垂井曳やままつり
南北朝時代の文和2年(1353)、北朝の天皇である後光厳天皇が美濃国垂井へ難を逃れた時、そのつれづれを慰めようと、村人たちが花車3輌を造って曳き回したことが始まりといわれています。西町の攀鱗閣(はんりんかく)、東町の鳳凰山(ほうおうざん)、中町の紫雲閣(しうんかく)の3輌は、いずれも精巧な造りに漆塗り、蒔絵、名工による彫刻金具などを施した絢爛豪華なもので、その雄大華麗な姿は“動く陽明門”と賞賛され、県重要有形民俗文化財に指定されています。また屋根上部にはそれぞれ、三種の神器である、金龍に鏡、火えんの曲玉、草薙の剣がとりつけられているのが特徴です。やまの舞台では、安永年間(1772~1780)に始まったとされる子供歌舞伎が小学生の芸児によって演じられます。芸児たちは、学校を約2週間休んで稽古に打ち込み、まつり3日間で10数回も舞台に立ちます。(岐阜県観光連盟HPより)
南北朝時代の文和2年(1353)、北朝の天皇である後光厳天皇が美濃国垂井へ難を逃れた時、そのつれづれを慰めようと、村人たちが花車3輌を造って曳き回したことが始まりといわれています。西町の攀鱗閣(はんりんかく)、東町の鳳凰山(ほうおうざん)、中町の紫雲閣(しうんかく)の3輌は、いずれも精巧な造りに漆塗り、蒔絵、名工による彫刻金具などを施した絢爛豪華なもので、その雄大華麗な姿は“動く陽明門”と賞賛され、県重要有形民俗文化財に指定されています。また屋根上部にはそれぞれ、三種の神器である、金龍に鏡、火えんの曲玉、草薙の剣がとりつけられているのが特徴です。やまの舞台では、安永年間(1772~1780)に始まったとされる子供歌舞伎が小学生の芸児によって演じられます。芸児たちは、学校を約2週間休んで稽古に打ち込み、まつり3日間で10数回も舞台に立ちます。(岐阜県観光連盟HPより)
雲はまだ重く垂れこめているものの、昨日からの大雨はほとんど上がりました。朝ごはんをゆっくり食べて予定よりも少し遅い電車で出かけることにしましょう。岐阜駅から大垣駅乗継で美江寺駅に向かいます。
55.美江寺宿
寛永14年(1637) に開設された小さな宿場町です。最初は本陣、旅籠、茶屋もありませんでしたが、通行人の増加に伴い、加納藩により本陣が建てられました。中山道宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は136軒、うち本陣1、脇本陣0、旅籠11軒。宿内人口は582人(男302、女280)
寛永14年(1637) に開設された小さな宿場町です。最初は本陣、旅籠、茶屋もありませんでしたが、通行人の増加に伴い、加納藩により本陣が建てられました。中山道宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は136軒、うち本陣1、脇本陣0、旅籠11軒。宿内人口は582人(男302、女280)
9時頃、美江寺駅に到着。駅から少し歩いたこのあたりが、美江寺宿の江戸口と云われています。ここはまっすぐに進みます。何となく雨が降っているような感じですが、傘がなくても大丈夫なくらい。正面にある看板には、5月20日に美江寺宿場まつりが行われると書かれています。どんなお祭りなんだろう。
美江神社 美江寺観音堂
ここにはかつて、揖斐川、長良川にはさまれ、大雨のたびに洪水に悩まされた地を「美しい江」に変えたという十一面観音を祀った美江寺があり門前町として賑わっていましたが、戦国時代に千手観音は斉藤道三が岐阜に移してしまいました。街道はここで左に折れて進んでいきます。トイレも借りられます。
ここにはかつて、揖斐川、長良川にはさまれ、大雨のたびに洪水に悩まされた地を「美しい江」に変えたという十一面観音を祀った美江寺があり門前町として賑わっていましたが、戦国時代に千手観音は斉藤道三が岐阜に移してしまいました。街道はここで左に折れて進んでいきます。トイレも借りられます。
高札場
美江神社境内に復元されています。
美江神社境内に復元されています。
庄屋和田家
旧美江寺城主和田家
旧美江寺城主和田家
本陣跡
墨俣道道標
美江寺宿の京口。中山道はここを右に曲がっていきます。ガイドブックには「大雨の度に浸水し、劣悪で評判が悪く、幕末の頃にはガラの悪い宿場町として恐れられていました。」と書かれていましたが、今は静かな宿場町でした。
美江寺宿の京口。中山道はここを右に曲がっていきます。ガイドブックには「大雨の度に浸水し、劣悪で評判が悪く、幕末の頃にはガラの悪い宿場町として恐れられていました。」と書かれていましたが、今は静かな宿場町でした。
美江寺千手観音像
石に掘られたとても優しいお顔の千手観音様がいらっしゃいました。雨は上がって、雲の切れ間に青空も見えてきました。
石に掘られたとても優しいお顔の千手観音様がいらっしゃいました。雨は上がって、雲の切れ間に青空も見えてきました。
大月浄水場公園
中山道跡地の案内板があって、石畳風の道が続いています。すぐに信号もない車道に突き当たりるので、ここを渡って農道のような一本道に中山道は続きます。旧道を示す道標も建っています。が、道標のある歩道の間の縁石には切れ目はありません。案内板にも回り道は書いていないし、親切なんだか不親切なんだかわからない案内でした。
中山道跡地の案内板があって、石畳風の道が続いています。すぐに信号もない車道に突き当たりるので、ここを渡って農道のような一本道に中山道は続きます。旧道を示す道標も建っています。が、道標のある歩道の間の縁石には切れ目はありません。案内板にも回り道は書いていないし、親切なんだか不親切なんだかわからない案内でした。
揖斐川(呂久川)
木曽三川の一番西にある揖斐川を越えます。鷺田橋で揖斐川を渡るためには、ぐるっとまわり道をしますが、ここの案内板はわかりやすくて助かります。案内板通りにトンネルを抜け、橋に続く土手道を上り、橋を渡り終わったら横断歩道で下ります。
木曽三川の一番西にある揖斐川を越えます。鷺田橋で揖斐川を渡るためには、ぐるっとまわり道をしますが、ここの案内板はわかりやすくて助かります。案内板通りにトンネルを抜け、橋に続く土手道を上り、橋を渡り終わったら横断歩道で下ります。
小簾公園
「落ちていく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」
和宮が御降嫁の際に詠んだ歌です。江戸時代の揖斐川(呂久川)は湾曲しながら流れており、ここに渡し場がありました。木曽三川は昔から洪水が多く、江戸時代から治水工事が行われ、大正から昭和にかけての工事で揖斐川は直線化されました。この3日間で木曽三川をすべて越えました。東海道に比べて川止めが少ないとはいえ、橋のない昔のこと。このあたりは小さな川も多いし、雨が続いたら大変だったろうと思います。
「落ちていく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」
和宮が御降嫁の際に詠んだ歌です。江戸時代の揖斐川(呂久川)は湾曲しながら流れており、ここに渡し場がありました。木曽三川は昔から洪水が多く、江戸時代から治水工事が行われ、大正から昭和にかけての工事で揖斐川は直線化されました。この3日間で木曽三川をすべて越えました。東海道に比べて川止めが少ないとはいえ、橋のない昔のこと。このあたりは小さな川も多いし、雨が続いたら大変だったろうと思います。
墨俣追分道標 柳原の一里塚
平野井川を渡るタイミングがよくわかりませんでした。ガイドブック通いて橋を渡ったのですが、そうすると道標は見れますが、神明神社の脇にある一里塚は川の反対側になってしまいます。このあたりも川の流れが変わっているのでしょうか。
平野井川を渡るタイミングがよくわかりませんでした。ガイドブック通いて橋を渡ったのですが、そうすると道標は見れますが、神明神社の脇にある一里塚は川の反対側になってしまいます。このあたりも川の流れが変わっているのでしょうか。
池尻一里塚跡 日本橋から百十里目
一里塚を過ぎたあたりでどんどん後ろから人が歩いてきます。さっきの電車で来た人たちです。東赤坂駅から歩き始めるさわやかウォーキングが開催されていました。そういえば赤い矢印が貼ってあったっけ。でもマップを配っているスタートは大垣駅だとか。そういえば大垣駅でさわやかウォーキングの案内放送があったっけ。そこから電車で移動してここを歩くとは思っていませんでした。
一里塚を過ぎたあたりでどんどん後ろから人が歩いてきます。さっきの電車で来た人たちです。東赤坂駅から歩き始めるさわやかウォーキングが開催されていました。そういえば赤い矢印が貼ってあったっけ。でもマップを配っているスタートは大垣駅だとか。そういえば大垣駅でさわやかウォーキングの案内放送があったっけ。そこから電車で移動してここを歩くとは思っていませんでした。
56.赤坂宿
杭瀬川のほとりに赤坂港が設けられ、水運の要衝として、また、谷汲街道や養老街道を控え栄えていました。 中山道宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は118軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋場2,旅籠20軒。宿内人口は505人(男259、女246)
杭瀬川のほとりに赤坂港が設けられ、水運の要衝として、また、谷汲街道や養老街道を控え栄えていました。 中山道宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は118軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋場2,旅籠20軒。宿内人口は505人(男259、女246)
このあたりが赤坂宿の江戸口となります。火の見櫓はチちゃんと撮ったはずだったけど切れてしまいました。右手奥に見える白い建物は、赤坂港会館。明治8年(1875)岐阜県警察第2区大垣出張所の第5分区屯所として建てられ、その後赤坂商工会議所として金生山山麓に移築されたのち、金生山化石館として利用されていました。会館内では、金生山で採掘された石灰岩や大理石、赤坂宿の歴史などが展示されています。
本陣跡
奥に見える銅像は、幕末志士の所郁太郎
奥に見える銅像は、幕末志士の所郁太郎
旧清水屋住宅
江戸時代に米屋を営み、町役人を務めていました。建造年代は享保15年(1730)~安永4年(1775)と伝えられています。開館中なので見学してきました。今日だけでもう500人以上は来たとか。さわやかウォーキング効果ですね。
江戸時代に米屋を営み、町役人を務めていました。建造年代は享保15年(1730)~安永4年(1775)と伝えられています。開館中なので見学してきました。今日だけでもう500人以上は来たとか。さわやかウォーキング効果ですね。
風情のある建物が残っています。その中の一つに大きく「五七」の文字と「赤坂宿は江戸から五十七番目の宿場」と書いてある。???と思っていると日本橋を含めて五十七番目ということだって。日本橋は含めて数えるの?
昼飯大塚古墳(ひるいおおつかこふん)
約1600年前に築かれ、墳丘の長さが150mになる、美濃最大の前方後円墳が復元されています。出土品は大垣市歴史民俗資料館に展示されています。中山道からちょっと外れて、さわやかウォーキングの矢印につられてやってきて大正解です。
約1600年前に築かれ、墳丘の長さが150mになる、美濃最大の前方後円墳が復元されています。出土品は大垣市歴史民俗資料館に展示されています。中山道からちょっと外れて、さわやかウォーキングの矢印につられてやってきて大正解です。
照手姫の水汲み井戸 旧圓願寺跡 青葉宿
小栗判官の照手姫が売られたのはこのあたりにあった青墓宿だったのね。歩いていると、物語の舞台が思ってもいないところで繋がって、とても面白いです。旧圓願寺跡には、小篠竹の塚(照手姫の墓(五輪塔))と源義経の芦竹が残っています。
小栗判官の照手姫が売られたのはこのあたりにあった青墓宿だったのね。歩いていると、物語の舞台が思ってもいないところで繋がって、とても面白いです。旧圓願寺跡には、小篠竹の塚(照手姫の墓(五輪塔))と源義経の芦竹が残っています。
中山道はガードレールで分断されています。乗り越えるわけにもいかないので、コンビニ前の横断歩道を渡り中山道に戻ります。ここでさわやかウォーキングの人たちは横断歩道を渡らずにまっすぐ進んでいきました。後で調べたらこの先には国分寺跡と歴史民俗資料館がありました。当日限定で薬師如来像の特別公開もあったそうなので寄り道してもよかったのかな。
青野ヶ原の一里塚
日本橋から百十一里目 常夜燈は大正五年(1916)の建立
日本橋から百十一里目 常夜燈は大正五年(1916)の建立
美濃路 追分
57.垂井宿
中山道と東海道宮宿を結ぶ脇往還美濃路の追分を控えた交通の要所として賑わっていました。 中山道宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は315軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋場3、旅籠27軒。宿内人口は1179人(男598、女581)
中山道と東海道宮宿を結ぶ脇往還美濃路の追分を控えた交通の要所として賑わっていました。 中山道宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は315軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋場3、旅籠27軒。宿内人口は1179人(男598、女581)
相川
追分を過ぎ相川にかかる相川橋まで来ると、たくさんの鯉のぼりが空を泳いでいました。
追分を過ぎ相川にかかる相川橋まで来ると、たくさんの鯉のぼりが空を泳いでいました。
江戸見附
橋を渡ったところが垂井宿の江戸口
橋を渡ったところが垂井宿の江戸口
旅籠亀丸屋
安永六年(1777)築 危険なためとロープが張られていました。まだ営業しているのかなぁ
安永六年(1777)築 危険なためとロープが張られていました。まだ営業しているのかなぁ
垂井宿はお祭りでにぎやかです。
小林家住宅
油屋を営んでいた宇吉家から譲り受け昭和初期まで旅籠を営んでいました。現在も住まわれている家屋ですが、今回は特別に公開がされてました。
油屋を営んでいた宇吉家から譲り受け昭和初期まで旅籠を営んでいました。現在も住まわれている家屋ですが、今回は特別に公開がされてました。
垂井曳やままつり
神社の前で神様に奉納するために正面を合わせています。神様に失礼のないように一生懸命。方向転換をするにも力仕事です。とても迫力がありました。
神社の前で神様に奉納するために正面を合わせています。神様に失礼のないように一生懸命。方向転換をするにも力仕事です。とても迫力がありました。
水煎包
お祭りで一番おいしかったのがこれ。
お祭りで一番おいしかったのがこれ。