マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

群馬県に残る真田氏ゆかりの城へ  2.「沼田城跡」「名胡桃城跡」  2016.06.12(日)

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城地種類:丘城 築城:1532年 沼田顕泰 改修 真田信幸 主要城主:沼田氏・本庄秀綱、猪俣邦憲・真田氏

 利根川と薄根川の合流点の北東、河岸段丘の台地上に位置する丘城。沼田氏の居城として建築されました。沼田は北関東の要衝であり、軍事上の重要拠点として上杉氏・後北条氏・武田氏といった諸勢力の争奪戦の的となっていました。天正8(1580) 真田昌幸沼田城を攻略。これ以降、この地の領有を主張する北条氏と真田氏の間で攻防が続いていましたが、北条方が名胡桃城を攻略したことが契機となり北条氏は滅亡。真田昌幸沼田城を信幸に与え上田に移りました。信幸は近世的な城郭の整備を進め慶長2(1597)には5層の天守が完成しました。その後五代にわたって沼田城を治めていましたが、天和元年(1681)両国橋用材の伐出し遅延と失政の名目で領地は没収され改易。城は幕府に明け渡され、翌年に城はすべて破却され、堀も埋められて天領になりました。元禄16(1703) 本多正永が入封し、本多家3代、黒田氏(譜代大名2代を経て、土岐氏12代目に明治維新を迎えて廃城となりました。本多氏時代には三の丸を改修して館を建てる程度の規模でした。現在は公園として整備されています。


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車窓からみた沼田
河岸段丘の上に城が築かれました。


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大蓮院殿の墓(正覚寺
沼田城に行く前にちょっと寄り道。真田信幸()の夫人である小松姫のお墓です。徳川家家臣本多忠勝の娘で、家康の養女として嫁がせました。慶長5(1600)関ヶ原合戦前、敵味方に分かれた昌幸、信繁が、信幸()が居ないのを知ったうえで、上田に帰る途中に沼田を訪れた際には鎧を着て入城を拒否しました。その一方で正覚寺を宿として提供し、子供を連れて合いに行っています。そして正覚寺に刻まれている紋は、本多葵。力関係を感じますね


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正覚寺から沼田駅方面を望みます。
ここはブラタモリでも訪れたところ。河岸段丘がよくわかる場所です。そして写真中央奥の小さい山の裏手辺りが名胡桃城。でもよっぽど高い櫓でもなければ見えないんじゃないかとのこと。天守閣からなら見えるのかなぁ。


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本丸跡
沼田城址はすっかり整備されて公園となっています。本丸跡に建つ鐘楼は、信之と小松姫の息子、信吉が領内の安泰を祈願して鋳造させた「城鐘」を保護しようとして建てられたものを復元しています。


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石垣
真田時代のものが残る西櫓台の石垣


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西櫓台の真ん中に建つヒガンザクラ「御殿桜」は樹齢400年とも


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捨曲輪


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真田昌之・小松姫
像の裏手、神社のある辺りが天守閣のあったところといわれています。像の前には六文銭が。みんな並べたいんだね。それにしてもこの像はなんだか中国っぽいとの声が・・・


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現存本丸水堀


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案内板には、戦国無双小松姫COOL!


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案内図


 要害の地にたち戦国時代は、上杉、北条、真田が激しい争奪戦をした沼田城。戦国の世が終わり真田信之の時代には大きな天守閣が建てられました。徳川にとって真田に何度も煮え湯を飲まされたという黒歴史は、葬り去りたい過去だったんだろうね。難癖つけて真田を沼田から追い出したあと、城を徹底的に破壊したのは、信之の存命中はしたくてもできなかった鬱憤をやっと晴らしたって感じがして、小さいなぁ。真田信幸()が信幸だったり信之だったりするのは、関ヶ原で昌幸と袂を分かち改名したから。明治に入り交通網が発達してくると、河岸段丘の上に建つ沼田の高低差が逆に障害となっていきます。そのあたりは段差大好きのあの番組で。そういえばブラヤモリなんていうパンフレットも置いてあったけ。そして何となく沼田は、真田ブームには載っているけど、真田というより、小松姫押しの感じです。

---☆☆


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名胡桃城
城地種類:山城 築城:明応元年(1492) 沼田氏 主要城主:真田氏(鈴木重則)
 
利根川赤谷川の合流地点の南西右岸の段丘上に築かれた城で、伝承では明応元年に沼田氏の一族が沼田城の支城として築いたのが最初といわれています。天正7(1579)頃、真田昌幸沼田城攻略の前線基地として改修し、翌年には沼田城を手に入れました。織田信長の死後、北条氏との間で攻防が続きますが、天正17(1589) 豊臣秀吉の調停で沼田城は北条領に、名胡桃城は真田領となりました。しかし北条氏家臣の沼田城代猪俣邦憲が名胡桃城を攻略。この名胡桃城事件が忽無事令に違反したとして、豊臣秀吉は、翌年北条氏を滅ぼして、事実上、天下統一を果たしました。その後名胡桃城は廃城となり、実際に使用されたのは約10年間でしたが、日本の歴史を動かした重要な城となりました。

 

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般若曲輪堀切
駐車場になっている般若曲輪から下りていく道は通行止めになっていました。


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馬出
第二期に造られた丸馬出で、三郭及び外郭との間には木橋が架けられていました。


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三郭
第一期の三日月堀による丸馬出を埋め立てて、第二期には三郭に改築されました。


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二郭
周囲を土塁で囲い南北の門を直に結ぶ通路わきには、大小の様々な建築物が並びます。


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二郭北虎口


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本郭堀切
下に見える道が般若郭から下へ続く道。この高さすごいなぁ


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本郭


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のぼり


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ささ郭堀切
深く切れ込んだ堀切なので本来ならここを行き来するのは大変なことですが、階段が整備されて簡単にわたることができます。遺構に手を入れることには賛否両論があるけど、城めぐりの人が増えれば安全にも気をつけなきゃいけないし、手が入ることで、特にここは昔の様子がわかりやすく想像できるようになっているので、私みたいなにわかファンにはありがたいことです。そして、数日前に目撃されたらしく「熊に注意」の看板が。この夏はあちこちでクマの目撃情報や襲撃のニュースが流れています。うまく共存していかれるといいのだけど・・・山に入るときは気をつけなきゃ


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ささ郭からの眺望
正面が三峰山。JR上越線後閑駅と明徳寺城址もこの方向


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そして右手前の低い山の陰にあるのが沼田城址。やっぱりわからないなぁ


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縄張図


 小さな、といっても整備されて簡単に行き来ができるからそう感じるのかもしれないけど、この城が大きな歴史の転換点になるとは、攻めた北条方も思わなかったでしょうね。一説には豊臣秀吉と真田が計ってあえて名胡桃城を攻めさせたとも云われています。北条氏政が頑固で恭順しなかったのは秀吉にとって北条討伐の口実ができてよかったんだろうね。もし北条氏が形だけでも従っていたら、家康の江戸移封もなかっただろうし、徳川、北条、上杉、伊達という関東・奥州連合の動きに目を光らせてなければならなかっただろうから、九州征伐はまだしも、続く朝鮮出兵はなかっただろうし、戦国の世も続いていたかもしれない。歴史にifはないんだけどね。

 急に思い立って出かけたツアーで下調べをする時間もなかったのだけど、縄張図などの資料でとてもわかりやすく解説してもらいました。やっぱり大河ドラマだね。案内書には縄張図をはじめ歴史の解説などたくさんの資料が置いてありました。真田丸をさらに面白く見ることが出来そうです。上田や松代にはまだ行ったことがないんだ。ここも見ておきたいなぁ。