マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【鎌倉街道 中道】5日目 二子から新宿  2021.6.5(土)

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旧朝倉家住宅

旧朝倉家住宅

猿楽町の南西斜面を利用して東京府議会議長や渋谷区議会議長を務めた朝倉虎治郎によって、大正8年(1919)に建てられました。平成16年(2004)重要文化財に指定されています。

 

二子二子玉川駅→ 五本木 渋谷新宿新宿駅) 約16km

 

二子の渡しから先の中道は、中野を通るルートと渋谷を通るルートに分かれます。今回は渋谷を通るルートをたどります。

 

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二子玉川駅からライズを抜けて二子玉川公園に向かいます。気持ちのいい歩道が続いています。

 

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帰真園(二子玉川公園

2013年に作庭された世田谷区初の回遊式日本庭園です。多摩川の源流から本流までの国分寺崖線の豊かな丘陵と武蔵野の風景を表現した空間になっているそうです。奥に見える「旧清水家住宅書院」は、明治43年(1910)頃、中根岸(台東区)の清水家屋敷内に離れとして建築され、大正八年(1919)に同家の玉川(瀬田)の屋敷に移築されたもので、公園建設と共に移築復元されています。

 

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園内にはきれいな花がたくさん咲いています。

キンシバイアジサイ、ホタルブクロ、スイレン

 

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晴れていれば多摩川を挟んで富士山も見えるらしい。今日は雲が多くて蒸し暑い一日になりそうです。

 

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二子玉川公園から上野毛へ向かって出発。早速坂道が続きます。国分寺崖線です。坂を上って環八を渡り上野毛通りを進んでいきます。

 

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中町天祖神社

創建は不詳ですが江戸時代は玉川村野良田の鎮守社でした。明治維新後、天祖神社に改称されています。この先まっすぐ歩いていくと目黒通りと合流します。合流するところに庚申塔があったはずですが・・・見逃してしまいました。目黒通りと合流する信号の所だと勘違いしていて見つけられなかったのです。家に戻ってグーグルマップで確認したら、手前のガソリンスタンド脇の上野毛通りと一方通行の道が合流するところに庚申塔がありました。進行方向が逆だったら見つかったのに。

 

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目黒通りを進み都立大学北口のバス停の所から緑道へ入ります。

 

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呑川柿の木坂支流緑道

呑川(のみかわ)は、桜新町から池上・蒲田を抜けて東京湾に注ぎます。呑川の由来は、その昔、牛が誤って川に落ち水を飲んでしまったからともいわれています。今回歩く緑道は「呑川柿の木坂支流緑道」。上馬付近を水源として都立大学駅付近で本流と合流する支流で暗渠になっています。桜並木が続いているので桜の時期は奇麗だろうなぁ。最初の信号で右に曲がり環七を渡ってすぐの細い道に入ります。

 

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碑文谷公園

途中で曲がり碑文谷公園でひとやすみ。この池は立会川の水源になっています。江戸時代には将軍の鷹狩り場になっていたそうです。池の中島には江戸時代にこの辺りを知行していた旗本神谷氏が奉献した弁財天が安置されている厳島神社があります。街道に戻り進むと駒沢通りに出ます。が、渡りたいのに信号がない。危ないので迂回して信号を渡り街道に戻りました。

 

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葦毛塚

住宅地の中をどんどん歩いていきます。道の真ん中にこんもりとした塚が残されています。「源頼朝が、葦毛の馬に乗ってこの地を通ったとき、その馬が何かに驚いて沢に落ちこんで死んだという。」とも「この地の領主北条左近太郎が仏経をもって出かけたが、その葦毛の乗馬が突然倒れたのでここに埋めた。」とも。「この辺りは古くから馬の放牧地であり、馬に関した地名や伝説が多い。」と書かれています。頼朝ってなんだか落馬のイメージがあるよね。

 

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蛇崩

葦毛塚を越えて五本木通りぶつかったら左に曲がり蛇崩緑道を横切って、蛇崩交差点で右に曲がり坂を上っていきます。「蛇崩」という地名は「昔、大水の際に崩れた崖から大蛇が出たことからこの地名がついた」といわれています。蛇崩川は目黒川の支流で暴れ川だったそうですが、今は暗渠となり緑道になっています。緑道を西に10分ほど進んでいくと、源義家、頼義、頼朝が戦勝祈願をした源氏ゆかりの駒繋神社があります。ちなみに下馬という地名は、頼朝が「この地に来たときは馬から下りて沢は引いて渡れ」と命令し「馬引きの沢」と名付けた古事からこの一帯を「下馬引沢村」と呼ぶようになり、大正14年に町制がしかれた際、引沢が取れて下馬になったと、駒繋神社のHPに書いてありました。でも駒繋神社には寄っていません。

 

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宿山の庚申塔

坂を上っていくと庚申塔が見えてきました。向かって右から2番目の庚申塔は元禄五年(1692)、その左の地蔵菩薩を本尊とするものは延宝三年(1675)、一番左の庚申塔は宝永五年(1708)に建立されました。庚申塔のある細い道を右に進んでいきます。

 

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坂を下り烏森小学校の横を過ぎて山手通りを越えると一気に人が増えてきました。そのまま進んで目黒川を渡ります。道が突き当たったら右に曲がり坂を上ってきます。この坂は「目切坂」と呼ばれ、斜めに切通しをした形がひき臼の目切に似ていたからとも石臼の目を切る職人がいたからともいわれています。

 

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目黒元富士跡

坂の途中には文化九年(1812)に築かれた高さ12mもある富士塚がありました。文政二年(1819)に別所坂上に新しく富士塚が築かれ、これを「新富士」と呼び、こちらにあった富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。浮世絵にも描かれた名所でしたが、どちらも取り壊されてしまいました。

 

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地蔵・道標

坂を上ったところに地蔵と道標があります。「右大山道・左祐天寺道」とあります。この先に人気のお店があるようで地蔵の前にはたくさんの人が行列していました。

 

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旧朝倉家住宅

目切坂を上ると旧朝倉家住宅の入口があります。大正八年(1919)東京府議会議長や渋谷区議会議長を務めた朝倉虎治郎によって建てられた朝倉家の本宅です。目黒川へ続く斜面(崖線)を利用して回遊式庭園が続きます。母屋の2階からは富士山も望めたそうです。関東大震災や戦争による消失の危機を乗り越えてきた建物ですが、相続税支払いのために売却を余儀なくされ中央馬事会へ売却、その後農水省や大蔵省の管轄となり利用されていましたが、行政改革により民間に売却されて更地となる計画が持ち上がりました。貴重な建物を残そうと保存運動が始まり国の重要文化財指定を受けて保存が決定しました。これが一番の危機だったと係の方が言っていました。本当に取り壊されなくてよかった。材木を扱っていた虎次郎が選んだ貴重な材木がふんだんに使われています。緊急事態宣言が緩和されて6月1日から入場できるようになりました。こんなに素敵な建物なのに100円で見学できます。なんてありがたいことでしょう。

 

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猿楽塚

ヒルサイドテラスの裏側に築山が残されています。6~7世紀の古墳時代末期の円墳といわれています。この塚の名称が町名の起源となっています。

 

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ジャカランダの花が咲いています。代官山交番前で旧山手通りをわたり八幡通りを進みます。お昼を食べ損ねていたので途中にあったナチュラルローソンでコンビニ飯。汗まみれだとおしゃれなcafeには入りにくいんです。

 

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猿楽橋でJRを越え、渋谷川を渡り進んでいくと左手に八幡宮が見えてきました。

 

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金王八幡宮

この辺り一帯を支配していた渋谷氏の祖、河崎基家が寛治六年(1092)に創建したと伝わります。社殿は度々修理されているものの慶長十七年(1612)に造営された江戸初期の建築様式を留めている貴重な建物です。境内には、源義朝に従い保元の乱に出陣、平時の乱の後出家し義朝の霊を弔い、頼朝の鎌倉開幕に尽力し、義経追討の命を受け討死した渋谷金王丸常光の御影堂もあります。

 

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こどもの樹

いつの間にか老朽化により閉館していたこどもの城ですが、岡本太郎のモニュメントは残されていました。跡地は何になるんでしょうねぇ

 

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こどもの樹から青山通りをすすみ、表参道ヒルズで左に曲がります。こんなところに秋葉神社がありました。右に曲がりヒルズの裏にまわりおしゃれなお店が続く通りを進んでいきます。緊急事態宣言中というのに人がいっぱい。感染対策をしていれば出歩いても構わないとは思うけど。

 

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熊野神社と龍巌寺の間の緩い坂は、勢揃坂といい、後三年の役の際に欧州へ出陣する源頼家がここで軍勢を整えたと伝わります。歩いた時は気づいていませんでした。

 

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道なりに歩いて仙寿院交差点に出ます。すぐ右手には仮囲いで半分隠れた新国立競技場。オリンピックモニュメントも見てきました。オリンピック・・本当にやるんだね。何が何でもやるんだね。こんなにワクワクしないオリンピックは必要?

 

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新宿御苑

江戸時代には信濃高遠藩内藤家の下屋敷がありました。明治維新後に国営の農事試験場が創設され、宮内省の御料地を経て、明治39年(1906)に皇室庭園として誕生。昭和24年(1949)に国民公園として一般に公開されました。6月4日から再開されていますが、閉園時間は16時半に短縮、人数制限もされていました。園内で「内藤新宿とうがらしクレープ」という白あんに内藤唐辛子を練りこんだホイップクリームをクレープで包んで凍らせたものが売っていました。江戸時代に一大ブームを巻き起こしたという唐辛子。内藤新宿で育てられて大人気だったそう。持ち歩いているうちにやわらかくなって食べごろになります。思ったほど辛くはない。ちょうどいいおやつになりました。閉園時間まで園内をゆっくり散歩して帰りましょう。今日の街道歩きはここで終了です。

 

 今日のルートも坂道が多いですが、前回ほど高低差はありません。川を渡り、台地を歩き、また川を越え・・みたいな感じでしょうか。川も暴れ川だったろうし、頼朝も落馬してしまうくらい湿地も多かったので、雨が降ったら大変だったでしょうね。今はすっかりおしゃれな住宅地や繫華街となっているこの道を、奥州征伐に向かう武士たちが馬を走らせていたなんて想像すると何だかワクワクしてきます。

 東京の緊急事態宣言が延長されたけど一部緩和されて、ってよく意味がわかりませんが、とにかく旧朝倉家住宅や新宿御苑にも入ることが出来るようになったので中道の続きを歩いてきました。オリンピックなんて始まったら今日のルートは歩けそうにないもの。それにしても安心・安全の具体的根拠と取り沙汰されている利権の疑惑についてちゃんと聞きたいものです。無理やり開催した後に残るレガシーが莫大な増税と感染者数の増加じゃなきゃいいけど。検証もなく続く緊急事態宣言もどうなんだか。オリンピック後は忘れず選挙に行きましょう。