マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【鎌倉街道 中道】6日目 新宿から東十条  2021.6.12(土)

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箱根山

戸山公園(箱根山

この地区は、その昔、源頼朝の武将和田左衛門尉義盛の領地で和田外山と呼ばれていました。江戸時代に入り尾州徳川家(尾張藩)の下屋敷となり「戸山荘」と呼ばれるようになりました。二十五景をしつらえた回遊式築山泉水庭園が造られました。明治以降は陸軍外山学校用地となりました。終戦後は国有地となり一部が公園となっています。標高44.6mの箱根山は、新宿区で一番高い山です。

 

新宿新宿駅雑司ヶ谷 池袋 → 西巣鴨 → 瀧野川 →東十条駅) 約11km

 

 二子の渡しを過ぎて東と西に分かれた中道は赤羽で合流し、日光御成道岩槻街道)となって続いていきます。今回歩いている東のルートは王子を過ぎたところで日光御成道と合流し赤羽へと向かいます。赤羽まで歩く予定でしたが、あまりに暑いので日光御成道と合流したところでギブアップ。御成道は歩いているので、中道(東ルート)は終了です。

 

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駅から新宿御苑沿いに歩いて、新宿一丁目南交差点で曲がり街道に戻ります。新宿一丁目西の交差点で甲州道中を横切ります。すぐ先の左手にある太宗寺に寄り道。

 

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霞関山本覚院太宗寺(浄土宗)

太宗という僧が開いた草庵太宗庵が前身で、慶長元年(1596)頃にさかのぼると伝わります。高遠藩内藤家の墓所、閻魔像、奪衣婆像、三日月不動像などがあります。

 

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銅造地蔵菩薩坐像(太宗寺)

江戸の出入口六か所の建立された江戸六地蔵の1つです。

 

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境内のネコさん 

 

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西向天神社(東大久保富士)

街道を進み小学校と中学校の間を過ぎると天神社の階段があります。境内には富士塚もあります。

 

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山吹坂・紅皿の碑

境内をそのまま進むと大聖院の境内に続き、今は階段になっている「山吹坂」があります。この先の駐車場の中には「紅皿の墓」があります。紅皿は死後この地に葬られたといわれています。板碑は新宿区内では唯一のものです。

 

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抜弁天厳島神社

道なりに進み抜弁天通りにぶつかったらそのまま進み信号を渡って抜弁天にご挨拶。源義家が戦勝祈願をしています。神社付近一帯には江戸時代犬御用屋敷が置かれていました。

 

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戸山公園(箱根山山頂)

抜弁天通りをわたり、少し先の狭い道にを進んで務省統計局の横を通り外山ハイツを抜けると戸山公園に入ります。標高44.6mの箱根山に登頂して、戸山公園サービスセンターに連絡すると自己申告で「登頂証明書」がもらえるらしいですよ。それにしてもこんなに大きな築山がある庭園ってどんなだっだんでしょうね。すごいスケールです。

 

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バラの中にハナムグリみいつけた! 戸山公園の中には花壇や広場がたくさんあってとてもゆっくりできる素敵な場所です。

 

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放生寺

戸山公園を抜けて諏訪通りを左に進むと旧道へ続くのですが、右に進んで寄り道。放生寺は穴八幡宮別当寺として開創されました。徳川家代々の祈願の寺として葵の御紋を寺門に用いる事が許されています。

 

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八幡宮

康平5年(1062) 源義家が、前九年の役を平定した凱旋の帰途、ここに的山を築き兜と太刀を納めて八幡神を祀りました。寛永18年(1641)良昌上人が草庵を建てようとして、ほら穴から金銅の阿弥陀如来像を発見したことから「穴八幡」とよばれるようになりました。

 

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堀部安兵衛之碑

八幡宮を抜けて早稲田通りを西早稲田の交差点まで進みます。交差点を渡り進んでいくと左手に水稲荷神社の階段が見えてきます。階段を上ると堀部安兵衛之碑「高田馬場の決闘」の顕彰碑があります。江戸で剣術の修行をしてた安兵衛が、決闘の助太刀をして相手をバッタバッタを切り倒して評判となり、赤穂の浅野家家臣堀部弥兵衛の養子となり赤穂浪士47人の一人に名を連ねることとなるのです。

 

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参道を進むとヤギ・・・

 

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水稲荷神社 (大国社・太田道灌 駒繋松・耳欠け神狐)

藤原秀郷稲荷大神を勧請して平将門討伐の戦勝祈願をしたのが始まりという古社で、霊水が湧き出したことから水稲荷神社と改称されています。江戸時代は高田稲荷と呼ばれていて、高田富士塚と呼ばれる富士塚もありました。この富士塚は江戸で一番古く、安永8年(1779年)に造られました。昭和38(1963)~早稲田大学が社地を購入したため崩されて水稲荷神社境内に復元されたということですが、見学できないみたいです。

 

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甘泉園

徳川御三卿の一つ・清水家の下屋敷があった場所で、園内の泉から湧き出る水がお茶に合うというのが甘泉園の名の由来です。明治以降は子爵相馬邸の庭園として、昭和に入り早稲田大学が付属甘泉園として譲り受け、昭和44年(1966)に区立公園となりました。

 

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面影橋

都電荒川線が走る新目白通りを横断して、面影橋神田川を渡ります。

 

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山吹の里碑

面影橋の辺りが山吹の里伝説の地。橋を渡った先にあった山吹の里の碑はマンション工事のため神田川沿いに移設されていました。

 

【 山吹の里伝説 】

◎山吹の里伝説文明年間(1469~86)、太田道灌がこの付近に鷹狩りに来た時、急雨に降られて近くの農家で蓑を借りようとしました。家の中から出てきた娘は、庭に咲く山吹の花を手折って道灌に捧げました。道灌はその意味が理解できずに帰り、近臣に事の次第を話したところ、そのうちの一人が、中務卿兼明親王の「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ悲しき」の歌を借りて、家に蓑がないから貸すことができないとの意を表したのだろうと話しました。自分に歌心のないことを恥じた道灌は、その後、和歌の道に励んだという。この娘は紅皿といい、その墓と称される碑が区内新宿6丁目の大聖院にあります。◎面影橋伝説戦国時代に、この地に来たという和田靱負という武士の娘於戸姫の伝説です。結婚を断った武士にさらわれ、気を失ったところを杉山三郎左衛門夫婦に助けられ、やがて近所の小川左衛門に嫁いだ於戸姫は、夫の友人に夫を殺され、仇はとったものの、自分の身に相次いで起こる不幸から、家を出て神田川の川辺でわが身を水に写し、亡き夫を想いながら川に身を投げて夫の許に急いました。里人は於戸姫の心情を思いやり、面影橋・姿見橋と名付けたといわれています。(新宿観光振興協会HPより)

 

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氷川神社

平安時代貞観年間(858~877)創建と伝えられ、在原業平も参拝されたといわれています。

 

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南蔵院

開山は室町時代の円成比丘とされ、円成比丘が諸国遊化のとき農家で奥州藤原氏の持仏とされる薬師如来立像を入手して草庵を建て安置したのが開創と伝わります。

 

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宿坂道

宿坂の関と呼ばれる場所がこの辺りにあり、関東お留の関で鎌倉街道の道筋にあったといわれています。現在の宿坂道よりやや東寄りに位置していたそうです。急な坂を自転車が下っていきます。上りは大変だよなぁ。

 

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目白不動 金乗院真言宗豊山派

開山永順が本尊の聖観音菩薩を勧進して観音堂を作ったのが始まりとされています。山門を入った右手にある目白不動江戸五色不動の一つです。目白の号は三代将軍家光の命によるといわれています。墓地の奥には、丸橋忠弥の墓があります。由比正雪らと幕府覆滅をはかったが発覚、初めて鈴ヶ森刑場で磔刑になった人です。また、図書館の始祖といわれる江戸時代の公事師青柳文蔵の墓もあります。

 

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俱利伽羅不動庚申

境内にはたくさんの庚申塔がありますが、ずば抜けてかっこいい庚申塔がありました。寛文六丙午年(1966)とあります。説明板には青面金剛の化身と書かれていますが、倶利伽羅不動寺のHPには、「倶利伽羅とは、インドの古典サンスクリット語kulikahに由来します。kulikahとは、倶哩迦や矩里迦とも音写され、その意味は「具黒」であり、龍王の名前とされました。もともと不動明王に念ずる功徳がこの龍に降りそそぎ、この龍を駆使し加護を受ける事が出来るという信仰が、いつしかこの龍が「不動明王の化身」という尊格までになりました。当山では、「剣に黒龍が巻きついたお姿のお不動さま」と訳しております。」と書かれています。青面金剛についてWikiには、「インド由来の仏教尊格ではなく、中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊格である。庚申講の本尊として知られ、三尸(さんし)を押さえる神とされる。」とあります。混同されていたのでしょうか。よくわかりませんが、とにかくかっこいいことだけは確かです。そしてお猿がかわいい。

 

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坂を上り切り目白通りを渡ると鬼子母神表参道に入ります。都電の走る明治通りに入ると鬼子母神大門欅並木が見えてきました。いい雰囲気です。この辺りでお昼をと思っていたのですが、結局公園のコンビニ飯で済ませてしまいました。

 

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鬼子母神

室町時代の永禄4年(1561)清土(文京区目白台)の畑から掘りだして鎮守したのが始まりとされています。鬼子母神堂は法明寺の境外堂になります。子授け、安産、子育ての鬼神として知られています。本殿は広島藩主浅野光晟の正室自昌院の寄進により寛文4年(1664)に建立されたもので国指定重要文化財となっています。

 

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境内にある樹齢700年ともいわれる立派な大イチョウ。見ているだけで元気がもらえます。

 

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鬼子母神堂前の道を進むと三叉路の真ん中に文化8年(1811)建立の髭題目碑が建てられています。左側の道を進みます。

 

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法明寺

弘仁元年(810)に威光寺として開創しその後法明寺に改称したと伝わる古刹。源義家以来、源家の祈願所だったとも云われています。

 

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紫陽花が奇麗です。安国堂脇の小路を進んでいきます。

 

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本立寺

寛永年間(1624~44年)に善学院日詠によって創建されたと伝えられています。江戸時代中期に姫路藩藩主榊原政邦の生母だった延寿院の帰依があり、以降榊原家の奥方の菩提寺となっています。

 

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大通りにぶつかったら右に曲がり、東池袋の交差点を渡ります。首都高速をくぐり首都高速沿いに歩きます。見上げるとサンシャイン60が頭上に大きく見えてきました。交差点をわたりそのままサンシャインシティの横を進んでいきます。サンシャインシティの建つ場所は、かつて、スパイ・ゾルゲや尾崎秀実の死刑執行、東条英樹ら戦犯を収容した刑務所としても有名な巣鴨プリズン(旧東京拘置所)がありました。東池袋中央公園の中に碑が残っています。

 

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六つ又子育地蔵

東池袋三丁目の交差点で春日通りを渡り左に進みます。帝京平成大学キャンパス前に子育地蔵が置かれています。旧鎌倉街道の道筋にあたる六ツ又交差点にあったものが、高速道路工事のため現在の地に移されたそうです。六ツ又交差点はもうちょっと先にあります。キャンパス脇の道を折れると旧道が復活するようなので、旧鎌倉街道の六ツ又はどこだったのでしょう。よくわかりませんでした。

 

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千川上水調節地跡

キャンパス沿いの細い道を進むと明治通りに合流します。しばらく進むと「千川上水調節池跡」の看板を見つけました。千川上水は上野や浅草方面への飲料水を確保するために玉川上水から分水した上水です。ここに造られた溜池で砂やごみなどを沈殿させていました。小さな公園になっています。

 

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掘割

千川上水調整池跡を過ぎてすぐの交差点で、中山道を渡ります。中山道を歩いた時はすぐ近くの大正大学でお祭りをしていたんだよね。さざえ堂にのぼったんだよ。なかなか良かったなぁ。なんて思い出しながら進んでいきます。西巣鴨の交差点で国道を渡り、斜め左の細い道、瀧野川八幡通りへと入っていきます。

 

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瀧野川八幡神社

滝野川村の鎮守で、鎌倉時代初期に頼朝が勧請したといわれています。社殿の裏手からは縄文時代後期の住居跡が発見されています。

 

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四本木稲荷(よもとぎいなり)

八幡神社から枡形みたいな道を進んで四本木稲荷にやってきました。陸軍の雷汞場となるより前にあった無名の小祠に、陸軍砲兵工廠敷地内にあった王子稲荷分社の「四本木(しほんぎ)稲荷」を移転、戦後陸軍の管理を離れ周辺地域の人により祀られましたが、神道大教派の神社となり「よもとぎ」稲荷と呼ばれるようになりました。なんだかいろいろと複雑な経緯を持った神社のようです。

 

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稲荷からまっすぐ進んで信号を渡り音無もみじ緑地を抜けて、石神井沿いに歩いて紅葉橋を渡り、そのまま真っすぐ進んでいきます。

 

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左手に北区中央図書館が見えてきました。図書館に併設されている赤レンガのカフェは、大正8年(1919) 東京砲兵工廠銃砲製作所として大正八年(1919)に建設されました。戦後アメリカ軍に接収され、返還後は陸上自衛隊十条駐屯地に、その後北区に移管されています。隣接する駐屯地内には大正七年(1918)に変圧所として建設された建物の一部を利用したモニュメントがあります。

 

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公園の左側の出口から続く細い道を歩いていくと岩槻街道日光御成道)に合流します。道路の拡張工事をしていて道が一気に開けるようです。

 

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地福寺

将軍家の日光参拝時の休憩所になっていました。

 

 地福寺から少し歩くと東十条駅に続く曲り角。東十条から赤羽まではあと一駅。頑張って歩こうと思ったのですが・・あまりに蒸し暑くてここで力尽きてしまいましたぁ。御成道は歩いているから、良しとしよう。ってなわけで東十条駅へ抜けて、鎌倉街道中道は終了とします。

 神田川の前後に高低差があったぐらいで、全体的にはあまり起伏はありません。蒸し暑かったので、公園にちょこちょこと寄り道しながらの街道歩き。木陰は気持ちがいいのです。ほとんどの公園にはベンチもトイレもあるのでゆっくり休憩ができました。

 今回は源氏よりも太田道灌の存在が大きい街道歩きとなりました。山吹の里伝説。足りないところをすぐに学んで自分のものにしてしまう。文武両道の魅力的な人物です。何となくしか知らないのでちゃんと調べてみよう。そんな道灌の力を恐れて暗殺をしてしまったが故に結局は権力争いに負けてしまった扇谷上杉家。リーダーの器でない人物が権力の座につくと碌なことはありません。呪文のように安心・安全を唱えるだけの為政者も権力の座にしがみつくことだけが重要で何もみえなくなってるんでしょうか。オリンピックは予定通り開催。いつのまにやら有観客。感染者数も増加の一途。海外選手団からは陽性者。数々の疑惑は無視。国民の声はおろか天皇の声さえ届きません。とにかく権力の座から降りてもらい全ての膿を出さないとなりません。「当方滅亡」とならないように。