マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【鎌倉街道 下道】5日目 - 1 大崎から日比谷  2023.05.05(土)

愛宕神社

愛宕神社愛宕山

神社のある愛宕山は標高25.7メートル。天然の山としては23区内で一番高い山です。山上にある愛宕神社は、慶長八年(1603) 征夷大将軍に任じられた徳川家康が、江戸の防火のために祀った神社です。後に勝利の神としても知られるようになりました。神社に上がる急な階段は85段、。出世の階段と呼ばれています。

 

大崎駅 高輪 → 芝 → 三田 → 日比谷 ・・・(国府台)

 

 GW真っ只中。人ごみを避けてひたすら歩いていたら、ゴールの国府台に到着。図らずも最終日となりました。歩き始めこそ坂のある道でしたが、台地を抜けると低地になるので、ほとんど平坦な道でした。それにしても今日はたくさん歩いたぁ。ひさびさに30km越えでした。

 

木橋

大崎駅から百反歩道橋の脇を進み、新幹線沿いに進んでガードをくぐり、居木橋交差点で環状六号線(山手通り)を渡ります。ここは古来から主要な街道だったそうで、川辺に一本の松の木があり、風が吹くとゆらゆらと揺れる様から「ゆるぎの松」と呼ばれ、いつしか「いるぎの松」となり「居木橋」となったそうです。目黒川を渡ります。

 

交差点を渡り、御殿山通りの細い坂道を上っていきます。ここからは、武蔵野台地の川に削られた起伏のある道を進んでいきます。御殿山には太田道灌の館があったと伝えられています。江戸初期に将軍の御殿が建てられたところからこの名がつけられたといわれています。徳川吉宗の時代には、花見の名所として整備されて賑わいましたが、幕末に台場を造るため切り崩され、当時の面影は失われています。

 

坂を上り詰めるたところで右に続く御殿山通りを進みます。不思議な空間。これは何だろう。

 

2021年1月に閉館した原美術館があった場所はすっかり更地に。来年11月には10階建ての共同住宅・店舗が完成するようです。そんなに高い建物がまだ必要なのかなぁ

 

御殿山交番前の交差点を渡ります。左手に見えるのはソニー発祥の地、右手に見えるこんもりとした森は、開東閣。旧岩崎家の邸宅で、戦争で被災した建物を復旧し、現在は三菱グループの貴賓接遇施設として利用されています。一般公開はしていません。開東閣脇の細道を進んでいくとグランドプリンスホテル新高輪が見えてきます。

 

ホテル脇の坂道は、柘榴坂。坂名の起源は伝わっていませんが、柘榴の木があったのではないかと。江戸時代は枡形に曲がっていましたが、明治になって直進するよう作り変えられています。ホテル沿いに曲って二本榎通りに入ります。ちなみに高台にあるまっすぐで長い道(二本榎通り)を高縄手道といい、転じて「高輪」になったといわれます。

 

味の素グループ高輪研修センター

立派な門だなぁと思って調べてみたら、味の素の創業者の自宅があった場所でした。現在は研修センターとなっていますが、小さな博物館もあって見学もできるようです。

 

高野山東京別院

高野山真言宗 総本山金剛峯寺の別院で、延宝元年(1673)に建立されました。

 

高輪消防署二本榎出張所

昭和八年(1933)の建築で、東京都選定歴史的建造物に選定されています。昭和46年まで火の見に使用されていました。今日は閉まっていましたが、内部の見学もできるようです。この交差点で、沼部で別れた中原街道と合流します。

 

長祐山 承教寺(日蓮宗

江戸時代 この辺りに榎の大木が2本あったので二本榎という地名となったそうです。門前にあるのは狛犬ではなく「件(くだん)」 人+牛=件。半人半牛の姿をした妖怪で、予言をするといわれ、そこから「よって件の如し」という定型句ができたともいわれています。将軍綱吉を風刺した絵を描いたとして三宅島に配流された英一蝶の墓もあります。

 

大石良雄等自刃の跡碑

討ち入り後、大石内蔵助良雄ら17人は肥後熊本藩細川家預かりとなりました。この奥に良雄らが自刃した庭が残されています。庭の事を忘れていて、碑の写真を撮っただけで満足して通り過ぎてしまいました。

 

伊皿子

交差する交差点を渡ります。手前の和菓子屋さん前に長蛇の列。東京三大大福のひとつとして有名なお店だそう。伊皿子とは、およそ1600年頃に来日した明国人が帰化した際に自らを「伊皿子(いびす)」と名乗ったことが地名の由来とされています。

 

三田台公園

伊皿子貝塚遺跡の発掘調査で発見された住居跡と貝層の断面が復元されています。公園内には華頂宮邸で使われていた井戸も残されています。

 

亀塚(亀塚公園

もとは古墳とも、更級日記の竹芝寺伝説の地ともいわれ、江戸時代は上野国沼田城主土岐家の下屋敷の一部でした。塚の頂に酒壺があり、ここを出入りする亀が一夜で石になったという伝説を聞いた土岐頼熙が、寛延3年(1750) 頂上に亀山碑を建立しています。

 

最初のフランス公使宿館跡(済海寺

済海寺も竹芝寺の伝説の地のひとつです。また、安政六年(1859) にはフランス公使館が置かれていました。

 

聖坂

亀塚公園を出ると下り坂となります。坂の案内柱には、古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったという。」と書かれています。

 

板碑(亀塚稲荷神社)

坂の途中にある小さな神社に、板碑が残されています。どれかよくわからなかったのですが、港区で最古のものがあるそうです。

 

赤羽橋交差点

坂を下り三田三丁目交差点に出ます。左に曲がると東京タワーが見えてきました。赤羽橋交差点を渡り、街道は真っすぐ続いていきますが、芝公園の中を抜けていくことにします。交差点脇には小さな伏見稲荷が祀られていました。ここには古川が流れています。上流は渋谷川です。

 

プリンス芝公園のバラ園は満開でした。

 

旧台徳院霊廟惣門

プリンスホテル芝公園一帯は江戸時代には増上寺の境内でした。この門は二代将軍秀忠の霊廟の惣門でした。残念なことに霊廟は空襲で焼失しています。

 

三縁山広度院 増上寺

浄土宗の七大本山の一つです。明徳四年(1393) 酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)に創建され、慶長三年(1598) に現在の場所に移転しました。徳川家康の手厚い保護を受け、檀林として、また徳川家の菩提寺として栄えました。三門は元和八年(1622)の建立です。

 

有章院(徳川家継)霊廟二天門

七代将軍家継の霊廟の惣門で、吉宗が建立しました。こちらも霊廟は空襲で焼失しています。霊廟がすべて残っていたらさぞや壮観なことでしょう。この先の歩道橋のところで左に曲がります。

 

御成門

増上寺の裏門として造られました。将軍が参詣する際に用いられたので「御成門」と呼ばれるようになりました。明治二十五年(1892)の道路新設で現在の御成門交差点から移設され、ひっそりと建っています。この先の交差点で街道に復帰します。

 

萬年山 青松寺(曹洞宗

文明八年(1476) 太田道灌を開基として創建されました。

 

愛宕神社愛宕山

勝利の神様でもある愛宕神社桜田門外の変井伊直弼を襲った水戸藩の浪士達も、ここで成功を祈願してから江戸城へ向かったとされます。何とも皮肉なことです。そして、神社に上がる急な85段の階段。馬でこの階段を上るなんて本当かしらとも思うのですが、江戸以降も明治、大正、昭和と挑戦して成功したという記録が残っています。もう出世することはありませんが、急な階段を上ってお参りしてきました。

 

飯野ビルの地下にあるカフェドクリエで軽いランチをいただきます。

 

日比谷公園

ここもバラが満開です。きれいだぁ。広場のイベント会場はすごい人混みでした。

 

長くなってしまったので、次ページに続きます。