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【続・日本100名城 その14】 147  高天神城

147 高天神城 (静岡県掛川市) 別名:鶴舞城 土方城

・城地種類: 山城

・築城  : 16世紀前後?

・築城者 : 今川了俊

・主な城主: 福島氏、小笠原氏、岡部氏

                          (登城日:2023年8月3日)

高天神城 (横堀)

高天神城を制する者は遠江を制する」といわれた要衝に築かれ、標高132mの鶴翁山の地形を巧みに利用した難攻不落の山城です。築城年月は不明ですが、今川氏の支城として築かれたとされます。桶狭間の戦い今川義元が討たれた後、徳川の城となりますが、武田勝頼に奪われます。長篠の戦で勝利した家康が再び奪い返しますが、武田氏滅亡により戦略的価値を失った高天神城は廃城となりました。徳川と武田に翻弄され続けたお城です。

 

追手門(東峰)から攻略

 

想像図 案内図

 

追手門跡

高天神城のアプリを入れておくと、丸い黄色い案内板にかざすとバーチャルの城を見ることが出来るそうです。この杉は、町指定天然記念物になっています。樹齢は300年とか。

 

着到櫓跡

追手門を上ったすぐ先にあるのは、敵が攻めて来た時、鐘を打ち鳴らし戦闘配備するよう指示をした櫓跡といわれています。

 

山道を上っていきます。

 

三の丸跡

周囲が断崖絶壁となっている強固な曲輪です。

 

三の丸からは、富士山が見えるそうなんだけどなぁ

 

本丸に向かいます。道の片側は切り立った崖になっています。

 

御前曲輪

本丸に隣接する曲輪には、高天神城城主小笠原与八郎長忠(信興)と奥方の顔出し看板。看板の奥に見える台座は、昭和九年に地元出身の軍医少将が故郷をしのんで建てた模擬天守の跡。残念ながら昭和20年に落雷によって焼失していますが、駐屯していた陸軍が破壊したともいわれています。

 

元天神社

高天神社は、東峰に鎮座していたそうです。

 

本丸跡

東峰の最高所位置しています。西側には土塁が築かれていますが、東側は絶壁といえるほどの急斜面で、天然の要害になっています。

 

家康により、高天神城を攻めるため築かれたという砦もみえます。富士山も見えるはずですが・・・

 

大河内石窟

本丸跡の奥から的場曲輪に出ると岩窟への入口があるので、細道を下ります。第一次高天神城の戦いで落城したにもかかわらず、勝頼の命に服さなかった軍監・大河内源三郎が幽閉された石窟があります。第二次高天神城の戦いで家康が奪還するまで七年近くを牢内で過ごしています。その後、剃髪したものの、長久手の戦いに召されて討死したそうです。

 

的場曲輪

弓矢の訓練をしていた場所といわれていましたが、発掘した際に砂利を敷き詰めてあったことが確認されたので、弾薬などを置いていた場所ではないかともいわれています。ここは風が抜けて気持ちがよかったので、湿気防止にはいいのかもしれません。

 

東峰から下りてきました。高天神城は、一城別郭の城で、本丸のある東峰と西の丸のある西峰に分かれています。わかりやすい写真を撮っていなかったのですが、搦め手から上ってくるとここに到着。この辺りが、西峰と東峰のちょうど分岐点にあたります。

 

西の丸には高天神社が祀られているので、山城というよりも神社の参道ですね。西峰に入ります。

 

参道脇から東峰に続く分岐点を眺めるとこんな感じ。ちょっとわかりにくい・・

 

井戸曲輪(かな井戸)

水源に乏しい高天神城では貴重な飲み水になっていました。

 

西の丸跡 高天神神社

高天神城の守護として創建された神社です。もとは東峰にありました。

 

神社の脇から馬場平に向かいます。ここは大きな堀切が造られています。

 

馬場平

南側はすぐに崖になっているので、見晴らしがいいです。城内にある東屋の中では、ここが一番気持ちのいい場所です。奥には海が見えます。

 

甚五郎抜け道(犬戻り猿戻り)

馬場平の一番奥にある抜け道です。第二次高天神城の戦いで軍監・横田甚五郎は、勝頼に落城を知らせるため、ここから尾根続きの険路を辿って脱出したとされています。両側が崖のため、登山に自信のある人でなければ進まないほうが良いと書かれていたので、ヘタレは退却します。

 

井戸曲輪に戻ってきました。二の丸へと進みます。片側は崖になっています。

 

二の丸跡

断崖絶壁にある高天神城の中では緩やかな傾斜地にあるため、第一次高天神城の戦いでは穴山梅雪がここから攻めて落城させました。武田軍は、弱点となる二の丸から井楼曲輪にかけて大規模な改修を行っています。

 

袖曲輪

二の丸と袖曲輪の間を下りていきます。

 

本間八郎三郎氏清 丸尾修理亮義清 戦死の址

第一次高天神城の戦いで武田軍の銃弾に当たり討死しています。

二の丸と袖曲輪の間を下りてきたこの場所の東側には堀切が、北に伸びる堂の尾曲輪の西側には横堀が延びています。

 

袖曲輪と堂の尾曲輪の堀切

まずは堀切をよじ登って堂の尾曲輪に上がります。

 

堂の尾曲輪

堀切を眺めます。戦死址にあったお堂が小さく見えます。堀切はもっと深かったのでしょうね。

 

堂の尾曲輪を進んでいきます。堀切を上り下りするので心配な人は横堀脇を往復する方がいいかもしれません。

 

井楼曲輪

城の北西先端の高所にある曲輪で、監視のための櫓台を備えていました。

 

井楼曲輪の西側に下りると、袖曲輪まで横堀が続いています。

 

竪堀もつくられました。

 

こちらは二の丸の下に続く空堀。この先にも曲輪があるようですが、途中で行き止まりになっていました。

 

西の丸に戻り、搦手口へと階段を下ります。ちなみに搦手口から上ってくるとこんな感じ。

 

三日月井戸

階段脇に地層の断面からしみ出た水が溜まっています。飲料用ではない水として使用されていたようです。

 

さらに下ります。

 

搦手門跡

神社の参道になっているせいか追手門よりも整備されているので歩きやすいです。階段は長いけど・・

バス停に戻りましょう。

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千人塚

北大東公民館から追手門に行く途中にありました。第二次高天神城の戦いで、岡部元信をはじめとする武田軍740名を埋葬した場所とされています。岡部元信は今川義元重臣で、桶狭間の戦いで鳴海城開城の条件として、打ち取られた義元の首を取り返しています。今川氏真駿河を追われた後、武田軍に降伏して仕えました。高天神城を落城させた武田勝頼は城を元信に任せます。長篠の戦いの後、徳川家康高天神城を攻めますが、何度も押し返されます。家康は、兵糧攻めにし、兵糧が尽きたところで元信は降伏を申し出ますが、家康は拒否。玉砕覚悟で撃って出た元信らは全滅しました。

 

渡辺金田夫照 屋敷跡

甲州源氏武田一族の裔 姉川七本槍の一人(姉川の戦い) 天正二年 高天神城開城に伴い武田勝頼はいかに属す 天正十年 高遠城にて討死」

こちらも追手門に行く途中にあり、説明が渡辺池の下に書いてありました。姉川七本槍、知りませんでした。織田・徳川の連合軍の一員として姉川の戦いで大活躍した小笠原長忠率いる高天神衆で、赤色の傘や金色の短冊をつけた旗指物を身にまとい、大槍をふるい信長を感心させたという渡辺金太夫をはじめとした七名は姉川七本槍と呼ばれ信長から感状を与えられています。第一次高天神城の戦いで籠城するも、徳川からの援軍は来ず、武田軍に降伏して開城。門奈を除く六名は、武田氏の家臣となりました。渡辺金太夫は、高遠城に移り、武田方として奮戦。壮絶な最後を迎えています。他、武田軍として戦死した者、浪人となった者、消息のわからない者・・。姉川七本槍の功績はほとんどの記録から消されてしまいました。勝者を裏切った者の輝かしい歴史は残したくないものなのですかね。

 

北大東公民館

続百名城のスタンプやパンフレット、御城印がおいてあります。

 

 久しぶりの続・百名城。高天神城に行ってきました。大河ドラマの影響もあるのでしょうか、きちんと整備されていました。山城なので急な坂もあるけど、標高も低いので軽いハイキング程度で歩けます。

 アクセスは掛川駅からバスを利用。掛川駅北口から静鉄バス浜岡営業所行きのバスに乗ります。平日/土休日で変わるけど、30分~1時間に1本の割合で運行しています。suicaも利用できます。30分弱乗車して北大東公民館前で下車。続百名城のスタンプを押してパンフレットもゲット。ここから15分くらい歩くと追手門の駐車場に到着です。搦手門だと20分くらいかな。駅でスタンプを押していれば土方のバス停の方が近そうです。食事処は近くになさそうなので、お昼は城内の東屋で持参おにぎりを食べて、のんびり見学してバス停からバス停まで2時間半くらいでまわってきました。堀切や横堀は見応えがありました。スタンプの高天神城跡の石柱を見逃してしまったのが残念。搦手門跡と鳥居の間にあったはずなのに、なぜ目に入らなかったのか・・・

 武田と徳川による遠江争奪戦の舞台となった高天神城今川義元亡き後、城主小笠原長忠(信興)は徳川軍に帰属しました。天正二年(1574)の第一次高天神城の戦いで武田軍に包囲され、家康に援軍を求め、家康は信長に援軍を求めるも間に合わず、攻め込まれた長忠(信興)は城兵の助命と引き換えに開城を決意します。この時、武田勝頼は寛大な処置を行い、徳川に帰還する者にも命の保証を与えています。その後、長忠(信興)は駿河に移り、元今川家家臣の岡部元信が武田軍として高天神城の城主となります。長篠の戦いの後、家康は高天神城の周りに砦を築き、奪回の準備を始めます。天正九年(1582)の第二次高天神城の戦いでは徳川軍が高天神城を完全に包囲し、補給路を断って兵糧攻めにします。武田勝頼に援軍を要請するも、勝頼に援軍を出す余裕はなく見捨てられた岡部元信は、家康に降伏を申し出るも拒否されてしまいます。覚悟を決めた元信は玉砕覚悟で討って出て、壮絶な最後を迎えました。何となく降伏してきた武田勢には寛大な処置をとっているイメージのあった家康ですが、ここは非情ですね。信長の意志が働いていたのか、単なる見せしめなのか、裏切りを許せなかったのか。どちらにしても乱世を生き抜くには、いい人では無理なのかもしれません。