マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【甲州道中 6日目】17.関野宿 → 18.上野原宿 → 19.鶴川宿 → 20.野田尻宿 → 21.犬目宿 → 22.下烏沢宿    2019.05.04 (土)

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恋塚一里塚 江戸日本橋から二十一里目
甲州で唯一塚の形態が残っています。直径12m、高さ約5mの円丘です。昔は街道を挟んで北側にも塚がありました。もともと付近は峰続きでしたが、街道をつくる時に掘割にしたため、塚の両側に小高い場所ができ、その地形を利用して一里塚が築かれたと考えられています。

藤野駅)→17.関野宿 →(3.8km)→18.上野原宿 →(1.8km)→ 19.鶴川宿 →(4.6km)→ 20.野田尻宿→(3.5km)→21.犬目宿 →(4.2km)→ 22.下鳥沢宿鳥沢駅)  約18km

令和最初の街道歩きはアップダウンの連続。数日前から雷注意報も出ていましたが、何よりお天気がよかったので、予定通りに出発しました・・・・が!

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藤野駅を9時頃に出発。駅近くの階段道はやっぱり歩けません。20号線を歩いてすぐのY路を左に下り、弁天橋が見えたところで、階段道から続く細道に入ります。細道はいつの間にか土道になり古道らしい雰囲気に。そのまま進み跨線橋を渡ります。

17.関野宿
相模国の西端の宿で、甲斐国との国境を控え大変重要視されていました。明治の大火で本陣などの建物は焼失してしまいました。甲州道中宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は130軒、うち本陣1、問屋1、旅籠3軒。宿内人口は635人(男323、女312)

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関野本陣跡
渡った先が空き地だったので、そのまま突っ切って国道に出ると、道の反対側に本陣跡の案内板があります。しばらく国道沿いを歩いていきます。

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歩道橋を過ぎ、右の旧道に進みます。分岐には、打ち捨てられたような「甲州古道 坂の上」の道標。坂の上なのになぜかまだ上る。 上っていくと、電柱脇に打ち捨てられた道標「甲州古道 ??」 ここは、左の細道を下ります。途中から土道になりいきなり国道に合流します。でも、出口には歩道がありません。車に気をつけながら反対側の歩道に入ります。古道は国道を横切り崖下を川に沿って続いていたようです。

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境沢橋
名倉入口の信号で国道と分かれ、左の坂をくねくねと下っていきます。下りた先には、境沢橋。相模国(神奈川県)と甲斐国山梨県)の国境になります。東京に比べ神奈川は、あっという間に通り過ぎました。いよいよ山梨県に入ります。

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相模川に架かる白い大きな境川橋は渡らず、ぐるっとUターンするように坂を上っていきます。下に見える車のところから上ってきましたぁ。眺めはいいけど、結構きつい坂です。

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諏訪関跡
坂を上りきる手前のカーブ右側には、武田氏が設置した甲斐二十四関のひとつ諏訪関跡。江戸時代になり境川番所境川口留番所とも呼ばれるようになりました。番所廃止後、明治天皇巡幸の小休所ともなりましたが、その後、渋沢栄一氏の別荘となり飛鳥山に運ばれたそうです。後に所有が変わり以後不明だそう。どこかに残ってないのかなぁ

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諏訪神社
立派な杉です。ベンチもトイレもあります。ちょっとひと休み。日差しが強くて暑くなってきたので上着を脱ぎましょう。


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諏訪橋で中央自動車道を渡ります。今日はまだ混んでないみたい。

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疱瘡神社 塚場の一里塚 江戸日本橋から十八里目
神社の裏に片塚が残っています。古墳時代に築かれた塚場古墳群の一部ともいわれています。

18.上野原宿
四方が崖となっていて、崖の上の広野だったことから、上の原となりました。甲州道中宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は159軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋場2、旅籠20軒。宿内人口は784人(男386、女398)

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新町の交差点で国道と合流します。少し歩くとコンビニもあります。

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上野原宿本陣跡
松屋脇本陣跡のあったルートイン上野原のすぐ先の小路の奥には、明治天皇行在所となった本陣の門がひっそりと残っています。

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ケヤキ
けやきのケヤッキーが気になってちょっと見に行きました。小学校の中にあります。下から見上げただけですが、青々とした新緑がきれいで立派でした。樹齢は800年とか。街道に戻り歩道橋の三叉路で国道とわかれ、一番左の細い道を進んでいきます。

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分岐につくと、わかりやすい案内板。さっきの三叉路にはあったかなぁ。この後、この案内板が道案内をしてくれます。歩道橋で国道を渡り、野田尻方面に進みます。県道を下った先にある案内板に「駅からハイキング」と書いてあるのはイベント時のをそのまま残してあるのかしら。逆方向からはないんだよねぇ。細道を下って、県道を横切り階段の道を下りてくと、大向のバス停脇に出ます。鶴川宿はもうすぐです。

19.鶴川宿
小さな宿でしたが、鶴川が川留めになると賑わいました。甲州道中宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は57軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋場1、旅籠8軒。宿内人口は295人(男151、女144)

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鶴川宿碑
鶴川橋を越えると東屋と宿碑があります。

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水天宮
立派な木です。なんだか一里塚のようにも見えます。

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鶴川神社
道標を曲がると鶴川神社に続きます。結構階段を上りそうなので、鳥居の写真だけ。奥に歩いてるご夫婦も甲州街道を歩いているとか。同じガイドブックを持っていました。

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あいらーく鶴川宿
ガイドブックには、カーブの辺りに本陣跡と書いてある。このあたりなのかなぁ。きれいな建物は、ホテルかと思ったらデイサービスでした。

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カーブを左に曲がって分岐を右に曲がってどんどん上っていくと「これより鶴川宿」の案内板。宿並み二町三十間の小さな宿だから、宿場は直線の辺りだよね。

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中央自動車道にぶつかります。ここは右にすすみ、奥に見える跨道橋を渡ります。

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大椚の一里塚跡 江戸日本橋から十九里目
跨道橋を渡り、坂を登ると一里塚。実際の一里塚は、ここより手前の道にあったそうです。

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大椚道標
大椚は間の宿でした。

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吾妻神社 大椚観音
境内に大きな椚があったころから村名となりましたが、今は枯れてしまいました。でも、樹齢約600年の立派な大杉があります。

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長峰砦跡
甲斐国の東口を北条の侵略から防衛するために築かれた砦です。案内板によると、中央自動車道の拡張工事の前に発掘調査が行われ、郭や堀の跡が確認されています。甲州道中跡も発見され、道は幅1メートルと狭く蛇行や起伏の激しく険しい道だったそうです。高速道の建設により失われてしまいました。

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「これより 野田尻宿」の案内板のところで中央自動車道跨道橋を渡ります。中央道を行ったり来たり。

20.野田尻宿
鶴川が川留めになると賑わいました。明治19年の大火で宿のほとんどが消失してしまいました。甲州道中宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は118軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋場1、旅籠9軒。宿内人口は607人(男313、女294)

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野田尻宿道標
「この付近にクマ出没注意必要」の看板も。気をつけねば! 奥にあるトイレを拝借。きれいでした。

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野田宿碑
碑の後ろは旅籠大黒屋跡

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郵便局
昔懐かし丸ポスト。で~も使えません。隣の四角ポストをご利用ください。


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道標
これなら迷いません。

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西光寺
竜の化身の女中お玉が野田尻に水を湧かせたという「お玉ヶ井碑」を過ぎると西光寺。甲州街道はここを右に進みます。左の道標は「駅からハイキング ショートカットコース」ってどこにショートカットするんだろう? SAには行けそうだけど・・

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またまた中央自動車道を渡ります。今日は何回横断しているだろう。跨道橋を渡るとしばらく土道になります。

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荻野一里塚 江戸日本橋から二十里目
一里塚碑は、道路の擁壁上にあります。案内板は少し先の開けたところにあります。歩道がないから、一里塚のあるところで立ち止まると危ないものね。

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矢坪坂の古戦場跡
またまた、中央自動車を跨ぎ旧道に入ります。道が分岐してます。また坂を上らないといけないのねぇ。甲州街道は道なりには進まず、右手の坂を上ります。旧道に入ります。矢坪と新田を結ぶ坂を矢坪坂といい、山腹と崖との間を道が入り組む要害の地でした。享禄三年(1530) 北条氏綱の軍が甲斐に進出した際、武田家家臣小山田信有勢が迎え撃つも敗退してしまいました。

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どんどん坂を上ります。鯉のぼりが見えます。GWです。

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さらに上り武甕槌神社を過ぎると、人のお庭かと思うような道に入ります。ここを過ぎると山道になります。

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座頭転がし
山道に入ると深い谷を挟んだヘアピン状のカーブの道が続きます。ここを盲人の一行が差しかかり、先行していた者の声を頼りに直進した盲人が谷底に転落してしまったという場所です。フェンスがあるから少し安心だけど、このフェンスも寄りかかったらフェンスごと落ちそう。お約束の倒木も。雨の日は歩きたくない道です。

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尾張家殿様定宿跡
土道が舗装道路になると、蛇木新田にはいります。甲州道中開設にともないできた集落です。尾張の殿さまの定宿となっていた立派な門が見えてきます。なぜ犬目宿の本陣ではなく新田宿の脇宿に泊まっていたのかというと、富士山がよく見え甲州街道で最も眺望が良いからだとか。・・・あれっ?富士山見えたっけ? そういえば案内は撮っただけでその場で読んでなかった・・・。でも雲が多かったから、きっと見えてない

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カーブのところに犬目宿案内板


21.犬目宿
「この地極めて高き所にて、房総の海、富士の眺望奇絶たる所」といわれていました。甲州道中宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は56軒、うち本陣2、問屋場1、旅籠15軒。宿内人口は255人(男125、女130)

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犬目の兵助の墓
この奥にあります。天保四年(1833)以来凶作が続き、天保七年(1836) 犬目の竹七と平助が指導し甲州一揆を起こしました。この騒動は国中に広がり、鎮圧後竹七は捕らえられ牢死しましたが、兵助は逃げ切り維新後奈良氏を名乗りました。

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犬目宿碑
野菜の直売所になっています。トイレもあります。直売所のお姉さんが寄ってけと言ってくれたけど、どんどん増えていく雲が心配で先を急ぐことにしました。

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岡部本陣跡

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犬目宿案内板
犬目宿ともお別れです。


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君恋坂旧道
坂をどんどん下っていきます。白馬不動尊赤鳥居を過ぎてしばらく進み旧道に入ります。木の案内板がある。またまた坂を上ります。しばらく土道を上っていくと君恋温泉の脇にでます。ここから坂を下り県道に合流します。

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白滝山不動明王
道標もあります。木の道標には「←至鳥沢・至君恋温泉入口 扇山→」、青い道標は「←扇山・犬目宿→」 扇山へのルートはいろいろあるようだけど、これ見たら迷っちゃいそう。山頂からは富士山がきれいに見えるそうです。

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石畳
恋塚一里塚(江戸日本橋から二十一里目・トップ写真)を過ぎて、山住神社の脇から旧道に入ります。初めは舗装路ですが、途中から土道になります。石畳が残っています。

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大月市にはいりました。トトロに巨神兵、釣り人は子供たちが目を和ませてくれます。が、遠くでゴロゴロと雷の音が・・・・

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突然降ってきました。大粒の雨にヒョウ! 雷もゴロゴロ。怖いんだけど、周りに何もないのでとりあえず合羽を着て先に進みますが、雷がどんどん近づいてきて、とにかく怖い・・・。ガレージの軒先を借りてしばらく雨宿り。40分近くいたかな。雷が少し離れた感じなので先を急ぎます。鳥沢の駅までもうちょっとなんだけどなぁ・・

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途中で細道にはいり、中央自動車道の下まできました。まだ雷も雨も・・でも少し空が晴れて来たかなぁ。とりあえず進もう。

22.下鳥沢宿 23.上鳥沢宿
鳥沢宿は、下鳥沢宿と上鳥沢宿の両宿で一宿でした。中宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、下鳥沢宿:宿内家数は144軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠11軒。宿内人口は699人(男364、女335)  上鳥沢宿:宿内家数は151軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠13軒。宿内人口は650人(男333、女317)

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国道に合流すると、鳥沢の宿に入ります。古い町並みが続きますが、それどころじゃありません。って、先を急いでいるうちに一里塚跡を見逃してしまいました。

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鳥沢駅入口
雨も雷も止みそうにないので、本日はここで終了です。

 今日のコースは中央自動車道を行ったり来たり、坂を上ったり下りたり。地味に堪えます。だんだん坂になると「またかぁ~」と思ってしまう。藤野駅鳥沢駅は街道沿いにあって、上野原駅は街道まで15分くらいで歩けそうだしバスもあります。でも、その先はバスの本数は少ないし、駅も遠くなります。蛇木新田の道標に四方津駅って書いてあったけど、絶対遠い。談合坂SAから高速バスはあり?この区間は一気に歩ける距離です。各宿場にトイレもあって安心です。
 それにしてもこのお天気には参ったぁ。天気予報を甘く見ていました。鳥沢駅に14時半過ぎには到着したけど、まだまだ雨も雷も止みません。もう少し歩きたかったなぁ。それにしても、座頭ころがしで雨にあわなくて本当によかった。大雨が降ったらそれこそオバサンころがしになりかねないもの。まぁ降っていたら県道コースだけど。今日は談合坂SAにも寄らず、ちょこちょこ食いしながら急いで歩いてきたかいがあった・・のか? 鳥沢駅には後から後から後からびしょ濡れの登山者がたくさんやってきました。みんな途中で雨宿りしながら来たそう。みんな歩いちゃうんだね。天気予報には気を付けましょう。駅にはトイレも待合室もあって、ホッとひといきできました。