マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【鎌倉街道 上道】9日目 武蔵嵐山から永田駅  2022.09.10(土)

鎌倉街道上道

鎌倉街道上道(普光寺 東側)

 

武蔵嵐山駅 奈良梨 今市 塚田 → 川越岩 → 畠山(畠山重忠公史跡公園) →(永田駅

 

 久しぶりに街道歩き再開。前回歩いたGW頃の大河ドラマ源平合戦の真っただ中。坂東武士はみんな仲良しだったんだよね・・・。今回はそんな鎌倉武士の中でも「武士の鑑」と謳われた畠山重忠ゆかりの地を歩いてきました。

 

武蔵嵐山駅からスタート。今回歩く鎌倉街道は、江戸時代に中山道脇往還として賑わっていた児玉往還(川越から上州藤岡)と重なっています。距離が短いので、旅人や役人などは利用することが多かったようです。歩道が無くなったところで右の旧道へ。しばらくして元の県道に戻ります。

 

志賀観音堂

志賀村は児玉往還の宿駅として賑わっていました。嵐山役場入口交差点近くにある観音堂(比企西国観音霊場二十八番札所)には、聖徳太子像や高さ2mもある宝篋印塔(實保七年(1741)建立)‥など多数の石仏石塔が並んでいます。

 

杉山城跡

右手に杉山城跡が見えてきました。続百名城で前に訪れているので、今回は眺めるだでけですが、遺構がよく残っていてすごく見ごたえのある山城です。

 

しばらくは歩道があるけど、途中からは緑に塗られた路側帯になります。ダンプカーも多かったので、杉山城跡沿いの道を歩くことにしました。こちらも歩道はないけど、車も少ないので快適です。

 

杉山城の搦め手口に続く道と反対側の橋を渡ります。橋のたもとにあるのは「フセギ」伝染病など悪いものが入らないように集落の境に立てています。そのまま川沿いの土道を進みました。車の心配はないけど、昨晩は大雨が降ったようでぬかるみ道でした。インターに続く道をくぐって県道に合流しました。

 

県道に戻るといつのまにやら小川町入っていました。小川は和紙が有名で、1300年もの前から伝わっているそうです。歩道が無くなる所で右手の旧道を進みます。県道に合流すると歩道がありません。注意しながら歩いていくと、しばらくして歩道が現れたものの雑草が伸び放題。歩く人が少なくて優先順位も低いんだろうな。勝手に切りながら歩きたいけど、そうもいかないしね。その先も歩道があったりなかったりの道を進みます。

 

奈良梨交差点

信号手前の歩道脇に大正8年(1919)に設置された道路元標が保存されていました。交差点を渡り、奥に見える鳥居をくぐって八和田神社の参道を進みます。

 

八和田神社(奈良梨陣屋)

ここは、家康に従って奈良梨に移った諏訪頼忠・頼水親子が、上野国へ移るまで奈良梨陣屋として使われていた場所です。後に諏訪神社となりましたが、周辺八カ村が合弁して八和田神社と改名されました。境内にある「逆さ杉」は、諏訪頼水が所領を定めるために、諏訪から投げた杉が逆さにささりそのまま根を下ろしたと伝わっています。神社の境内には土塁や空堀が残っています。

 

八和田神社の先で県道を横切り、少し戻って普賢寺の案内板にそって細道を進んでいきます。萬福寺と普賢寺の間の道を進めとガイドブックには書いてありましたが、ここはそのまま普賢寺脇の道を左手に進み、お墓脇の土道に進みます。案内柱がありますが、反対側からじゃないと矢印が確認できません。

 

諏訪神社奉祀跡

土道を進むと諏訪神社奉祀跡があります。諏訪氏はここに諏訪神社を勧請しました。今は八和田神社となっていますが、祭礼の際はこの地に神輿が渡御するそうです。

 

鎌倉街道上道跡 大字奈良梨 天王原北

そのまま土道を進むと舗装道路に出たところに「鎌倉街道上道跡」が残されていました。ここは案内通りに右手に進むのが正解ですが、左手に進んでちょっと寄り道。

 

武蔵野ワイナリー

寄り道先は、地産地消のワイナリーです。気になっていたワインソフトをいただきます。キッチンカーも出ていたけど、暑すぎて食欲がないので、パンを買ってワインソフトを塗ってみました。何気に合う。お土産に買ったジュースも美味しかったです。ワインも飲みたかったなぁ。リフレッシュして、さて、歩くか。

 

来た道を戻り、上道跡を横目に舗装道路を案内柱のある分岐まで進み、道を下って田んぼの中を進んでいきます。この先は案内柱に従って歩いていきます。

 

ここにも「フセギ」

 

鎌倉街道上道跡 大字伊勢根 普済寺東

土道を進むと左手に掘割状の遺構が残されていました。発掘調査によると何回か改修されているそうです。舗装道路に出たら案内に従って、永昌寺の大松へと進んでいきます。

 

永昌寺の大松

ここにはかつて樹齢800年という大松があったそうです。この先、ガイドブックでは四方津山神社(四方津山城/高見城)に寄れと書かれています。山内上杉氏と扇谷上杉氏が戦った高見ヶ原合戦では、山内上杉氏の背後を守る役割をしていたそうです。が、長い階段を上らないとならないようなので寄りません。そのまま県道を進み能増の交差点経由で県道を歩くことにしました。

 

能増の交差点の県道を少し戻ったところに座り地蔵が二体ありました。グーグルマップには「能増の百万遍」とあるのだけど。百万遍というのは数珠を使った行事の事みたいですが、このお地蔵さんと関係があるのかはよくわかりませんでした。

 

あの山が四津山かなぁとか思いながら歩いていると、四方津神社入口の石柱と鎌倉殿の幟。ここからも行けるようだけど、今回は体力的に無理。比企一族もこの神社に縁があるのかしらなどと考えながら県道を歩いていたら、またまた歩道なのに藪こぎとなってしまいました。途中で川沿いの道に逃げてもよかったな。疲れたので、今市地蔵前交差点手前のコンビニでアイス休憩にしましょう。

 

延命一体地蔵尊

室町時代につくられた像高3.14mもある大きな木造の地蔵菩薩像が安置されています。

 

宝珠山 高蔵寺天台宗

柳沢吉保の祖父、柳沢信峻が開基した寺ですが、、寺の前にあるお店が気になる。イノシシ? もつ鍋? でも床屋?

 

 

薬師堂

薬師堂には室町時代薬師如来像が祀られているそうです。大きな百万遍供養塔もありました。この交差点を右に入ります。しばらく歩き、右側の白い家の前に三基の石塔が見えたら、畑の角を左に入ります。

 

塚田三嶋神

命じの神仏分離により、山王社、稲荷社、鬼子母神普光寺から移されました。塚田は、塚田鋳物師達を中心とした街道の宿場町として栄えていたそうです。

 

普光寺(天台宗

享保4年(1719)の記録に、山王社・稲荷社・鬼子母神観音堂再建とあるそうです。

 

普光寺の東側にある大きな案内柱から上道を進みます。県道に出たら左に折れ、車道を渡り少し先の細道にはいります。山王坂と呼ばれる坂道です。木々の相賀から秩父の山並みがきれいに見えます。

 

坂を下っていくと、鎌倉街道上道の案内。普光寺脇からここに続いていたんだね。

 

坂を下ると目の前にも鎌倉街道の案内。この先に山王の渡しがあったはずだけど、この道も数メートルしか行けません。舗装道路を左に進みます。

 

川越岩(赤浜の渡し)

荒川沿いに歩いていくと、大きな岩が見えてきます。藪に覆われているうえに虫が多くて近づけませんが、当時は馬で渡河できる数少ない場所でした。さすがに渡河はできないので、街道歩きはこの先の花園橋を渡ります。ですが、いったん引き返します。先ほどの上道跡を過ぎ、街道を離れて関越自動車道をくぐり、田んぼの脇をひたすら進んでいきます。

 

畠山重忠屋敷跡(畠山重忠公史跡公園)

畠山重忠の生まれた場所と伝わる館跡に到着。重忠の父重能の代に現在の嵐山町の菅谷館へ移りました。秩父権守重綱の孫重能が畠山荘の開発領主となり畠山と称したとされます。

 

白田山観音院 満福寺(観音閣)

鳥羽天皇の御代(1110年頃)に草創され、後に畠山重忠が寿永年間に再興して菩提寺としました。観音閣には、重忠の等身大の守り本尊である六尺三寸の千手観音像が安置されています。六尺三寸って1.9m。さすが馬を担ぐだけのことがあります。

 

井椋神社

畠山重能が館を畠山に移したときに、祖父重綱が秩父吉田郷から勧請しました。

 

鶯の瀬

増水時でも川瀬の変わらない浅瀬で、畠山重忠が榛沢六郎成清のもとに行き、帰路豪雨に逢い、洪水で渡れないでいると一羽の鶯が鳴いて教えてくれたと言い伝えられています。 「時ならぬ 岸の小笹の 鶯は 浅瀬たずねて 鳴き渡るらん」

 

川沿いを歩いて重忠橋で荒川を渡ります。鶯の瀬からは木々が茂っていてよくわかりませんでしたが、橋から見ると浅瀬になっているのがわかります。

 

秩父鉄道 永田駅

時刻を調べてぎりぎり間に合うはずでしたが、駅に着くなり踏切の音。踏切が閉まってホームに渡れない・・。ということで一本見逃し。30分待つことになりました。永田駅無人駅。トイレは男女一緒のぼっとんトイレが一つでした。

 

熊谷駅についたら、何と隣の行田駅で人身事故発生。一本早かったら事故る前に通れたのになぁ。しばらく動かないようなのでうどんでも食べて帰りましょう。

 

 朝晩は涼しくなってきたものの、最高気温は30℃くらい。雨は降らなかったけど雲が多く蒸し暑い一日でした。久しぶりの街道歩きは汗びっしょりでした。でも確実に季節は進んでいます。この日は中秋の名月。帰る途中で見事な満月を楽しみました。

 

 武蔵嵐山駅から歩いた今日の鎌倉街道は、武蔵国留守所総検校職を世襲した畠山氏の所領でした。先日の大河ドラマでは、北条時政が武蔵守にしてやるから、武蔵国留守所総検校職をよこせとか言い出してましたよね。で、政範が京都で亡くなり、ついに重忠が二俣川まで来てしまいました・・・。ドラマのような一騎打ちがあったかどうかはわかりませんが、ちゃんと畠山の名は歴史に刻まれましたよ。あっぱれです。とはいえ後味は悪いままです。「戦など誰がしたいと思うか!」