マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【鎌倉街道 上道】12日目 山名から高崎  2022.10.29(土)

佐野橋

佐野橋

烏川に架かる木製の人道橋で、かつては舟を並べて板を渡した「舟橋」がかかっていました。親に交際を反対されていた男女が、逢瀬を邪魔するために親が板を外したために転落して命を落としたという民話が残っています。

 

山名西山名駅)→ 山上碑 → 高崎自然歩道 → 金井沢碑 → 根小屋 佐野の渡し → 片岡 → 聖石あら町 →(高崎駅

 

 鎌倉街道上道の最終日。上野三碑のひとつ「山上碑」を見て街道に戻るはずが・・・そのまま尾根道を進んで金井沢碑まで行ってしまいました。この尾根道も鎌倉街道のひとつ。良しとしましょう。変化にとんだ街道歩きも終了です。

 

前回は山名駅で終えましたが、今回は西山名駅で降りて街道歩きをスタート。児玉往還とは別のこの道も鎌倉街道上道のルートのひとつです。

 

線路を渡って坂道を上っていきます。山並みがきれいだぁ。赤城山かな

 

山ノ上地蔵尊

三本辻に鎮座するのは、高さ1.5mほどの坐像の地蔵像です。「お陰地蔵」の異名もあり8月には夜祭りが行われます。この辺りは山名宿と呼ばれて賑やかだったと伝わります。鎌倉街道はここから東に進んで山名八幡宮に続きますが、西に進んで山上碑に寄り道をです。

 

来迎阿弥陀画像板碑

山上碑への途中にあります。鍵がかけられていて見ることはできませんが、説明版によると「鎌倉時代中期の建治四年(1278)の建立で、阿弥陀如来一尊が線刻されているそうです。隣の如来像の説明はありませんでした。

 

万葉歌碑のある木製の階段を上っていくと今度は長い石段が見えてきました。江戸時代には石段の上の古墳の中に、馬頭観音が祀られ、窟堂と呼ばれる観音堂が建てられていました。坂東の札所のひとつにも選ばれていたそうですが、今は石段が残るのみです。

 

山上古墳

7世紀中葉(飛鳥時代)に築かれた円墳で、山上碑の碑文から推定すると、高崎市南部に置かれた佐野三家の経営に連なる山名地域の首長の墓として完成し、その後の辛巳年(681)に縁者の黒売刀自が追葬されるに際し、供養のため碑が建てられたとみられる。被葬者や葬送制度が推定できる古墳は極めて希少なため、隣接の山上碑とともに国特別史跡に指定されている。云々と説明版に書いてありました。前回はたくさん古墳をまわりましたが、確かに埋葬された人物は特定されていませんでしたね。

 

山上碑

上野三碑のひとつ山上碑が保護のため建物の中に納められています。高さ111㎝の自然石に53文字が刻まれています。東国で最古級の寺院であった放光寺の僧である長利が亡き母黒売刀自を供養するために顕彰したものです。それにしてもわずか53文字から多くのことが読み取れるなんてすごいですね。

 

ここから高崎自然歩道を歩いていくと山上三碑のひとつ金井沢碑まで行くこともできます。どんな道だろうとちょっと進んでみると、歩きやすくていい道です。イノシシがでますという看板はちょっと気になりますが、3㎞ほどで金井沢碑まで行けます。本来なら三本辻まで戻り、山裾の道を歩いて山名八幡宮に向かうはずでしたが、このまま尾根道を歩いていくことにしました。川が氾濫した時は尾根道を歩いたそうなので、ここも鎌倉街道のひとつ。コース沿いには万葉集の歌碑が建っています。万葉の昔からこのような山道を歩いて人々は移動していたんです。しばらく歩くと山名城への分岐。堀切や郭など見どころは多そうですが、ここは時間がないので先に進みます。

 

石碑のほかゆかりのお話も書いてあったりします。これは、水戸の黄門様御一行がこの辺りで山賊に襲われ、助さん角さんが大立ち回りをしたというお話。・・・まぁ真偽はともあれ、オバサン一人でもハイキングできることに感謝ですね。案内票も充実しており安心して歩けます。根小屋城も気になる所ですが、先に進みましょう。

 

多少の起伏を越えた先の分岐を右に進みます。この先はどんどん下っていきます。逆から来たら萎えてしまうかも。丸太の階段を下る途中の案内板には、尾根道は特定はされていませんが、この辺りが鎌倉七曲りと呼ばれた所ではないか云々と書いてありました。まだまだ下ります。金井沢碑まで500mまで来ました。イノシシ出没の注意書き。出合わなくてよかった。この先も石碑の路を歩いて、舗装道路に出たら金井沢碑はもうすぐです。

 

金井沢碑

古代豪族三家(みやけ)氏が奈良時代初期(神亀三年/726年)に先祖供養のために造立しました。高さ110㎝、112文字が刻まれた古碑からは家族/氏族関係や仏教の浸透、地位、産業まで知ることができ、また「群馬」という文字が地元で使われた最も古い資料です。金井沢碑も山上碑と同じように立派な建屋に収納されています。こんなに古い資料はしっかり残そうと努力しているのに、最近の資料はどんどん破棄されちゃうのはどうなんでしょう。

 

金井沢碑入口の交差点まで来ました。本来なら山名からこの県道を歩いてきます。交通量がおおいので田んぼ脇のの道を歩くことにしました。山並みがきれいです。榛名山かなぁ。街道は真っすぐ進んでいきますが、ここでまた寄り道。上信電鉄の線路沿いを進むと橋が見えてきました。

 

佐野橋

烏川に架かるこの橋は、古くからの渡河地点のひとつになります。三ヵ所あったといわれ、一つは一本松橋、もう一つは聖石橋といわれています。

 

定家神社

橋を渡ると児玉往還に合流します。一本松橋を渡ってくる道です。少し戻る感じで歩くと赤い鳥居が見えてきます。鎌倉時代に活躍した歌人藤原定家を祭神とする神社です。現社殿は元文四年(1739)に造営されました。

 

佐野村30号墳

定家神社の隣にある円墳です。来た道を戻り新幹線の高架をくぐると小さな神社がありました。

 

常世神社

「鉢の木」で有名な佐野源左衛門常世が、佐野の領地を横領されて後に住み着いた屋敷跡にある神社です。ここから痩せ馬に乗り、鎌倉を目指したんですねぇ。遠いなぁ・・

 

来た道を戻り、橋に戻らず中山道に合流するルートもあるようですが、ガイドブックは聖石橋を渡るルートになっているので、佐野橋をもう一度渡ります。日がだいぶ傾いてきました。上信電鉄の踏切を渡って先に進みましょう。寺尾中学校の先で城南大橋に続く道を渡り、吉井街道に合流したら、石原第一保育園の案内がある細道に入ります。

 

小祝神社(おぼり神社)

片岡の鎮守として、安産・子育守護神として崇敬を集めている神社です。創建は不詳ですが、元慶四年(880)には正五位上が贈られています。祭神は、少名彦名命。現社殿は江戸時代の正徳年間に高崎城主間部越前守により造営されたものです。

 

石原三叉路まで来たら細道をまっすぐ進みます。聖石橋が見えてきました。

 

聖石橋

橋から聖石が見えるはずだけど・・・あのモコっと緑の塊がそうなのかな。そういえば振り返ると観音様が見えたんだっけ。すっかり忘れていました。

 

新田町交差点

橋を渡って道なりに進むと新田町の交差点。ここで中山道と合流です。ガイドブックは安中まで続きますが、中山道とあまりルートは変わらないので、ここで鎌倉街道上道を終了とします。高崎駅まではもうすぐです。

 

高崎駅

もうクリスマスツリーなんですね。何とか支援のせいか駅のお土産屋さんはとても混んでいました。

 

帰りは奮発してグリーン車です。パルプモールド容器の釜めしを買ってみました。容器がいっぱい溜まってしまうし、軽いからこの方がいいとは思うけど、益子焼の器の方が美味しく感じるのは何故だろう。というわけで鎌倉街道完歩です。

 

 今回は『40代からの街道歩き《鎌倉街道編》』という本をガイドブックとして歩いてきました。安中から鎌倉を目指す本ですが、逆方向で鎌倉から歩き始めました。高崎から安中は中山道とだいぶかぶっていたので、高崎で終了としました。この本は、旧道を忠実に歩くというよりも、寄り道して名所も訪れるというスタンスで書かれているので、私もいっぱい寄り道して歩いてきました。最後はだいぶルートを外れてしまいましたが、鎌倉に通じる道はすべて鎌倉街道です。

  鎌倉を出発したのが去年の9月5日。歩いた日数は12日ですが、1年以上かかってしまいました。鎌倉から、鎌倉幕府滅亡の古戦場を辿るように起伏のある道を歩き、多摩川を越えた府中で奈良平安時代の広大な古代国府跡でしばし時代を遡ったのもつかの間、この先は広大な大地を歩きます。夙妻太夫や義高の悲恋、鎌倉幕府討幕や中先代の乱などの幾つもの古戦場を越え、新田義貞畠山重忠、そして源義賢たちの坂東武士の息吹を感じながら荒川を渡ると、今度は戦国初期、上杉氏の名前がちらほらと聞こえてきて、江戸時代の街道風景を抜け、神流川を越えるといよいよ上野国。少しづつ起伏のある道に変わり、今度は古墳時代にタイムスリップ。上野三碑を見て、烏川にかかる佐野橋を渡ると佐野常世鎌倉時代に戻してくれます。高崎で中山道と合流して鎌倉街道上道の旅が終わりました。 変化に富んでいて楽しい街道歩きでした。何より日帰りできる。交通やトイレ、食事の心配をすることなく歩けるのは気が楽です。

 大河ドラマもいよいよ終盤。鎌倉時代は、陰険な権力闘争ばかりのイメージで素通りしてたのですが、ドラマのおかげで街道も興味深く歩くことが出来ました。街道にはたくさんの人のたくさんの思いが詰まっていました。そしてこれからも・・・