マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【鎌倉街道 下道】5日目 - 2 日比谷から国府台  2023.05.05(土)

国府台城跡(里見公園)

国府台城跡(里見公園)

下総台地の西端、江戸川に面した台地は国府台と呼ばれ、下総国府がおかれていました。里見公園には、戦国時代、国府台城が築かれています。2003年の市制施行70周年記念事業で、112種、700株のバラが植栽されました。

 

・・日比谷 → 日本橋浅草 → 隅田 → 奥戸 → 小岩 → 国府台(里見公園)

 

 前ページからの続きです。日比谷から先は平坦な道が続きます。最後は駆け足になってしまいましたが、たくさんの川を渡って、やっとゴールの国府台に到着です。

 

祝田橋

明治三十九年(1906) 日露戦争の戦勝を祝して皇居外苑を縦断する凱旋道路のを建設する際、外苑南側の石垣を崩して日比谷濠を分断するようにして造られました。中世は、平川が日比谷入江に流れ込んでいたので、入江を回り込むように平川の河口を渡っていたと考えられています。

 

二重橋の辺りも人が多いですね。大手門の一つ先を曲がります。

 

将門塚

開発が進む東京で1000年以上もここに祀られている。それだけでパワーを感じます。それにしてもきれいになりましたね。

 

箱根駅伝スタートライン

読売新聞社のビルの裏にまわると、東海道の浮世絵が飾られています。日本橋の絵のすぐ脇から車道に向けて続く一本の線。これが、箱根駅伝のスタートラインです。

 

常盤橋門跡 常磐橋

常盤橋門は、奥州道から大手門へ向かう外郭正門でした。当時は木橋が架けられていましたが、明治10年(1877)に廃止された常盤橋門の石垣を流用して、石橋に架け替えられました。このころ「皿」だと割れるので縁起が悪いからと、「盤」ではなく「磐」の文字をあてて「常磐橋」になったと言われています。

 

渋沢栄一

常磐橋を含め、関東大震災で大きな被害を受けた都市の復興に尽力した渋沢栄一の像が建てられています。

 

常盤橋

昭和元年(1926) 関東大震災で被災した常磐橋の少し下流に架けられたコンクリート造りの橋です。表面に石が張ってあるので石橋のようにも見えます。日本橋川を渡ります。

 

日本銀行

明治二十九年(1896) 辰野金吾の設計により建設された日本銀行本店です。

 

日本橋三越本店 天女(まごころ)像

いつ見ても圧倒的な美しさです。昭和35年(1960) 記念事業の一環として彫刻家の佐藤玄々と弟子たちによって製作されました。京都貴船神社山中の樹齢約500年の桧の大木から造られています。また、昭和10年(1935)に建てられたルネッサンス様式の建物は2016年に国の重要文化財に指定されています。

 

YUITOの角を曲がって日光街道奥州街道)に入り、ビルの立ち並ぶ通りを浅草橋に向かって歩きます。どこかに日光街道の碑があったような気がするけど、どこだったけ。

 

国道に合流して、浅草橋で神田川を渡ります。浅草に近づくにつれ少しずつ人が増えてきました。

 

二百年以上続く老舗どぜうの隣には、ウルトラマンエヴァゴジラ仮面ライダー。すごい顔ぶれのコラボです。さらに合体もするらしい・・・

 

駒形堂

遠くに雷門が見えてきましたが、遠目にもわかる人の波。浅草寺には寄らずに、駒形堂にお参りして先に進みましょう。浅草寺御本尊の聖観世音菩薩がおよそ千四百年前に隅田川からご示現されて奉安された地に建つお堂です。お堂のご本尊様は馬頭観音さま。

 

隅田川テラスに下りて川沿いにのんびり歩いていきます。

 

待乳山(まつちやま)聖天

街道に戻ってちょっと寄り道。日光街道を歩いていた時も寄らせていただいた待乳山聖天推古天皇の御世、地中から忽然と湧き出た霊山で、金龍が天より降って山を守護し、また、大旱魃に見舞われたときには、大聖歓喜天が出現して民を救ったと伝わります。

 

今戸神社

続いてもう一つ寄り道。招き猫発祥の地と伝わる今戸神社は、康平六年(1063) 源頼義・頼家父子が京都の石清水八幡宮を勧請したのが始まりで、沖田総司終焉の地碑とも知られています。恋つづのロケ地にもなっていて、最近は縁結びの神様としても人気です。

 

橋場不動尊

街道に戻ります。白髭橋の少し手前にひっそりとあります。天平宝字四年(760)寂昇上人によって開創されました。当初は法相宗でしたが、後に天台宗に転宗しています。立派な大銀杏の樹齢は約700年といわれ、隅田川往来の目印となっていました。

 

石浜神社

神亀元年(724)創建。荒川区内最古の神社で、源頼朝が奥州征討の際に祈願し、後日社殿を造営寄進しています。石浜神社付近には室町時代の中頃、千葉氏の居城であった石浜城があったとも言われています。途中で気が付いたのですが、待乳山聖天毘沙門天)・今戸神社(福禄寿)・橋場不動尊布袋尊)・石浜神社(寿老神)は、浅草七福神の社寺でした。全部で九社寺あり、一年を通して受付ていますが、御尊像を拝観できる期間は1月中旬ごろまでのようです。

 

対鴎荘跡碑

橋の西側には対鴎荘跡の碑。明治六年(1873) 三条実美の別荘として建築された対鴎荘があったことを示す碑が建てられていました。征韓論をめぐる政争で病に倒れた三条実美明治天皇が見舞いに訪れています。対鷗荘は後に多摩へ移設されましたが、老朽化のため取り壊されています。

 

白髭橋

大正三年(1914) に白髭木橋が架けられるまで、隅田川を渡る「橋場の渡し」が利用されていました。墨田区側では「白髭の渡し」と呼んでいたそうです。隅田川は、昔は入間川下流部で、寛永年間までは下総と武蔵野の国境でした。寛永六年(1629)の荒川西遷により、荒川の一部となりました。現在は岩淵水門から東京湾までの23.5キロメートルを隅田川と呼んでいます。

 

隅田宿

橋を渡ってすぐ左折して、東白髭公園に入ります。公園内には隅田宿の説明板がいくつか設置されています。この辺りは、古東海道の渡河地で、平安時代末期には隅田宿が成立していたといわれています。源頼朝が挙兵の際に通った道とされ、後の水戸街道のもとになった道です。頼朝の名前が出てくると、鎌倉街道だなぁと思いますね。

 

隅田川神社

亀に乗った水神が上陸し、隅田川の総鎮守の神となったといわれています。狛亀があるのですが、そのことを忘れていて、参拝をしたのになぜか目に入りませんでした。もちろん写真もありません・・・・

 

梅若橋

本当はもっと手前で団地の反対側に出るはずが、なんとなく公園を歩いて橋のところまで来てしまいました。戻らずに階段を下りて古東海道に続く曲り角へ向かいます。ちなみに「梅若」とはこの地に伝わる梅若伝説のことで、能「隅田川」の題材として知られています。京都の貴族の子である梅若丸が人買いにさらわれた挙句に、隅田川のほとりで亡くなり、息子を探し歩いていた梅若丸の母親が息子の死を知って隅田川に身を投げてしまうという悲話です。梅若丸の辞世の句が残っています。

「尋ね来て 問わば答えよ 都鳥 隅田川原の露と消えぬと」

 

街道に戻ります。東武スカイツリーラインの踏切を渡り、まっすぐ進むと荒川の土手にぶつかるので、階段を上って荒川土手に出ます。階段脇には小さな石仏。

 

四ツ木

土手を歩いて四ツ木で荒川を渡ります。現在の荒川は、昭和五年(1930)に完成した荒川放水路です。江戸時代より前の荒川は、東京湾に流れ込んでいた利根川と合流していました。徳川の命を受けた伊奈氏により河川改修が行われ、利根川と荒川を分離しました。「利根川の東遷、荒川の西遷」と呼ばれています。荒川の名は、度々洪水が起こるため「荒ぶる川」から付いたといわれています。

 

キャプテン翼 中沢早苗像

キャプテン翼の作者 高橋陽一の出身地ということで四つ木のあちこちにキャプテン翼のキャラクター像が設置されています。

 

平和橋で中川を・・・渡りません。道を間違えました。たぶん京成押上線の踏切を渡ったところで間違えたらしい。本奥戸橋のところに出て、中川沿いを歩いて奥戸橋を渡るのが正解。仕方ないので川沿いに奥戸橋まで歩きます。

 

奥戸橋の袂にある地蔵尊馬頭観音出羽三山碑道標もあるようです。おじいさんがずっと手を合わせていらしたので、写真だけ撮らせてもらって川沿いの遊歩道を先に急ぎます。

 

とげぬき地蔵様のところから熊野神社に向かいます。

 

熊野神社

都内で唯一、安倍晴明が勧請した神社で、一千年以上の歴史がある葛飾区内で最も古い神社です。

 

奥戸橋で中川を渡ります。利根川と荒川の間を流れているので、中川と名付けられたといわれています。

 

こちらは新中川に架かる新奥戸橋。新中川は、中川の放水路として昭和38年(1963)に開削されました。この先は、まっすぐ進み江戸川土手にぶつかったら、市川橋まで迂回して江戸川を渡ります。が、時間が押してきたのでここからショートカットで市川橋まで歩きました。

 

市川橋

明治38年 (1905) に架橋されるまで、渡し船で渡っていました。当初は木造橋で、江戸川橋と呼ばれていました。その後、江戸川橋よりも南側に鉄橋が架けられて、市川橋と改称されています。

 

江戸川を渡ります。江戸時代より前は、江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていました。利根川東遷により、利根川と太日川を繋いで江戸川が誕生しました。江戸時代は水運が盛んで、多くの船が行き来していました。ちょっとわかりにくいけど、京成本線の鉄橋越しに見える緑の森が今日のゴール、国府台です。もうひと踏ん張り。

 

市川関所跡

川を渡り土手を進んでいくと市川関所跡があります。奈良・平安時代には井上駅家(いかみのうまや)が置かれ、都と下総国を往来する公の使が渡し船と馬の乗りかえを行っていました。江戸時代に船の渡し場で旅人を調べる定船場が設けられ、後に関所となりました。度重なる護岸工事のため、正確な位置は不明となっています。

 

しばらく土手を歩いていきます。江戸川越しに、スカイツリーとうっすら富士山も見えました。

 

羅漢の井(里見公園)

里見公園の入口が見えてきました。階段下に井戸があります。弘法大師が念仏を唱え錫杖を突いたところ清水が湧き出たという井戸で、里見氏一族が国府台城へ布陣した際の飲用水として使われたと伝えられています。今は飲料不可となっていました。

 

国府台城跡(里見公園)

文明十一年(1479) 太田道灌が築いたものとされ、下総の玄関口的な役割をはたしています。その後、小弓公方・里見氏と千葉氏・後北条氏国府台合戦の舞台ともなっています。公園内をもっと散策したいところですが、薄暗くなってきたので今日はここまで。とりあえず鎌倉街道下道の終了とします。

 

 今日は浅草まで歩いてゆっくり散策の予定が、GWで人が多かったため先に進むことに。中途なところで終わるよりも最後まで歩いてしまえっと、国府台まで歩いてしまいました。途中から下調べをきちんとしていなかったので、いろいろと見落としや道間違いもありましたが、とりあえず今回で鎌倉街道終了です。

 下道もいくつかルートがあるようで、松戸で水戸街道と繋がるのが一般的なようですが、今回は参考にさせていただいたHPのルートで歩いてきました。

 愛宕山を過ぎて東京低地に入ると、日比谷湾の埋め立てに始まり、徳川家によって河川の改修や埋め立てが行われているので、鎌倉時代とはだいぶ川の流れは変わっています。それにしても江戸時代の技術はすごい。今の東京は全て何百年も前の江戸時代の上に成り立っているんですね。土地の成り立ちについて調べながら歩いたらもっと楽しそうです。

 今回は、「五街道の旅・脇往還鎌倉街道下道」というHPを参照にして歩きました。