マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【中山道 5日目-2】 8.熊谷宿 → 9.深谷宿 → 10.本庄宿 → 11.新町宿   2016.7.16 (土)

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島護産泰神社(しまもりさんたいじんじゃ)
創建年代は明らかでないが、旧榛沢郡内の開拓で信仰を集め総鎮守といわれるようになりました。島護とは、現在の深谷市北部の四瀬八島といわれる地域を利根川の氾濫から守るための守護神として信仰されたことによると伝えられています。


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道の駅おかべ
中山道をちょっと外れて道の駅に寄り道。美味しそうなお野菜がいっぱい売っています。でもまだ歩くので今日は我慢。レストランやふっかちゃんグッズもあります。


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中宿古代倉庫群跡(中宿歴史公園)
道の駅の向かいには中宿公園があります。奈良時代から平安時代に使われた大規模な倉庫群跡で、古代榛沢郡の正倉(税として徴収した稲を保管する倉庫)と推定されています。高床式古代倉庫2棟が復元されています。ハスの花を眺めながら道の駅で買ってきたおにぎりで軽くお昼です。


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豊見坂
短いんだけどすごく雰囲気のある坂です。ここ豊見坂は地元の人が中山道古道として整備しました。手前には道案内の看板もあります。そういえばしばらく案内板なんて見てなかったなぁ


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百庚申
万延元年(1860)庚申の年に建立された庚申塔


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滝岡橋(小山川)
昭和三年(1928)竣工の銅製八連橋で国登録有形文化財


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石仏石像群
土手下の畑を通り県道45号線を渡り旧道を歩いていくといくつか石仏があります。これはそのうちの一つ。子育地蔵や青面金剛像等が並んでいます。


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立派な長屋門が見えてきたら道なりに進みます。新泉橋で先ほど渡った小山川の支流、元小山川を渡ります。この辺もいろいろ河川改修があったようですね。滝岡橋からずっと土手沿いに遊歩道が続いています。


10.本庄宿
武蔵国最後の宿場町。利根川水運の集積地として賑わう中山道最大の宿場町でした。本庄宮内少輔実忠が弘治2(1556)本庄城を築き城下に本庄村が出来ました。慶長17(1612)に廃城となりましたが、本庄は中山道の整備とともに本庄宿として栄え、明治の近代化で養蚕の街として栄えていました。明治時代、本庄に遷都をという話も出たそう。中山道宿村大概帳(天保14年・1843)によると、宿内家数1212軒、うち本陣2脇本陣2、旅籠70軒、人口4554


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この日は本庄祇園まつりが行われていました。大きな神輿は夕方からだそうで、獅子舞や子供神輿が中山道を進んでいました。


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旧本庄商業銀行煉瓦倉庫
保存活用改修中のようです。なにになるんだろう。


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本庄でも古い蔵造りの酒問屋の跡地を保存活用する取り組みがはじまっていました。カフェや美容院などが入っています。


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金鑚神社
欽明天皇二年(541)創建の古刹で本庄の総鎮守。本庄児玉にある金鑚神社を分祀しました。


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常夜燈
東海道歩きのとこに楽しみにしていたの一つが常夜燈。見つけるとすごくうれしかったんだ。平成二年に建てられた新しいものですが、やっぱりうれしい。


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大名参勤通行の際、助郷の住民に苦役が課されてあまりの辛さに泪したというのが、ここの泪橋の由来。泪橋は処刑場近くにあって今生の別れとした橋だと思っていましたが、こんな泪橋もあるんですね。それにしても大名行列の際の助郷負担はとても大変だったようで農民の蜂起にまで発展したこともありました。私たちも街道周辺の住民たちのおかげでこうして中山道歩きが楽しめるわけで、ありがたいことです。


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こむぎっち
街道歩きをしているとマンホールの蓋を見るのも一つの楽しみ。久しぶりにカラーのマンホールみっけ。上里町マスコットキャラクターで町特産品の種子小麦をモチーフにデザインされました。途中ですれ違ったコミュニティバスにもこむぎっちが大きく描かれていました。一日に何本も走っていないようなので疲れたからといってバスに乗ろうとするのは大変そう


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陽雲寺
街道を歩いていたら陽雲寺の鐘楼と出ていたので寄ってみました。県指定になっている銅鐘や新田義貞の家臣 畑時能の供養塔などがあります。


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復元見透燈籠(武蔵国
神流川神流川橋で渡り武蔵国ともお別れです。この橋を渡れば上野国。当時は徒歩渡りでしたが、出水時には舟渡しになりました。この燈籠は復元されたもので大光寺に当時の物が移設されています。上野国側にも復元されています。今年の利根川水系は雨が少なくてダムの水量が増えずに取水制限がされています。橋の脇にも節水を促す案内板が掲示されていました。今日も曇り空の一日でしたが雨は降りませんでした。歩くにはありがたいけど雨が降らないのも困りものです。


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神流川古戦場跡
橋を渡ると目を引く滝川一益の旗。本能寺の変を知った北条軍が機に乗じて五万の大軍を神流川に進め、信長の家臣滝川一益2万の軍と激突。 初日こそ勝利で飾るも3日後には大敗を喫し、多くの戦死者を出して伊勢長島に敗走、清州会議にも出席できず、「先も滝川、殿も滝川」とうたわれた織田四天王のひとり滝川一益の転落人生はここには始まったのでした。真田丸でも描かれていましたが「本能寺の変さえなければ!」と思ったことでしょうね。


11.新町宿
上野七宿の東口にあたり、神流川の渡しを控え、宿場がないと不便ということで承応2(1653)に成立した中山道では新しい宿場です。中山道宿村大概帳(天保14年・1843)によると、宿内家数407軒、うち本陣2脇本陣1、旅籠43軒、人口1473


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見通し灯篭
文化十二年(1815) 神流川が度々洪水を起こして道筋がわからなくなり多くの人が道に迷ってしまうため灯篭を建て目印としましたが、寛保年中(1741-43)の大洪水で流失してしまたため、旅人からも寄付を募り石造りの常夜燈を再建しました。現在の物は昭和53年(1978)の再建。自衛隊の駐屯地やラスクで有名なガトーフェスハラダの工場を眺めながら歩いていくと灯篭が見えてきます。ここから新町宿へと入ります。


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明治天皇行在所跡
明治11(1878)明治天皇北陸東北巡幸の際に宿泊した木造家屋が残っています。すぐ隣は公園になっていて一休みできます。


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於菊稲荷神社
美貌の飯盛於菊は不治の病に倒れて一心に稲荷に祈願したところ全快し、稲荷神社の巫女となり人々に尽くしました。現在お社は建て替え中です。



 武蔵国から上野国に入ったところで今日は終了。雲は多かったものの心配していた雨にも降られずに歩けてよかったぁ。涼しいといっても最高気温は27度。このところの暑さに比べたら涼しいというだけで歩けばやっぱり暑いけど、水分やアイス補給は十分にしていたので熱中症は大丈夫です。埼玉県は通り過ぎてしまうことが多かったのだけど、歩くといろんな発見があって面白かった。今日歩いたところは煉瓦造りの建物や大きな養蚕農家の建物が沢山残っていました。残していくのは大変だと思うけど壊してしまうのはもったいないよね。蔵を活用する取り組みも始まっていたので残していけるといいいですね。神流川は今も昔も国境。埼玉県(武蔵国)から群馬県上野国)へとはいりました。橋を渡ってすぐの工場は道の反対側だったので、街道沿いにあるガトーフェスハラダ中山道店でお土産ゲット。ついでにすぐ近くのお肉屋さんの「高崎オランダコロッケ」の文字が気になったので、その場で揚げてくれるアツアツの美味しいコロッケを公園で食べて一休みしたら新町駅から戻ります。上野東京ラインで爆睡したらいつの間にか横浜です。