マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【鎌倉街道 上道】8日目 西大家から武蔵嵐山  2022.05.06(金)

笛吹峠

鳩山町嵐山町の境目にもなっている峠で、鎌倉か上道と坂東札所巡りの九番と十番札所を結ぶ巡礼道が交差する場所です。正平七年(1352)新田義貞の子義宗と義興が、宗良親王を奉じて足利尊氏と戦った武蔵野の戦いの最後に陣を張った場所です。この時、陣営で月明かりに誘われ宗良親王が笛を吹いたことから笛吹峠と呼ばれるようになったと伝えられています。

 

西大家駅)→ 毛呂山 笛吹峠 鳩山 嵐山 菅谷館 武蔵嵐山駅)(約18km)

 

 鎌倉街道の唯一の峠を越えてきました。といっても標高約80m。舗装もされているし、勾配もさほどないので、一番の難所とiいっていいものかしら。あえて言うなら歩道がないので、車に十分注意しないとならないことでしょうか。

 

西大家駅からスタート。まずはおトイレをお借りしてと思ったら工事中。あら残念。キャンパス沿いの道を抜け高麗川を渡ります。森戸橋が新しくなっていました。

 

市場神社

県道を途中で曲がり、畑の中を歩いていくと小さな神社が鎮座しています。

 

鎌倉街道遺構跡

県道に抜け鎌倉街道の案内で曲がり進むと、鎌倉街道の遺構が少しだけ残っていました。通り抜けはできませんが、ちゃんと草刈りの整備してくれているんですね。試掘調査によると、堆積土の下に幅約5mの旧道面があり両側には排水溝もあったそうです。

 

歴史民俗資料館に寄ろうと思ったらお休み。公的機関は暦通りだから開館してると思っていたら、休日の翌日はお休みなのでした。またまた残念。旧道に戻りましょう。

 

ガイドブックによると大類グランドの手前をまっすぐ進んで、寄り道する感じで延慶の板碑に行くようになっているけど、案内板に書いてあるグランドの手前の林の中を行くほうがきもち良さそうなので、グランドのトイレをお借りして、標識に従って板碑に向かいましょう。この辺りは川角古墳群の一部のようです。ブルーシートがかかっているのは発掘調査か何かでしょうか。

 

崇徳寺跡

林の中をあるいていると、崇徳天皇を祀るお寺の跡がありました。苦林合戦の戦火で焼失してしまったそうです。その後、寺は移転し再建されましたが、戦国時代の騒乱で荒廃してなくなってしまったそうです。「延慶の板碑」は元々崇徳寺跡の中世墓群の中に建っていたそうですが、現在は保存上の理由で移されています。板碑の下から発掘された藏骨器は歴史民俗資料館に展示されています。林を出て舗装道路を横切り林の中を進むと延慶の板碑があります。

 

延慶の板碑

延慶三年(1310)の建立で、高さ約3m、幅約80cm、厚さ約10cmの大きな板碑で、胎蔵界大日如来の種子が刻まれています。板碑は、武蔵を中心に鎌倉時代から室町時代にかけて、秩父産の緑色片岩でつくられています。追善供養や逆修供養のために作られた石の卒塔婆です。

 

舗装道路に戻り、リサイクルプラザにいく案内板に沿って曲がり橋を渡ります。さらにリサイクルプラザの角を曲がり田んぼの中の農道を進んでいきます。田植えの時期です。突き当りを右に曲がり、石灯籠の脇を過ぎて県道に戻ります。

 

本宿まで来ると交差点の奥におしゃもじ山の展望台が見えてきました。麓には祠があったのですが、寄りそびれました。こことこの先にも2軒コンビニがあります。その先にはしばらくないので、どこかで寄っておくのがおすすめ。お昼もここで買っていこう。しばらく単調な道を歩いて大橋交差点に向かいます。まっすぐ進んだバス停脇に石仏がありますが、鎌倉街道はここで右(東松山方向)に曲がります。少し進むと大きな案内板。だいぶ年期が入っています。

 

左手が開けてきました。もう少し歩くと「笛吹通り」の案内板が見えてきます。左に曲がり「笛吹通り」に入ります。ここから先は歩道が無くなります。車に注意です。

 

坂東三十三観音巡礼の道標がありました。大正十五年十二月と刻まれていましす。大正天皇崩御した同じ月ですね。右手の丘のふもとには、はぐれ堂があります。

 

この辺りから少しづつ上りになってきます。

 

新緑の道を歩いていくと峠ももうすぐ

 

笛吹峠

峠の東屋で一休み。途中のコンビニで買ってきたおにぎりで遅めのお昼です。トイレもあります。

 

 

緑の道を下ります。歩道が欲しいところです。ところで赤い鳥居は何だろう。

 

板碑が並ぶ墓地や日吉神社を横目に下っていきます。

 

縁切り橋

坂上田村麻呂が岩殿の悪龍退治の準備に忙殺されていたところ、心配した奥方が京都から尋ねてきたものの、「征夷大将軍として派遣されているのに、尋ねてくるとは何事だ。今より縁を切る」と宣言したことから縁切り橋といわれるようになりました。

 

鎌倉街道源義賢公菩提所の碑が見えますが、独特の雰囲気で近寄りがたい感じの場所です。

 

源義賢

歩いていると源義賢ゆかりの地へ誘う案内板が目に付きます。もちろん寄り道。義賢は、源為義の次男で源義朝の異母弟にあたります。父為義と不仲になった義朝が関東で勢力を拡大するのに対抗するため、為義の命により秩父氏と結び大蔵に居を構えて勢力を伸ばしていましたが、義朝の子 義平に急襲され命を落とします。義賢の子が義仲。畠山重忠の父、重能らに助けられ木曽に預けられます。ですがその義仲、そして義高も・・・

 

大蔵館跡(山王大権現)

源義賢が居を構えていたとされる場所です。何度か発掘調査が行われ、義賢の時代を経て、13~14世紀の大蔵宿の最盛期には、4万㎡にも及ぶ規模の館跡が確認されているそうです。

 

学校橋

都幾川に架かる橋の下ではバーベキューをしている人がたくさんいました。土手ではキャンプもできるようです。橋の名は、崖上にあった日本農士学校が由来になっているそうです。

 

菅谷館

続日本百名城めぐりでも訪れている菅谷館。畠山重忠の館跡ということで、大河ドラマ絡みで幟がたくさんです。でも現在の遺構は戦国時代に上杉氏が築いたものです。

 

大鎧

畠山重忠が武蔵御嶽神社に奉納したと伝わる国宝の大鎧のレプリカが、菅谷館跡の博物館に展示されていました。重忠は、鎌倉武士の鑑ともいわれ、清廉潔白で文武両道に優れた見目麗しい武将と伝わります。大河ドラマのこの先の展開を考えると、最初の頃の和気あいあいとした坂東武者達が懐かしい・・・

 

菅谷神社

建久元年(1190) 畠山重忠が菅谷館の守護神として日吉大社を勧請し創建したといわれています。

 

武蔵嵐山駅で終了。むさし蘭丸君と一緒に帰ってきました。

 

 久しぶりの街道歩きは峠越え。といっても標高80mの舗装道路。峠以外はほとんど平坦な街道歩きです。続百名城の時は寄らなかった源義賢ゆかりの地も歩いてきました。それにしても源氏の骨肉の争いは惨いですね。結局は実朝まで続いていくわけで。血で血を争う抗争を繰り返してきた源氏が滅びるのは仕方がないと思わざるを得ません。とはいえ平家のように一族の仲が良すぎても滅んでしまうのですから・・・。何事もほどほどが一番です。