マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【中山道 6日目】 11.新町宿 → 12.倉賀野宿 → 13.高崎宿 → 14.板鼻宿    2016.9.11 (日)

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倉賀野宿の江戸口は、中山道日光例幣使街道の分岐点にあたります。徳川家康の命日に行われる日光東照宮例祭に朝廷から派遣された勅使(例幣使)が、ここから日光へと向かいました。この慣例は朝廷にとっては屈辱的だったため例幣使の一行は横暴な振る舞いが多かったと云われています。


11.新町宿新町駅 → 12.倉賀野宿 → 13.高崎宿 → 14.板鼻宿安中駅  約24km


気付けばいつの間にやら9月に。この夏は猛暑な日々が続いたと思ったら、突然の台風ラッシュ。夏休みは冷房の効いた室内でのんびりオリンピック観戦としゃれ込んでたヘタレな旅人もそろそろ活動開始。と思いきや今度は秋の長雨な天気予報。なかなか歩き旅日和になりません。横浜は雨が降っていましたが、天気予報では群馬県は晴れ予報。さて、出かけますか! 前回の終了地点、高崎線新町駅からスタートです。お天気は・・・・何とか曇り空。雨になりませんように☆


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於菊稲荷神社に寄り道。
前回は忘れちたので道中安全を祈って御朱印をいただいてきました。ここの御朱印はかわいいんだよ。そして仮殿の中にかわいいネコちゃんが2匹。空き家で生まれた子猫を引き取ったんだって。とてもかわいらしい看板ネコちゃんです。


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小林本陣跡


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温井川の近くにある中山道標柱の辺りが新町宿の京口。すぐ脇には、スリーデーマーチ発祥の地の碑もあります。


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新町河原よりの展望図
赤城山榛名山浅間山も見えるんだね。今日は雲が多いからみえるかなぁ。


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川端家
国有文化財。江戸字時代の豪農で明治の代になると生糸の貿易で財をなしました。


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中山道道標
道標先の関越自動車道のガードをくぐり民家の路地をしばらく歩きます。


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途中から土手に上がります。空にはちょっと怪しい雲・・・。この先は土手を下りたり上がったりしながら進みます。


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烏川
柳瀬橋で烏川を渡ります。江戸時代は渡し船で川を渡っていました。利根川に合流します。


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土手にはヒガンバナ


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倉賀野宿まであと1.9km


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キバナコスモス



12 倉賀野宿
利根川須系最上流の河岸があり、牛馬で運ばれてきた上信越の物資が、ここから船積みされて江戸へと運ばれ水運の要所として栄えました。また日光東照宮へ向かう勅使の通る「例幣使街道」の分岐点でもあり重要な宿場でした。中山道宿村大概帳(天保14年・1843)によると、宿内家数297軒、うち本陣1脇本陣2、旅籠32軒、人口2032人、916


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日光例幣使道追分 閻魔堂
改修が終わったばかりのピカピカの閻魔堂です。


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真ん中が追分にある閻魔堂と道標。右側が歩いてきた中山道。左側が日光例幣使街道


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倉賀野古商家おもてなし館(大山邸)
おもてなし館として復元された大山邸は、大谷治三郎が明治に創業した米屋「大黒屋」が現在に至る歴史的建造物です。明治40年代に当母屋とを近所の呉服商から手に入れこの地に曳家をしています。倉賀野宿で唯一内部を一般公開している建物です。ボランティアの方が常駐していて倉賀野の歴史を教えてくれます。暑い中歩いてきて冷たーいお水のおもてなしがうれしい。


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須賀脇本陣
倉賀野宿2軒の脇本陣の中の1つ。一般公開はしていないようです。現在工事中でした。古い建物を維持していくのって大変ですよね。


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倉賀野神社
倉賀野宿と近郊七ヶ郷の総鎮守。境内には飯盛達の信仰が厚かった冠稲荷が祀られています。皇女和宮降嫁の際はちょうど神社普請の最中だったそうで、音を建ててはならぬとの命令で大工仕事はお休みになったそうです。


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室町時代の異形板碑が保存されています。本堂裏は、七世紀後半の古墳。この辺りが倉賀野宿京口にあたります。


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松並木
街道の面影を少しでも感じられますようにとの配慮でしょうか。しばらくは幹線道路沿いを歩きます。



13.高崎宿
高崎城の城下町。本陣・脇本陣は設置されませんでした。城下の本町、田町、新町では六斎市(月に6回の市)が開かれ合わせて18回もの市が立ち、また三国街道、信州街道の分岐点として賑わいました。中山道宿村大概帳(天保14年・1843)によると、宿内家数837軒、うち旅籠15軒、人口3235人、町並2211


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上信電鉄線踏切
この辺りが高崎宿の江戸口


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あら町諏訪神社
慶長4(1599)の勧請。本殿は総漆喰の塗籠造の防火様式。ガイドブックの写真で見ていて大きな神社を想像していたら、ビルの谷間にひっそりとありました。


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中山道の面影のあまり残っていない高崎ですが、工事中のパネルに上州七宿発見。


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高崎神社
慶長3(1598)井伊直政が高崎城改築の際に建立。歴代藩主の崇敬が厚かっ高崎の鎮守
高崎神社に入る本町一丁目の交差点辺りが高崎宿の京口。ここから大通りと分かれた静かな旧道歩きになります。


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岡醤油醸造の事務所と煙突
平成に入り、醤油の製造は岡直三郎商店に以来されましたが、事務所は明治の創業当時の店舗がそのまま使用されており、明治時代を伝える数少ない建物です。


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君が代橋(親柱)
明治11(1878)明治天皇が巡行の際、馬車で木橋を渡ったことを記念して命名。橋の架かる烏川は利根川に合流します。舟渡しでしたが、明治7(1770)木橋が架けられ、渡賃五文が徴収されました
 

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先ほど見た親柱が似合うとは思えない橋を渡ります。江戸方面からは「豊岡町方面」に進みます。


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信州道分去れ道標
ここは左に進みます。道路標識の安中方面ね。真ん中にある道標には「右はるなみち くさつみち」とかかれています。


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平安末期の永承6(1051)源頼義、義家父子が奥州阿倍氏反乱を鎮圧する途次戦勝を祈願して建立されました。


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少林山達磨寺の住職が農民に製作を指導し、豊岡は「だるまの里」と呼ばれています。


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何だか自販機の写真をよく撮っている気がする・・・


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上豊岡の茶屋本陣
中山道の高崎宿と板鼻宿の間に設けられ、大名の参勤交代や上級武士・公卿の休息のために用いられました。皇女和宮も休息されました。


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中道案内柱(少林山入口交差点)
この交差点の手前500m程の国道沿いに群馬県唯一の一里塚(江戸から28里目)があったのだけど、何故かスルーしてしまった!なんだか勘違いしていて、交差点まで来てガイドブックを見直していたら過ぎていたという・・・ちょっと残念だなぁ。道の反対側を歩いていた方がいいみたい。この橋を渡ると川の反対側に少林山達磨寺があります。行ったことがあるので今回は寄らずに進みます。


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上野国一社八幡宮鳥居
源頼朝武田信玄の崇高が篤かったと云われています。街道沿いに大きな鳥居があったのでせっかくなのでお参り。信越線の線路を渡ったさきにあります。思ったよりも歩いた。


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双体道祖神
国道から分かれて旧道へ入ると石仏が目につくようになります。これは寛政4(1792)のもので祝言形です。台座には「京へ1073丁、江戸へ21里半丁、日光へ37里、善光寺37里、榛名山5里、妙義山4里半、加州金沢へ92里半」と刻まれています。と案内板には書かれていますが、読めません。



14.板鼻宿
碓氷川の渡しを控え、城下町である高崎宿を避けた旅人で大いに賑わい上州七宿では最大規模の宿場でした。中山道宿村大概帳(天保14年・1843)によると、宿内家数312軒、うち本陣1脇本陣1、旅籠54軒、人口1422人、町並1030


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榛名道道
この辺りが板鼻宿の江戸口となります。


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こちらは昭和レトロな建物


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板鼻堰用水路
稲作振興と宿場用水として江戸時代に造られました。


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鷹之巣橋
碓氷川を渡ります。夏は徒歩渡し、冬は仮橋を架けていました。碓氷峠を源流とする碓氷川は烏川に合流します。


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大河原家より寄付されたもので、公民館も建てられています。


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土手の奥は碓氷川。中洲を経て2か所のに仮橋が架かっていました。今は迂回して久芳橋を渡ります。迂回路を進むと正面に安中駅が見えてきます。右にすすむと久芳橋を渡り安中宿へと入りますが、この先はしばらく駅から離れてしまうので、今日は安中駅までで終了です。



 久しぶりの中山道歩き。雨に降られずにすみました。最高気温は30℃には届かないとはいえ、やっぱり蒸し暑くて、久しぶりの長時間歩きは疲れました。リハビリしないとなりませんねぇ。今日のお昼は高崎辺りでと思っていたのですが、ちょどいいお店が見つからず結局定番のコンビニ飯。普段はあまりコンビニで買い物をしないのだけど、街道歩きのときは食事に、トイレにとお世話になっております。ありがたいことだぁ。


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高崎まで戻ったら在来線で横浜まで一直線。今日は奮発してグリーン車でゆっくりかえります。上州牛の駅弁を食べてぐっすり寝たらもう横浜。お天気予報はしばらく雨模様。今度はいつ歩けるかなぁ。