マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【中山道 2日目】 (戸田公園駅) → 2.蕨宿 ~3.浦和宿 → 4.大宮宿 → 5.上尾宿 (上尾駅)  2016.5.28 (土)

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武蔵国一宮 凡そ2千年前第五代孝昭天皇の御代三年の創立と伝えられ、須佐之命、稲田姫命大己貴命の三神を御祭神としています。日本武尊が戦勝祈願を東征の折に戦勝祈願をしました。1200年ほど前の聖武天王の御代に武蔵一宮と定められ、源頼朝が社殿を再興し、徳川家康は寺領300石を寄進しています。東京、埼玉近辺に約200社ある氷川神社の総本社。
 
 

(戸田公園駅) 本町一丁目交差点 → 2.蕨宿 → 3.浦和宿 → 4.大宮宿→ 5.上尾宿 (上尾駅)  約23km




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中山道ミニパーク

戸田公園駅から歩いて先日の終了地点、本町一丁目の交差点へやってきました。今日はここから中山道のスタートです。17号を横切り旧道を進みます。薄曇りの天気でちょっと蒸し暑いかな。この辺りは道標もわかりやすいし、ミニパークが所々にあって案内板も設置されています。ところでこのオブジェはなんだろう?



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2 蕨宿 (江戸見附)

江戸から2番目の蕨宿は、中山道でも五指に入る宿場で、埼玉では一番大きな宿場でした。中山道宿村大概帳(天保14年・1843)によると、宿内家数430軒、うち本陣2脇本陣1問屋場1、旅籠23軒、人口2223人、宿長約1.1km


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足元にも蕨宿


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蕨市立歴史民俗資料館分館
明治時代に建てられた織物買継商の家が公開されています。


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蕨市立歴史民俗資料館 本陣跡
蕨宿の江戸時代の模型や大名の食事の再現などが再現されています。これはなかなか面白い。ただ大きな建物なのに展示されているのは一部だけ。ホールには何もないし2階も使われていないし、職員の人も事務所から出てこない。活気がなくて建物が生かし切れていない感じでちょっともったいない気がしました。


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風情ある建物が所々に残っています。


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京見附 北町交番
京側から来ると蕨宿の入口はこんな感じ。もちろん左側が旧道です。可愛らしい交番のすぐ後ろには、からくり時計のあるふれあい広場があります。


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一六橋
見沼用水の分流、通称一六用水に架かる橋で、南北朝時代から戦国時代にこの辺りで、一と六のつく日に「市」が開かれていたことから「一六」と呼ばれていました。


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辻一里塚の跡
江戸より数えて五里目の一里塚


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焼米坂
名物「焼米」を商う立場がありました。


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関本屋
材木商、よろず商い、米穀商として時代を重ね、現在の建物は大正5年頃の建築と伝えられています。店先の井戸は「お助け井戸」と呼ばれています。


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調神社 (つきじんじゃ)
平安時の古社。社名の調は租庸調の調で、伊勢神宮へ納める貢(調)物はここに集められたため搬入搬出の邪魔にならないよう鳥居はありません。調と月は同じ読みから、月待信仰に結びつき、月神の使いとされる兎が狛犬の代わりに境内入口の両側にあります。


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手水場
つい写真を撮りたくなってしまう。境内には他にも沢山の兎がいます。


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3 浦和宿
江戸から3番目の浦和宿は天領でした。旅籠15軒と小さな宿場でしたが、二と七の日に六歳市が開かれ賑わっていました。また、蕨宿と共に沼地が多く鰻が名物で、今でも鰻の店が沢山あります。ちょうど訪れた日は、浦和うなぎまつりが行われていましたが、鰻を食べるためには朝早くから1時間以上並ばないといけないようで断念。現在は大きな街になった浦和。残念ながら街道沿いには往時の面影は残っていません。中山道宿村大概帳(天保14年・1843)によると、宿内
家数273軒、うち本陣1脇本陣3、旅籠15問屋場1、高札場1、自身番所1、宿内人口1230人、宿長約1.2km


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農婦の像 市場通り
戦国時代から昭和の初めまで市が開かれていたことを偲んで像が建てられました。実際に市が開かれていたのはもう少し北の通り。通りの奥にある常磐公園は、慶長年間、徳川家康が鷹狩の際の休息、宿泊のためここに浦和御殿が建てられたばしょ。明治期には浦和地方裁判所、検察丁が置かれ、昭和51年に公園となりました。


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二八市場跡
こちらが実際に市の開かれていた慈恵稲荷の鳥居前。往時の主商品は穀物と木綿布。十返舎一九の句が残っています。「代ものを 積重ねしは 商人の おもてうらわの 宿の賑わい」


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レディア像
浦和宿を抜け北浦和駅の近くまで来ると、浦和レッズのマスコット、レディアがお出迎え。手のひらでレディアの頭(耳)を3回、鼻を2回心をこめてなでると、願い事が叶うらしい。


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正徳4(1714)建立


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歩道のアジサイが目を楽しませてくれます。


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六国見
中山道と赤山道が交差するこの辺りには立場茶屋があり、富士・浅間・甲斐・武蔵・下野日光・上州伊香保など関東六国の山々を見渡せる見晴らしの良い名所として知られていました。今は昔。


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与野駅を過ぎケヤキ並木を歩いていきます。左手には三菱マテリアルの大きな空き地。再開発で何になるのやら。


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お女郎地蔵 火の玉不動尊
悪名高い大盗賊神道徳次郎に見染められ進退窮まって高台橋から身を投げた遊女の供養塔と、人騒がせな火の玉を斬ったら不動明王であったという火の玉不動の碑。この辺りには刑場がありました。


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一の鳥居
さいたま新都心駅を過ぎ、線路越しにスーパーアリーナを眺めながら歩くと氷川神社の一の鳥居が見えてきました。古い中山道はここから約2km続く参道を通っていましたが、神域を通過するのは不敬であると江戸初期に参道左手に新たな道が作られました。今回は左手にちょっと見える中山道を歩いていきます。

4 大宮宿
江戸から4番目の大宮宿は、氷川神社門前町として発達してきました。寛永5(1628)に、一の鳥居から直進する新道を開設し、参道を通る古中山道から両側の民家を移転させ宿場町として整備しました。中山道宿村大概帳(天保14年・1843)によると、宿内家数319軒、うち本陣1脇本陣9問屋場4、旅籠25、宿内人口1508人、宿長約1.04km


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大宮ナポリタン(伯爵邸)
氷川神社の鳥居の朱色、大宮アルディージャのオレンジにもちなんだ大宮新名物のナポリタン。ナポリタン発祥の地、横浜市民としては食べてみないといけないでしょう。駅でもらう冊子にもよく載っていて中山道からも近い伯爵邸に行ってみました。レトロな喫茶店でいい感じ。ナポリタンは王道のケチャップ味。でも麺がもっと太くてもいいかな。それにしてもボリュームがある。最初は美味しく食べていたのだけど、途中からはお腹いっぱいで完食するのがやっと。後でみたら麺が350gもありました。お腹いっぱいになるはず。店員さんおすすめの島唐辛子ナポリタンとマッチして気に入りました。


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お腹いっぱいですぐに歩けない。駅の方が賑やかなので覗いてみたら、鉄道ふれあいフェアが開催中。メイン会場は駅の反対側にあるJR東日本大宮総合車両センター。ちょっと遠いなぁ。気になるけど今日はここの会場だけぶらぶらして中山道歩きに戻ることにしよう。


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二の鳥居
中山道をこのまま進んでもいいのだけど、やっぱり氷川神社にはご挨拶をしておかないとね。ちょっとおしゃれなお店が並ぶ通りを歩いて、二の鳥居から参道を抜け氷川神社にお参りします。参道には大きくて立派な木が並んでいます。街中とは別世界の気持ちよさです。


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狛犬のいない神社と言われていますが、実はこんなところに。


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お参りをしたら裏参道を抜けて中山道へと戻ります。


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この機関車ちょっとカッコいい


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大山御嶽山道碑
安政7年(1860)建立。「大山 御嶽山 よの 引又 かわ越道」と彫られた西へ分かれる道標。この辺りでは男子が1520歳になると一人前とみなされ村の大人と共に大山へ参拝したそうです。関東一円から大山にお参りしていたんだね。


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加茂神社
京の上賀茂神社を勧請したもので、安産に御利益があるそう


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愛宕神社脇の庚申塔享保7年(1722)の建立。東海道を歩いていた時は常夜燈を見つけながら歩いていたけど、ここでは庚申塔を見つけながら歩いています。江戸時代には庚申信仰が盛んだったのがわかりますね。今は聞かないけど、また続いているところもあるのかしら。


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中山道案内柱
もうこの辺りで上尾宿入ったのかなぁ


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上尾宿の総鎮守。通称「お鍬さま」。江戸時代には鍬大神宮や太神宮と呼ばれていました。神社の創始は、童子が警護する御神体の入った櫃を「鍬踊り」を踊りながら送り継ぎ鎮座したので祀ったといわれています。寛永9(1632)創立、御祭神は、豊鍬入姫命、稲田姫命菅原道真公、木之花咲耶姫命、應神天王。氷川鍬神社の周辺には本陣・脇本陣問屋場などがあり、この辺りが宿の中心地でした。明治に入り二ツ宮の氷川神社の女体社を合祀し、氷川鍬神社となりました。

5 上尾宿
江戸から5番目の上尾宿。日本橋を七つ立ちした旅人の1泊目にあたり賑わっていました。江戸時代末から明治初頭にかけて起こった3回の大火や老朽化によって宿の大半の建物や記録が失われてしまいました。中山道宿村大概帳(天保14年・1843)によると、宿内家数182軒、うち本陣1脇本陣3、旅籠41問屋場1、宿内人口793人、宿長約1.1km


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氷川鍬神社すぐ先の上尾駅前で今日の行程は終了。電車で戻ります。



 武蔵国一宮だけあって、氷川神社はとても立派でした。そして、ハマっこにはお馴染み山下公園氷川丸氷川神社から祭神が勧請され神棚に祀られていることから、船名がつけられました。って知らなかった。いや聞いたかもしれないけど覚えてないっていう感じかな。だって氷川神社って初めて訪れたし、全然なじみがなかったもの。とはいえ、横浜市の半分は武蔵の国で、もう半分が相模の国。でもほとんどが天領だったから気にしないのかな。横浜に氷川神社なんてあるのかしらと調べてみたら、子安に氷川神社から勧請した子安村の鎮守社、横浜一之宮神社がありました。でも氷川神社という名ではないんだね。氷川丸ナポリタン。全然なじみがなかった大宮でが、なんだか親しみがわく街となりました。それにしても晩御飯の時間になっても全然お腹が空かない。何キロカロリーあったのかは考えたくないけど、胃袋も若くないってことですね~。年相応に歩いていきたいと思います。