マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【鎌倉街道 上道】10日目 男衾から児玉  2022.10.01(土)

交通の要衝東石清水八幡神社

東石清水八幡神社(児玉)

八幡太郎源義家が父頼義に従って奥州征伐に赴く途中戦勝を祈願。帰路に再び立ち寄り社殿を建立し石清水八幡宮を勧請したのが始まりといわれています。

 

(男衾駅) 荒川 小前田 → 原宿 用土 → 美里 → 児玉 →(児玉駅

 

 久しぶりに晴れの週末。荒川を渡り、ほとんど起伏のない街道をのんびり歩いてきました。

 

男衾駅からスタート。男衾といえば『男衾三郎絵詞』「馬庭の末に生首絶やすな。切り掛けよ。」モデルは畠山重忠とも。残虐なお話ですが、実際はともあれ坂東武士は、貴族から汚れ仕事を押し付けられて、武力で領地を守るのがお仕事。大河の番宣で聞いた「関東広域暴力団源組」というのも納得。むしろ坂東武士はこうでなくちゃというお手本とも思われていたのかもしれません。とはいえ駅のポスターを見ると、今は同じ北条でも、小田原北条押しの模様。鉢形城はすぐ近くだものね。

 

小被神社

川沿いの土道を歩いて舗装道路に出るとすぐ先神社が見えてきます。主祭神瓊瓊杵尊。縁起式内社と伝えられ、社伝によると安閑天皇の御代(531-535)から1500年近くの歴史があるそうです。男衾郡の総鎮守

 

出雲乃伊波比神社

道なりに歩いていくと突き当りに神社が見えてきます。こちらの主祭神須佐之男命。こちらも延喜式内社と伝わります。源頼義が奥州征伐の途中で戦勝を祈願したことから「赤浜の八幡様」とも呼ばれています。

 

花園橋(南)の交差点近くに「武・蔵・国・男・衾・郡」の文字。ここから花園橋に続く県道に入ります。

 

花園橋

荒川が見えてきました。秩父側にしか歩道がないので、ちょっと見えにくいのですが、川の真ん中あたりに大きな岩。あれが「川越岩」なのかな。前回は藪でよくわからなかったけど、いくつか岩が並んでいるのかな。遠くからでも一目でわかるからいい目印になりますね。西側には秩父の山並みがきれいです。

 

宝篋印塔

橋を渡ると左手に粗堂が見えてきます。粗堂の中には二基の宝篋印塔。江戸時代に井戸を掘ったところ塔が出土したと伝えられ、延文三年(1359)の銘があるそうです。ここで左に曲がります。

 

川沿いの道に合流したところには、大きな木の下に沢山の石塔、石仏

 

石塔群の脇から荒川を覗くと、さっき渡ってきた花園橋が見えました。

 

旧道は荒川沿いの道をもうしばらく歩いていきますが、少し手前で国道140号線(彩甲斐街道)を渡ります。ルート通りに進むと、お茶々という看板娘がいた茶店の井戸「お茶々井戸」があるそうですが、今日は現在の茶店「道の駅はなぞの」でひと休み。早起きできず朝ごはんをちゃんと食べずに来てしまったのです。道の駅のパン屋さんでブランチ。サンドイッチだけで済まそうと思っていたら焼きたてに釣られてカレーパンも買ってしまいました。ちょっと食べすぎ。それにしてもこの国道沿いにはたくさんのロードサイド店舗が並んでいます。隣に大きなJA直売所もあるし、今月20日には花園IC近くにプレミアムアウトレットもオープンするとか。ますます賑わいそうです。

 

道の駅からそのまま秋の気配のする裏道を進んで国道に出たら、ガソリンスタンドを目印に手前の旧道に入ります。

 

秩父鉄道の踏切が見えてきました。踏切の先には産業団地ができるようです。そのまま真っすぐ進むと細い道に入り、しばらく歩くと県道175号線に合流します。

 

歩いてくと右手に八幡神社。入り口わきには鎌倉街道の案内板。こうやって見るとだいぶ歩いてきました。

 

原宿八幡神社

 

広々とした関東平野です。

 

石塔群の中にひときわ背の高い石柱には「脇往還川越道 用土邑」と刻まれています。

 

八高線の踏切が見えてきました。その名も「鎌倉街道踏切」

 

踏切を渡った先には用土村道路元票の碑がひっそりとたっています。前回に比べると湿度が低いけど気温はまだ30℃もある。交差点脇のコンビニでアイス休憩にしましょう。コンビニのすぐ先の道を入ると八高線用土駅があります。

 

諏訪神社

応和年間(961-964)の創建といわれています。

 

普門寺

立派な桧の参道です。寄らずに通り過ぎてしまいましたが、調べてみると元文四年(1789)造立の四十九院本尊石仏があるそうです。なんでも四十九体全部そろっているのはここだけとか。見逃してしまいました。

 

横関酒造

天神橋交差点の手前にある酒屋さんに寄り道。このところ大河ドラマの影響で街道歩きの人が増えているとか。ご主人も大人になるまでここが鎌倉街道だとは知らなかったそうで、その昔は遊郭もあったりして凄くにぎわっていたらしいよという話を伺いました。すごく立派なお屋敷の武田家ゆかりの酒蔵もあったそうです。エゴマやブルーベリーも美里の特産品だとか。お土産に買った奈良漬けはご飯のおともに最高でした。

 

酒蔵の先の天神橋交差点を渡ると道幅が狭くなり、角には庚申塔などの石仏が置かれて旧道らしい風情が感じられます。

 

雷電神社

坂を上っていくと神社がありますが、鳥居は県道沿いにあるので裏手からお参り。「坂上田村麻呂が東征のため当地に至ったところ激しい雷雨に遭遇し、これを鎮めるために雷神を祀ったのが始まりと伝えられる。」そうです。

 

分岐にはわかりやすい案内

 

ガイドブックによるとここは左に進むことになっているけど、青い矢印の手作り看板は右に進めと書いてある。右に進んでみよう。

 

私有地に入っていく感じだけど、案内があるので進んでみる。でも、途中で個人宅に入ってしまいそうで不安になり脇に抜けたのですが、まっすぐ進んでよかったみたいでした。街道に戻りしばらく歩くとまた青い矢印案内。ここに抜けたのかぁ。中途半端な歩き方になってしまいました。ガイドブック通りに歩いたほうが無難な気がしました。

 

ここの分岐は石塔群に沿って右手に進みます。

 

この先で、県道を横切って進むるルートと二手に分かれますが、ガイドブックにもある西側のルートの方がメインだったようなので、ここは左に曲がります。

 

コスモスがきれいです。

 

さらし井

橋を渡ると大きな石柱に「史踖 曝井」の文字。数分のところにあるようなのでちょっと寄ってみます。朝廷に献納されたという織布を洗い晒すために使用した湧水で、旱魃に枯れることなく流れているそうです。

「三栗の 中にめぐれる曝井の 絶えず通わんそこに妻もが」万葉集

 

広木山龍華院池之坊 常福寺真言宗智山派

さらし井のすぐ先にあるお寺は、天平年間(729-749)の創立と伝わります。この先にも名所の案内は続きますが、このあたりで旧道に戻りましょう。

 

みか神社の参道入口には立派な常夜灯。本殿は国道の先なので寄らずに過ぎました。

 

国道に合流します。しばらく歩くとここにも鎌倉街道案内板

 

広木・大町古墳群

田んぼの中に点々とある小山は六世紀中期から七世紀にかけて作られた古墳だそう。

 

広木の一里塚跡

すっかり藪に覆われて哀れな姿に・・・・

街道歩きといえば「一里塚」ですが、それは江戸時代からの話。とはいえ鎌倉街道でも一里塚に出会うとうれしいものなのです。なのに・・

 

道路を挟んだ工場脇にある一里塚碑。こちらはきちんと手入れされています。ここで左に曲がり工場脇を進んでいきます。

 

で、この工場は何の工場かというと、ガリガリ君赤城乳業。夏の間お世話になりました。

 

工場を過ぎた先で川沿いに曲がります。小山川沿いは桜並木が続き「こだま千本桜」と呼ばれています。春になったら見事だろうなぁ

 

水量が少なければ堰の上を反対側まで渡れそうです。まぁ今の時期は藪をかき分けなければならないので無理ですが・・。川沿いを歩いて十二天橋を渡り、川沿いを先ほどの対岸あたりまで戻り、細道から児玉往還に戻ります。

 

児玉に入りました。旧街道の風情が残る街並みです。児玉は鎌倉街道沿いの中でもとても賑わった宿場町です。武蔵七党の最大勢力 児玉党の本拠地でもありました。

 

八幡神社にある街道案内図。道がたくさんに分かれてます。交通の要衝です。

 

八幡神社 随身

宝暦六年(1756)建立

 

東石清水八幡神社

八幡太郎源義家が父頼義に従って奥州征伐に赴く途中戦勝を祈願。帰路に再び立ち寄り社殿を建立し石清水八幡宮を勧請したのが始まりといわれています。享保七年(1722)に再建されたという社殿の彫刻がとても素敵です。

 

境内の隅にある高札場は、本町と連雀町との境にあったものを移したもの。一里塚に続き高札場まで。小野路あたりで見かけたのが最後でしょうか。鎌倉時代にはなかったものだけど、街道歩きにはないとちょっと物足りないのです。

 

塙保己一記念館

街道から離れ、記念館の前を通り雉岡城に向かいます。塙保己一は江戸時代の国学者です。

 

雉岡城跡

関東管領上杉氏により、平井城の支城として五十子陣の兵站を確保する目的で築城されたといわれています。16世紀半ば以降は鉢形城の支城として後北条氏により改修され城下の整備が行われました。本丸や二の丸、三の丸は学校敷地となっていますが、土塁や堀などよく残っています。

 

児玉駅

思ったよりも時間がかかってしまったので(というか朝が遅かったので)丹荘駅まで歩こうかどうか考えながら乗換案内を確認していたら、駅に向かうと八高線にちょうど間に合う。本数も少ないし、ちょっと疲れも出てきたので帰ることにしました。街道歩きを始めたころなら絶対歩いていたよなぁ・・

 

 今回もほとんど起伏の少ない街道歩き。なんだかんだで20kmほど歩いてきました。空が広くて気持ちのいいのんびりとした街道歩きでした。歩道もちゃんとあって車の心配もないし、本数は少ないけど列車のアクセスも心配なし。こだま千本桜や雉岡城跡は桜の名所なので、桜の時期に歩くのもよさそうです。とはいえ鎌倉時代の武蔵はというと、歩き始めた男衾は秩父党、用土は猪俣党、児玉は児玉党など秩父七党といわれる坂東武士が跋扈していたんですよね。女の一人旅なんて怖くてできそうもありません。そんなたくさんの歴史が繋がった道を歩いているなんてなんだか不思議です。やっと外ではマスクも外せるようになりました。少しずつ日常に戻って・・だと、いいな。