マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【さわやか】 秋風が心地よい新城へようこそ 長篠の戦いの地へいざ出発 2018.11.11(日)

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馬防柵(設楽原古戦場)
長篠の戦い
天正五年(1575) 武田信玄のあとを継いだ武田勝頼が西へ勢力を伸ばすため、徳川家康側の重要な拠点・長篠城を攻撃、城主 奥平貞昌の救援要請によりかけつけた織田信長徳川家康連合軍が設楽原で武田軍を撃破した。織田・徳川の勢力が強大になるきっかけとなった日本史上の重要な戦い。」


長篠城駅長篠城址史跡保存館 → 馬場美濃守信房の墓 → 鳥居強右衛門の墓 → 進言塚 → 設楽原歴史資料館 → 馬防柵 → 織田信長戦地本陣跡 → 新城駅  約12.3km

 行きたいと思っていた長篠・設楽原古戦場で、さわやかウォーキングが開催されていたので参加してきました。

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長篠城駅
本数が少ないため仕方ないのですが・・二両編成の飯田線は、ラッシュアワー並みの混雑でした。

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長篠城址史跡保存館
二の丸に建つ史跡保存館では、長篠の戦いの籠城から終結までをわかりやすく展示しています。実際に長篠の戦いで使用された太鼓や鎧などの展示もあります。

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長篠城
長篠城主奥平貞昌が、武田勝頼軍の攻撃に耐え死守した城です。一度は武田方に付いた奥平氏ですが、信玄の死が確実になったことで再度徳川方に付いていました。

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なんと!長篠城織田信長公が現れました。

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馬場美濃守信房の墓
武田四天王の一人。築城の名手とも云われています。長篠の戦いでは殿を務め、勝頼が退却したのを見届けて武田本隊を守り討死。61歳でした。「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と信長公記にも書かれるほどの戦いぶりでした。

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左手の奥の方が長篠城。豊川に架かる長篠大橋からみると断崖にあるのがわかります。強衛門は、こんな絶壁を下り川を泳いで援軍要請したんだよね。すごいなぁ

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鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の墓
鳥居強衛門は城主の命を受け、落城寸前の長篠城から援軍を請うため家康のもとへ向かい使命を果たした後、城に向かう途中で捕えらました。「援軍は来ない」と言えば助けると言われましたが、「援軍は来る」と大声で叫び磔となりました。これで勢いづいた長篠城は戦うことができたのです。木が茂っていて対岸の長篠城は見えません。このあたりは篠場野といい、山県昌景・高坂昌澄などの陣地がありました。そして後で調べたら、この先の踏切を渡ったすぐ先が、牛渕橋でした。下調べが不十分で行きそびれてしまいました。ちょっと残念なことを。

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戦国の陣没将士墓苑
有海原(設楽原)に伝わる「長篠・設楽原の戦い」での墓碑を新東名高速道路の開通工事に伴い移転したもの。

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道の駅 もっくる新城
道の駅でひと休み。美味しそうなカツサンドでお昼です。足湯もあります。

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首洗池
「首洗い 池は血色に 水濁る」(設楽原古戦場いろはかるた)
長篠の戦いの後、この池で戦死者の首を洗ったと云われています。

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信玄塚(小塚・大塚)
設楽原の戦いでは、一万六千もの戦死者があったといわれています。戦場の片付けに従事した竹広の村人がこの地に戦死者を葬り、二つの塚を築いて弔いました。当時すでになかった信玄の名を冠しているのは信玄公の偉名がいかに大きかったかを物語っています。

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火おんどり
毎年8月15日の夜に両軍の戦死者を弔う「火おんどり」が信玄塚の信玄原で行われます。60~70本のアシとシダで作った火のついた大松明が勇壮に打ち振るわれます。(設楽原歴史資料館)


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閻魔大王
信玄塚のお堂の中には、石造りの閻魔大王が鎮座しています。そして閻魔堂に掲げられていた「設楽原いろはかるた」は、所縁の地で見ることができます。ちゃんと「い」~「す」まであります。。でもこのかるたじゃ、お正月に楽しく遊べそうもありません・・・

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設楽原歴史資料館
長篠の戦の様子がわかる展示がたくさんあります。特に鉄砲関係が豊富です。台尻に施された装飾が面白いです。鉄砲の模型もあって実際に重さや大きさの実感もできます。

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歴史資料館の屋上からは古戦場が見渡せます。馬防柵も見えます。資料館の辺りは武田軍の陣地になっていました。

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岩瀬肥後守忠震(ただなり)公の像
史料館の前にある像は戦国武将ではありません。江戸以降の展示室のほとんどを占めていた岩瀬肥後守忠震の像です。どこかで聞いた名前だと思ったら、東海道神奈川宿本覚寺に碑がありました。忠震は、設楽原を拠点とした旗本・設楽貞丈の三男として誕生しました。徳川家の家臣となり老中阿部正弘が目付に任じ、開国奉行として井上清直と共に、日米修好通商条約締結の交渉にあたりました。幕府は不平等条約を結ばされたと習ってきましたが、最近は評価されるようになってきたようです。彼ら以外に誰があれだけ物おじせずにハリスと交渉出来たんだろうと。残念ながら、その後失脚して44歳の若さでこの世を去ってしまいます。開国後も彼らが主導権を握って時代を造っていたら、もっと面白い世の中になっていたかもしれませんね。

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甘利信康碑
「雄々しくも 立ち腹さばく 甘利信康」(設楽原古戦場いろはかるた)
柳田前哨戦地付近にはダンゾウ屋敷という場所があり、武田軍に協力するはずだったのに、寝返って織田・徳川軍に協力したこと恨み「この部落は絶対に発展させない」と立ったまま切腹をしたと伝わっています。

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連吾川
「ぬかるみに 馬もしりごむ 連吾川」(設楽原古戦場いろはかるた)

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馬防柵
「えんえんと 柵木岐阜より かつぎくる」(設楽原古戦場いろはかるた)
馬防柵が再現されています。案内板によると、決戦の正面となった連吾川沿いに三重の柵を構え、背後の弾正山を越えた西側を流れる大宮川沿いには、さらに一重の柵を設けて万が一に備えていました。徳川軍と織田軍の柵の様式は、攻口の設け方も違うと書かれています。違いますね。


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鉄砲構え
乾堀と馬防柵と銃眼付の見がくし(土塁)の三段構えで復原されています。

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長篠・設楽原合戦屏風絵図
史料館にも展示されてた屏風図が馬防柵の所にもあります。馬防柵の違いもちゃんと書かれているんですね。よく見ると徳川方は、馬防柵の外で鉄砲を打っています。

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茶臼山までのどかな道を歩いていきます。このあたりも戦場になっていたのかな。この先にある石座神社遺跡の新東名高速道路建設に伴う事前調査では、大型の竪穴式住居跡や中国鏡、長篠の戦いで使用されたと思われる鉛の鉄砲玉も出土しています。

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こんなところに飛び出し坊や

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織田信長戦地本陣跡
「信長の陣 茶臼山に 歌碑もあり」(設楽原古戦場いろはかるた)
写真上はPAから眺めた茶臼山本陣。

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長篠設楽原PA
本陣跡のすぐ下には新東名高速のPAがあります。

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PAからみる設楽原古戦場・・は、もっと左かな?

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新城駅
茶臼山から4キロ程歩いて、本日のゴールに到着です。

 長篠の戦いは、平原を疾走する武田の騎馬隊が、織田・徳川軍に鉄砲で撃たれてしまうイメージでしたが、最近はいろいろと再検証がされているようです。たしかに実際歩いてみるとだいぶ違いました。連吾川を挟み、雨上がりのぬかるみの中での戦いだったようです。徳川・織田連合軍は、馬防柵のほか空堀や土塁をつくったり、別個隊で鳶ヶ巣山砦を急襲。兵力や鉄砲(玉)の数でも圧倒していて用意周到で戦っていたのですね。武田軍の見通しが甘くて準備不足といったところでしょうか。今回のさわやかハイキングも開催を知って急遽歩きに来てしまったので、こちらも準備不足でいろいろまわり損ねてしまいましたが、下調べせずにこれだけまわれたのはよかったです。