146 諏訪原城 (静岡県島田市) 別名:牧野原城、牧野城、扇城
・城地種類: 山城
・築城 : 天正元年(1573)/ 天正三年(1575)以降
・主な城主: 室賀氏(城番)、牧野氏(城番)、松平氏(城番)、今川氏(城番)
(登城日:2023年8月20日)
遠江侵攻のため、武田勝頼が牧之原台地に築かせた城です。城内に諏訪神社を勧請したことから「諏訪原城」と呼ばれました。長篠の戦いで武田軍が大敗した後、徳川軍の猛攻により落城、「牧野城」と改名され、高天神城を攻略するための拠点となります。その後、武田氏の滅亡により廃城となりました。
諏訪原城ビジターセンター
旧東海道に面しているビジターセンターからスタート。スタンプを押し、パンフレットをもらって、センター内に展示されている資料を確認したら、いざ出陣!
大手南外堀
今福浄閑戦死墓塚の碑
大手曲輪跡に広がる茶畑の中にある碑です。何の説明もありません。調べてみると、今福浄閑(友清)は、武田氏の譜代家臣で久能山城の城主を務め、諏訪原城の城番もしていたようですが、嫡男や次男とも混同されているようで、諏訪原城で戦死したとも、久能山城で戦死したともいわれています。久能山の麓には嫡男虎孝の墓があります。生き残った子孫は徳川家に仕えたそうですが、結局よくわかりませんでした。
大手北外堀
諏訪原城跡碑
惣曲輪
二の曲輪中馬出(三日月堀)
武田流築城術の特徴とされる丸馬出。大きくて立派です。
薬医門(二の曲輪北馬出の門)
平成28年(2016)に発掘調査で確認された門の疎石から復元されました。
富士山も望めるようですが、雲が・・・
北馬出門からの中馬出と二の曲輪
外堀
大手まで続く大きな横堀
二の曲輪から本曲輪へ
内堀
本曲輪
本曲輪の下の内堀。もっと下りられるようではあるけれど、案内もなくよくわからないので、内堀まで下りたところで戻ってきました。
台地の端にあるので、ここからは大井川の流れがよく見えます。ここからも富士山みえるのかな
本曲輪の端に沿って道が続きます。
本曲輪南側の堀も深いこと
二の曲輪との間にある内堀を下りていきます。
カンカン井戸
内堀に下りると堀の真ん中にあります。きっと水源が深いんだろうね。
水の手曲輪
カンカン井戸の反対側を下ります。下っていくと足元に水が流れてきました。湧き水があるのかな。きっと井戸もこのくらいの深さまで掘らないと水が出ないのでしょう。もう少し進めそうですが、足元が濡れるので戻ります。ここは曲輪っていうか、谷底のようです。おまけに蚊が多い。他のところにはいなかったのに・・・
二の曲輪まで戻ってきました。馬出に向かいます。
二の曲輪東内馬出
二の曲輪南馬出
諏訪神社(二の曲輪大手馬出)
武田勝頼が守護のために勧請したと伝わります。落城後の神社はどうなっていたのでしょう。誰かが守っていたのでしょうか。
二の曲輪大手馬出
ここの丸馬出も堀が深くて大きい
外堀(大手馬出と二の曲輪の間)
高天神城に続き、徳川と武田の駿遠攻防戦の舞台となった諏訪原城に行ってきました。武田氏が滅亡したことで不要となったのが幸い?して遺構がよく残っています。大きくて立派な丸馬出は見応えがあります。最近の調査では、ほとんどが徳川時代に改修されているとか、いないとか。
山城ですが、とてもよく整備されているし、高低差もあまりないので、とても歩きやすい城です。1時間ほどで一周できます。ビジターセンターの展示もわかりやすいので、見学してからまわるのがおすすめです。金谷駅からビジターセンターまでは20分ほど石畳の坂道を上ります。グーグルマップで諏訪原城跡を目的地にして金谷駅から検索すると、出曲輪跡の方から細い山道を登るようなルートが出てくるんだよね。本曲輪や水の手曲輪の先に道が続いていたので、そのあたりに出るんじゃないかと思う。今の時期は藪こぎになりそうだし、下草の生えてない乾燥した冬とかじゃなければ歩きにくそうです。ビジターセンターから歩くのが王道です。
そういえば、武田から徳川の城になった後は、牧野城と改名されて何百年も経っているのに、どうして諏訪原城なんでしょうね。すぐ廃城になったとはいえ、地名を諏訪之原から牧野原に変更しているくらいなのに不思議です。そして、城主には今川氏真もいるのですね。駿河の国主に返り咲いていたかもしれないとか。天寿を全うしているので、なかなか世渡り上手です。今年は築城450年の記念イヤーということで、盛り上がっている諏訪原城でした。