マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【駅ハイ】 信玄公生誕500年記念 美しい紅葉の中で蕎麦を食べながら、武田家終焉の地を行く  (2021.11.12-14) 2021.11.13(日)

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甲将殿

甲将殿(景徳院)

安永四年(1775)の勝頼200年遠忌に墓が建立されるまで、甲将殿とその中に安置された勝頼・北条夫人・信勝の坐像と、殉難者の位牌が「墓」とされていました。合戦の後、主君も家臣も入り乱れた遺骸を、現在甲将殿が建っている場所に穴を掘り葬ったと伝わります。

 

甲斐大和駅武田勝頼公像 → ②姫ヶ淵 → 武田勝頼公の墓 → ④天童山 景徳院 → ⑤日川渓谷「竜門狭」⑥天目山 栖雲寺⑦片手切 → 道の駅甲斐大和有馬晴信謫居の跡 → 甲斐大和駅(約14km)

 

 甲州街道を歩いていた時から気になっていた天目山。“駅からハイキング”のコースになっていたので、紅葉を愛でながら歩いてきました。久しぶりの駅ハイは、カードからアプリでの受付となっていました。

 

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武田勝頼公像

駅前の広場で受付をして後ろを振り向くと、勝頼公の像がありました。平成14年(2002)大和村制60周年記念事業として建立されたものです。広場のベンチで支度を整えトイレを済ませて出発です。

 

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国道20号線に出て景徳院入口の交差点まで来たら左手の県道218号線に入ります。歩道はありませんが、交通量は多くないので安心して歩けます。日川に沿うようにひたすら坂を上っていきます。

 

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四郎作古戦場

石碑の裏の由来によると、武田家譜代家臣小宮山友晴は、武田家の為を思い率直に意見を述べたものの、勘気を被り蟄居されられましたが、天正十年(1582) 多くの重臣に離反された武田勝頼の危急を知り、決戦の前夜の一行に追い付き許しを請い、最前線であるこの地に陣を敷き奮戦したとのことです。

鳥居畑古戦場

先ほどの碑から川を渡ってすぐのところあります。こちらの案内板にも小宮友晴の名前が見えます。この辺りが最後の激戦地だったのでしょう。多勢に無勢。織田・徳川勢4000名に対してこの時にはもう4~50名しかいなかったといわれています。主君の自害する時間を稼ぐためだけの戦いでした。合掌

 

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②姫ヶ淵 

自害した勝頼公夫人の侍女16名が日川の淵に身を投じて殉死したと伝わります。北条氏から嫁いだ勝頼夫人はこの時19歳でした。姫ヶ淵の駐車場から景徳院へ向かいます。

 

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武田勝頼公の墓

安永四年(1775)の勝頼200年遠忌に際して建立されました。中央に勝頼の宝篋印塔、向かって右手に北条夫人の五輪塔、左手に信勝の五輪塔、両脇には殉難者の供養塔が据えられています。祭壇の修理事業の際に内部から五千点を超える教石が出土しています。

辞世の句 勝頼「おぼろなる月もほのかに雲霞晴れて行くへの西の山の端」

     信勝「あだに見よ 誰も嵐の桜花 咲き散るほどの 春の夜の夢」

     北条夫人「黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき 思いに消ゆる露の玉の緒」

         「帰る雁 頼む疎隔の言の葉を 持ちて相模の国府に落とせよ」

北条氏康の6女とされる夫人は14歳で同盟強化のため勝頼の下に嫁いできました。謙信の死による上杉家の後継者争いで兄の景虎が敗れ自害したことにより、甲相同盟は解消。勝頼は後北条家に戻るよう説得しましたが拒否し、勝頼と運命を共にしました。勝頼が景虎の味方をしていたら歴史は変わったのでしょうか。

 

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 ④天童山 景徳院 

武田勝頼主従を供養する徳川家康が建立しました。大火が数度あり江戸時代の建造物として残っているのは、安永八年に再建された山門のみとなっています。本堂の脇の細道を進んで県道へ出ます。

 

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竜門峡ハイキングコース

竜門橋から天目地区まで日川の両岸にまたがる延長約2.4kmのハイキングコースです。駐車場のトイレを拝借していざ出発。

 

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⑤日川渓谷「竜門狭」

日川渓谷沿いの気持ちのいいハイキングコースでした。それなりに歩きごたえもあります。雨の日は舗装道路を行くようにと書いてありましたが、道は滑りやすくなるので歩くのは確かに危ないですね。炭焼窯跡や平戸の石門、木賊の石割けやき、蜘蛛淵や栂見の洞穴など見どころもたくさん。道路に出たら富士山の頭がみえました。栖雲寺はすぐそこです。

 

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⑥天目山 栖雲寺

天目山 栖雲寺  臨済宗建長寺派

貞和四年(1348) 業海本浄により開創され、甲斐武田氏の庇護を受けて栄えました。勝頼はこの寺を最後に目指しましたがたどり着くことはかないませんでした。勝頼の敗北により全焼しましたが、徳川家康の寺領寄進を受けて再建されました。武田家伝来の宝物が収蔵されていて、ちょうど風入れ展が開催されていて、信玄公の軍配や軍旗などを間近で見ることが出来ました。軍配の刀傷まで見せてもらえました。ここは蕎麦発祥の地でもあるそうです。カフェもしていたようですが人が多かったので入りませんでした。

 

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武田信満の墓( 栖雲寺)

上杉禅秀の乱で敗れた武田信満の墓もありました。信満も天目山で自害をしているのですね。辞世の句は「梓弓ひきそめし身のそのままに 五十あまりの夢や覚さん」

 

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禅庭の紅葉がきれいです。

 

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摩崖仏 座禅石( 栖雲寺)

 

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摩利支天

 

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どこまでが境内なのかがよくわからず小屋のあるとこまで行ったら、富士山がよく見えました。

 

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帰りは県道を戻ります。久しぶりの丸石道祖神

 

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交通量は少ないけど歩道がないので、車に注意。

 

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やまと天目山温泉 日川渓谷レジャーセンター

実はこの先のお蕎麦屋さんで蕎麦を食べようと思っていたら満席だったのです。どちらかの施設で食べればよかった。と、思ったのは後の祭り。

 

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⑦片手切

栖雲寺を目指した勝頼一行ですが、追っ手に阻まれ引き返すことになりました。このとき土屋惣藏は勝頼の危機を救うため山道の狭い岩角に身を隠し、片手で藤つるにつかまりながら敵を谷に切って落としたそうです。深い谷です。

 

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姫ヶ淵まで下ってきました。こうやって見ると身を投げるほどには見えませんが、現在の日川は上流で発電用水をして取水しているために水量が少なく、その様相が変わってしまったそうです。

 

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正一位稲荷大明神の鳥居のところからコースを外れます。お目当てのお蕎麦屋さんが満席だったので、道の駅を目指すことにしたのです。途中にあった三社神社にはかわいらしい六地蔵と丸石道祖神。20号線に合流すると道の駅まで歩道がない。交通量が半端ないし、大きなトラックも通ってすごく怖かった。下の方に橋も見えるけど、ナビにはでてこないので歩いていいのかがわかりませんでした。

 

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ざるうらじろ麺(道の駅甲斐大和

ヤマゴボウの一種のオヤマボクチを練りこんだ麺だそうで食物繊維たっぷりだとか。ツルっとしたのど越しのさっぱりした麵です。そば処で食べようを思っていたら長い行列。だいぶ待ちそうなので軽食コーナーで食べることにしました。食券はすぐに買えたのだけど出てくるまではだいぶ待ちました。コロナで閉まっていたからすぐには戻れないですよね。このままコロナが下火になればいいのに。交通量の多い国道を戻り、信号を渡って有馬晴信謫居の跡へ寄り道。

 

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有馬晴信謫居の跡

最後のキリシタン大名 有馬晴信(1567-1612)の謫地でした。キリシタンの洗礼を受けて以来キリスト教伝導の施策を進めていた晴信ですが、海外貿易における争いからポルトガル船を撃沈する事件を起こしイエズス会との関係が悪化します。この事件後に旧領回復を願い出た事により幕府側目付役 岡本大八への贈賄事件となり、謫地のうえ切腹を申し付けられたのですが、キリシタンのため切腹はせずに老臣に斬首の執刃を命じたのでした。この事件により禁教令が発布され島原の乱へと続いていくことになるのです。栖雲寺で見学してきた“虚空蔵菩薩画像”は晴信を描いたものと書いてあるものもありますが、栖雲寺のパンフレットによれば、元の時代に描かれたマニ教絵画であろうとされています。不思議な絵がお寺に残されているのですね。

 謫居跡へ行って初めて気が付いたのだけど、国道の下がくぐれるようになっていました。その先は国道から見えた歩行者用?の橋に続いていたけど、ナビでは国道を進めとしか出ていなかったのですが、歩いてもいい道なのでしょうか。信号から駅までの国道にはちゃんと歩道があるので安心して歩けました。

 

 実際に信玄公が使っていた軍配や軍旗を見てきました。武田信玄がもう少し長生きしていたら歴史は変わったのでしょうか。勝頼が嫡子だったらすんなり跡を継ぐことができたのでしょうか。諏訪のままだったらいい領主になったのではないのでしょうか。あまりにも悲しい最後で、つい色々と考えてしまいます。紅葉がきれいだねって、のんびりハイキングできる現在は幸せです。