日光例幣使街道追分
倉賀野宿の江戸口は、中山道と日光例幣使街道の分岐点にあたります。徳川家康の命日に行われる日光東照宮例祭に朝廷から派遣された勅使(例幣使)が、ここから日光へと向かいました。この慣例は朝廷にとっては屈辱的だったため例幣使の一行は横暴な振る舞いが多かったと云われています。
於菊稲荷神社に寄り道。
前回は忘れちたので道中安全を祈って御朱印をいただいてきました。ここの御朱印はかわいいんだよ。そして仮殿の中にかわいいネコちゃんが2匹。空き家で生まれた子猫を引き取ったんだって。とてもかわいらしい看板ネコちゃんです。
小林本陣跡
新町河原よりの展望図
川端家
中山道道標
道標先の関越自動車道のガードをくぐり民家の路地をしばらく歩きます。
途中から土手に上がります。空にはちょっと怪しい雲・・・。この先は土手を下りたり上がったりしながら進みます。
烏川
土手にはヒガンバナ
倉賀野宿まであと1.9km
キバナコスモス
12 倉賀野宿
利根川須系最上流の河岸があり、牛馬で運ばれてきた上信越の物資が、ここから船積みされて江戸へと運ばれ水運の要所として栄えました。また日光東照宮へ向かう勅使の通る「例幣使街道」の分岐点でもあり重要な宿場でした。中山道宿村大概帳(天保14年・1843)によると、宿内家数297軒、うち本陣1、脇本陣2、旅籠32軒、人口2032人、9町16間
日光例幣使道追分 閻魔堂
改修が終わったばかりのピカピカの閻魔堂です。
日光例幣使街道追分
倉賀野古商家おもてなし館(大山邸)
おもてなし館として復元された大山邸は、大谷治三郎が明治に創業した米屋「大黒屋」が現在に至る歴史的建造物です。明治40年代に当母屋とを近所の呉服商から手に入れこの地に曳家をしています。倉賀野宿で唯一内部を一般公開している建物です。ボランティアの方が常駐していて倉賀野の歴史を教えてくれます。暑い中歩いてきて冷たーいお水のおもてなしがうれしい。
須賀脇本陣
倉賀野神社
倉賀野宿と近郊七ヶ郷の総鎮守。境内には飯盛達の信仰が厚かった冠稲荷が祀られています。皇女和宮降嫁の際はちょうど神社普請の最中だったそうで、音を建ててはならぬとの命令で大工仕事はお休みになったそうです。
松並木
街道の面影を少しでも感じられますようにとの配慮でしょうか。しばらくは幹線道路沿いを歩きます。
13.高崎宿
高崎城の城下町。本陣・脇本陣は設置されませんでした。城下の本町、田町、新町では六斎市(月に6回の市)が開かれ合わせて18回もの市が立ち、また三国街道、信州街道の分岐点として賑わいました。中山道宿村大概帳(天保14年・1843)によると、宿内家数837軒、うち旅籠15軒、人口3235人、町並22町11間
上信電鉄線踏切
この辺りが高崎宿の江戸口
あら町諏訪神社
慶長4年(1599)の勧請。本殿は総漆喰の塗籠造の防火様式。ガイドブックの写真で見ていて大きな神社を想像していたら、ビルの谷間にひっそりとありました。
中山道の面影のあまり残っていない高崎ですが、工事中のパネルに上州七宿発見。
高崎神社
慶長3年(1598)井伊直政が高崎城改築の際に建立。歴代藩主の崇敬が厚かっ高崎の鎮守
高崎神社に入る本町一丁目の交差点辺りが高崎宿の京口。ここから大通りと分かれた静かな旧道歩きになります。
岡醤油醸造の事務所と煙突
平成に入り、醤油の製造は岡直三郎商店に以来されましたが、事務所は明治の創業当時の店舗がそのまま使用されており、明治時代を伝える数少ない建物です。
君が代橋(親柱)
先ほど見た親柱が似合うとは思えない橋を渡ります。江戸方面からは「豊岡町方面」に進みます。
信州道分去れ道標
ここは左に進みます。道路標識の安中方面ね。真ん中にある道標には「右はるなみち くさつみち」とかかれています。
少林山達磨寺の住職が農民に製作を指導し、豊岡は「だるまの里」と呼ばれています。
何だか自販機の写真をよく撮っている気がする・・・
上豊岡の茶屋本陣
中道案内柱(少林山入口交差点)
この交差点の手前500m程の国道沿いに群馬県唯一の一里塚(江戸から28里目)があったのだけど、何故かスルーしてしまった!なんだか勘違いしていて、交差点まで来てガイドブックを見直していたら過ぎていたという・・・ちょっと残念だなぁ。道の反対側を歩いていた方がいいみたい。この橋を渡ると川の反対側に少林山達磨寺があります。行ったことがあるので今回は寄らずに進みます。
双体道祖神
国道から分かれて旧道へ入ると石仏が目につくようになります。これは寛政4年(1792)のもので祝言形です。台座には「京へ107里3丁、江戸へ21里半丁、日光へ37里、善光寺へ37里、榛名山へ5里、妙義山へ4里半、加州金沢へ92里半」と刻まれています。と案内板には書かれていますが、読めません。
14.板鼻宿
碓氷川の渡しを控え、城下町である高崎宿を避けた旅人で大いに賑わい上州七宿では最大規模の宿場でした。中山道宿村大概帳(天保14年・1843)によると、宿内家数312軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠54軒、人口1422人、町並10町30間
榛名道道標
この辺りが板鼻宿の江戸口となります。
こちらは昭和レトロな建物
板鼻堰用水路
稲作振興と宿場用水として江戸時代に造られました。
鷹之巣橋
碓氷川を渡ります。夏は徒歩渡し、冬は仮橋を架けていました。碓氷峠を源流とする碓氷川は烏川に合流します。
大河原家より寄付されたもので、公民館も建てられています。
土手の奥は碓氷川。中洲を経て2か所のに仮橋が架かっていました。今は迂回して久芳橋を渡ります。迂回路を進むと正面に安中駅が見えてきます。右にすすむと久芳橋を渡り安中宿へと入りますが、この先はしばらく駅から離れてしまうので、今日は安中駅までで終了です。
久しぶりの中山道歩き。雨に降られずにすみました。最高気温は30℃には届かないとはいえ、やっぱり蒸し暑くて、久しぶりの長時間歩きは疲れました。リハビリしないとなりませんねぇ。今日のお昼は高崎辺りでと思っていたのですが、ちょどいいお店が見つからず結局定番のコンビニ飯。普段はあまりコンビニで買い物をしないのだけど、街道歩きのときは食事に、トイレにとお世話になっております。ありがたいことだぁ。
高崎まで戻ったら在来線で横浜まで一直線。今日は奮発してグリーン車でゆっくりかえります。上州牛の駅弁を食べてぐっすり寝たらもう横浜。お天気予報はしばらく雨模様。今度はいつ歩けるかなぁ。