元された鉄筋コンクリート造りの三層三重の望楼型天守です。当時の屋根は瓦葺ではなく柿葺きでした。湖畔のため地盤が軟弱であるからとか、寒冷地のため瓦が割れてしまうからといわれています。

 

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天守北側には二の丸跡が見えます。

二の丸といえば、二の丸騒動。六代目藩主 諏訪忠厚は政治に無関心な暗愚なお殿様。実務のほとんどを筆頭家老 千野貞亮(三の丸)が行っていました。もう一人の家老 諏訪頼保(二の丸)は千野家に実権を握られまいと策略をこらし藩主忠厚に嘘の諫言を信じ込ませて、貞亮を罷免/閉門させてしまいます。その後、貞敦は復帰したものの、後継ぎ問題でまたしても頼保に罷免/押込にされてしまいます。頼保は自分に有利になるよう兄の軍次郎を差し置き、弟の鶴蔵を後継ぎにたてるよう忠厚に勧めます。藩の行く末を憂いた貞亮は江戸へ出向き、忠敦の娘婿である奏者蕃の松平乗寛へ訴えでて、乗寛の説得により忠厚は隠居、軍次郎が家督を継ぐことになりました。頼保は切腹となり、ようやく騒動は終結したのでした。騒動後二の丸屋敷は取り壊され、藩校 長善館が建てられました。

 

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東側テラスからの眺め

本丸庭園は秋の装い。奥には富士山も見えました。

 

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西側テラスからの眺め

諏訪湖がみえます。今では築城当時はすぐ下まで湖面は迫っていましたが、今はだいぶ遠くになってしまいました。

 

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隅櫓

お茶席になっていました。

 

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多門櫓跡

 

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富士見櫓跡

 

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本丸跡

 

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諏訪護国神社

諏訪招魂社として明治33年(1900)創建。諏訪の神社には必ずといっていいほど御柱が建っております。

 

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諏訪氏家紋

「丸に諏訪梶の葉」が家紋として使われています。梶の葉が使われているのは諏訪大社と同じですが、諏訪大社には丸がありません。諏訪大社上社は、梶の根が四本。諏訪大社下社は梶の根が五本です。諏訪領主の家紋は、根が四本です。歴史をたどると、上社の諏訪氏と下社の金刺氏が争い諏訪氏が勝利をおさめたので、諏訪領主紋は、根が四本となりました。

 

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三之丸御門裏門(御川渡門跡)

城が湖に面していたころは、ここで湖の船に乗ることが出来ました。この門は三之丸御殿の裏門で、所有者から市に寄贈されここに移築されました。

 

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三の丸門(橋本屋)

こちらの写真は、甲州街道沿いにある高島城三の丸門を移築したもの

 

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木橋天守

こちらがおすすめの写真スポットだそうです。

 

 甲州道中上諏訪宿から高島城へ登城してきました。今はすっかり市街地となっている昔の湖の中の一本道を進んでいきます。三之丸には温泉があったんですね。温泉を開いた忠粛は、お家騒動の際には命を狙われたりと大変だったようですが、藩主となってからは灌漑用水や耕地の開発、藩政改革を行ってある程度の成功を収めたようです。お殿様も温泉を楽しんで、テルマエ・ロマエみたいな世界が広がっていたらなんて想像するとちょっと楽しいですね。

今回、諏訪氏諏訪神社の歴史を調べてみると、大祝=現人神なのに、なんやら血生臭い話がいくつも出てきました。上社と下社の戦いもそうだけど、御柱も実は人柱(生贄)だったのではないかとか、御柱祭りで死者が出るのを黙認しているのは、人柱(生贄)を捧げるためだとか。御柱祭りは一度も中止になったことがないそう。もし中止したらとんでもない災いが起きてしまうのかもしれませんね。4本の柱は何を封じているのでしょう。なんだか深くて怖い話が隠れていそうです。