マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【中山道 22日目 - 1 】 50.伏見宿 → 51.太田宿 → 52.鵜沼宿    2018.05.01(火)

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日本ラインロマンチック街道
木曽川は、その景観がヨーロッパのライン川に似ているため、日本ラインと呼ばれています。太田橋から続く土手道(堤防道路)は木曽川の景色と里山を眺めながら走れるランナーにも人気の道となっています。坂祝(さかほぎ)に入ると日本ラインロマンチック街道と呼ばれます。

御嵩駅 → 50.伏見宿 → 51.太田宿 → 52.鵜沼宿 → 苧ヶ瀬駅     約24.5km

 半年ぶりに中山道に戻ってきました。

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新幹線から名鉄を乗り継いでやってきました御嵩駅。身支度を整えたら西に向けて出発です。

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常夜燈(左) 
文政四年(1821)建立。火袋と笠が木製でできています。
秋葉山常夜燈(右)
こちらの常夜燈は、見慣れた石造り。秋葉山の常夜燈は東海道歩きと思い出すなぁ

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鬼の首塚
「桶縄手 今もその名を朽ちさりき 塩漬けにせし 鬼の首かも」十返舎一九
鎌倉時代、悪行三昧の「鬼の太郎/関の太郎」と呼ばれる悪党を退治し、その首を検分のため京都に運ぼうとしたところ急に首桶が重くなり一歩も進むことが出来なくなったため、その首をこの地に埋めたのが由来とされています。 菅原道真も途中で動かなくなったし、平将門の首なんて動かせないんだよね。それは未練なのか祟りなのか・・

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この先は県道と旧道を行ったり来たりします。

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比衣の一里塚跡
日本橋から96番目

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大柳跡
ここにあった大柳に、苦死(くし)から逃れられ早く親元に戻れるようにと、多くの飯盛りが櫛を供えていました。後方に見えるのは高倉山古墳。四世紀後半築造の前方後円墳

50.伏見宿
 宿並は六町余り。もともとは本来の宿と宿をつなぐ「間の宿」でしたが、木曽川の渡し場の移動で土田宿が廃宿となり、元禄7年(1694)に新設されました。木曽川の水運を利用した新村湊から多くの物資が運び出されて賑わっていました。中山道宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は82軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠29軒。宿内人口は485人(男230、女255)


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本陣跡

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一本松公園
奥で何かのロケをしていました。黄色い服を着た人が何か話していたけど、近寄りがたくてとりあえずスルー。ここの一本松は樹齢200年以上。

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古い建物が所々に残っています。

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常夜燈
このあたりが伏見宿京口

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またのおこしを・・

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恵土の一里塚跡
日本橋より97里目(これより約30m東)

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今渡の渡し場跡
太田橋の脇にあります。
「木曽のかけはし 太田の渡し 碓氷峠がなくばよい」 とうたわれた中山道三大難所の一つ。
木曽のかけはしも太田の渡しも今は難所ではありません。碓氷峠も大変だったけど、私としての一番の難所は、やっぱり和田峠です。

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太田橋
その昔は歩行者用の橋はなかったと、中山道を歩いている人のブログで見たような気がする。この橋を自動車と一緒に渡るなんて、危なすぎです。

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橋を渡った先でぐるっと交差点を渡って、木曽川の土手道に入ります。

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今渡の渡し跡
河川敷には渡し跡の公園があります。

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土手にアメンボらしき未確認生物が・・

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岡本一平終焉の地碑 
漫画家岡本一平岡本太郎の父親。ガイドブックではこの先で土手下に下りるようになっているけど、行き過ぎてしまいました。ここから土手下に下りて交差点に出るのがわかりやすい。

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神明堂の交差点のところには飛騨高山道と善光寺道の追分

51.太田宿
 江戸日本橋から数えて51番目の宿。当初は大久保長安が奉行として治め、長安没後は尾張藩が支配しました。太田の渡しは中山道三大難所の一つでした。上町、中町、下町に分かれ宿の長さは6町14間(約680m) 中山道宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は118軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋場2,旅籠20軒。宿内人口は505人(男259、女246)

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新町木戸門跡
ここが太田宿の江戸口となります。

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十六銀行旧太田支店
明治40年に建設され、その後昭和40年までの58年間使用されていました。鬼瓦には「銀」の文字

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町屋建築の伝統劇な技法で、現在の太田宿の町屋で最も整った外観を示す建物でお休み処として利用されているはずですが、定休日でした。

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脇本陣林屋住宅
国指定の重要文化財。母屋は明和6年(1769)に、表門は天保2年(1831)に建築されました。

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本陣跡
旧本陣には、皇女和宮の降嫁の際に新築された「旧太田宿本陣門」のみが残っています。

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太田宿中山道会館
レストランもあるときいていたけど、定休日。街道沿いのお店もなんだかやっているんだか、いないんだか。GW中とはいえ3連休後の火曜日はお休みなんだね。結局お昼は土手で手持ちのおにぎり。

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とびだし看板を見ると西に来たなぁと、つい撮ってしまいます。

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虚空蔵堂
太田宿西の出口。承久の乱(承久3年・1782)の木曽川合戦の戦場の北端がこのあたりと云われています。また、ムクノキは、この地で生まれた坪内逍遥ゆかりの木と云われています。ここから一色大橋のところまで土手道を歩いていきます。

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いったん国道に合流したあと、坂祝の歩道橋のところから土手道に戻ります。国道の途中で取組一里塚があったはずだけど、見落としてしまいました。土手道はロマンチック街道と呼ばれています。このあたりの木曽川は見どころが多く一番の景勝地となっています。そういえば「日本ライン下り」があったようなと調べてみたら、2013年で運休となっていました。先ほど歩いてきた太田橋から出発して、犬山橋までの13km。利用者の低迷に天竜川での事故が追い打ちをかけ休止になったようです。

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風情のある街並みが見えてきたら、ロマンチック街道もそろそろ終わり。勝山の交差点あたりでゆるく下りる道があるので、そこを下りて横断歩道で右側に渡っておくこと。知らずに端まで行って階段で下りたら、歩道も横断歩道もないうえ交通量は多くて反対側に渡れない。どうにか横断したけど、これは危険でした。そういえばガイドブックに載っていた交差点脇のコンビニはつぶれてました。

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歩道を歩いていると線路沿いにこんもりとした森の入口。ここから岩谷観音へと上ります。

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岩屋観音堂

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岩谷観音堂から国道に下りて歩いていくと、「この先歩道行き止まり」の看板。この先の横断歩道を渡り、道の反対側を歩いていきます。

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廃墟と化した何とかパブやらの脇を歩いていくと、青い看板の下に中山道の小さな道標。歩道の左側に入り階段を下っていきます。

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階段を下った先は、おなじみとなった水路脇のトンネルで、国道をくぐります。これは雨の日は無理。トンネルを抜け、草道を道なりに歩いていくと、うとう峠へと入ります。       (次ページへ)