マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【鎌倉街道 上道】11日目 児玉から山名  2022.10.15(土)

白石稲荷山古墳

白石稲荷山古墳

五世紀前半につくられた 白石稲荷山古墳と十二天塚古墳・十二天塚北古墳は、一括して国の史跡に指定されています。 白石稲荷山古墳は三段に造られており、全長155メートル、前方部幅80メートル、後円部径90メートル、高さは前方部で6メートル、後円部で13.5メートルという大型前方後円墳です。(藤岡市HPより)

 

児玉児玉駅)→ 神流川  本郷 → 緑埜 白石 → 山名山名駅

 

 神流川を渡り、武蔵から上野の国に入りました。平坦な道ともそろそろお別れ、起伏のある道を歩いていくと古墳の里に到着です。

 

競進社模範蚕室

児玉駅からスタート。前回寄り損ねたので街道に戻る前に見学します。養蚕技術の改良に尽くした木村久蔵が明治27年(1894)に建てた養蚕施設です。

 

旧道に入るのを忘れていて、国道からスタートと勘違い。まぁいいか。八高線のガードをくぐり、児玉往還に入ります。交差点手前の赤い看板のところで左に入り、児玉往還とはしばしお別れ。突き当りの土道を進むと小さな雀の宮橋が見えてきます。土道は雨の日や草が刈ってないと歩けないかも。国道から八幡山橋入口の交差点を曲がるって雀の宮橋に続く迂回路もあります。

 

橋を渡り、農道を八高線沿いに歩いていきます。雲が多いけど山並みがきれいだ。八高線の踏切を渡って、線路の反対側へ少し寄り道。

 

塙保己一旧宅

江戸時代の国学者塙保己一の旧宅です。農家とはいえ、苗字・帯刀を許された旧家で生まれた保己一は、5歳の時に病を患ったのが原因で7歳の時に失明しました。15歳で江戸に出て、17歳で雨富須賀一検校の門人となりました。様々な学問を学び、群書類従を編纂刊行するなど多大な貢献をして総検校になりました。旧宅は住居として使用されているようなので外観のみ見学可です。

 

近くにある塙保己一公園内に保己一の墓と記念碑があります。

 

飛龍の榧(かや) 東方山不動院 龍清寺(真言宗

墓所隣の龍清寺は、保己一が子供の頃に遊んだ寺です。境内には、今にも倒れそうで倒れない榧の木があります。樹齢200~300年とか。すごいですねぇ~

 

本来の旧道は八高線の東側ですがこのまま西側の舗装道路を北上します。踏切につながる交差点まで来たところで旧道に合流して、一本西側の細道に入り神川町役場の脇を通ります。コキアがきれいに色づきはじめました。

 

そのまま道なりに進んでいきます。神流川の土手が見えてきました。街道はこの先で神流川を渡河したらしいのですが、ここに橋はありません。2キロほど下流の橋まで迂回。止まれの看板のところで右に曲がります。田んぼの脇に石塔群を過ぎると、長屋門が見えてきました。

 

高橋記念公園

立派な長屋門です。裏に広場とトイレもあります。高橋家は、徳川第四代将軍家綱公の時代から代々名主を務めた家系で、屋敷跡を公園として神川町に寄贈したそうです。

 

廣野大神社

長い参道の奥にある神社の創建は759年とも994年ともいわれ、ご祭神は天穂日命倉稲魂命誉田別命。 廣野とは神流川氾濫原の風景から名付けられました。神流川の流れが変わる前は上野国に属し、元禄十四年(1701)から武蔵国に属するようになりました。土師氏の創建とも考えられています。ところで鳥居の脇の切株は何だろう。お地蔵様が並んでいるように見えます。

 

神社の裏から出て神流川の土手に上ってみました。木々が邪魔で川面は見えません。トラポールの分岐で下の道に下りると児玉往還に合流します。下りた道には歩道がないので、左側の一段下った道に入ると歩きやすいです。国道の手前で上の道に戻り、信号を渡れば神流川に架かる藤武橋です。いよいよ武蔵の国ともお別れです。

 

神流川藤武橋)

中山道を歩いた時にも神流川渡りました。ここは中山道よりも4㎞ほど上流になりますが、鎌倉街道の渡河地点はさらに2㎞ほど上流になるのかな。川幅は広いけどほとんどジャングル。そういえば荒川を渡ってからいつの間にか利根川水系に入ってました。こだま千本桜の小山川も利根川水系だったんですよね。それにしてもこの橋は交通量が多くて長い(橋長727m)

 

橋を渡ったら信号で左に曲がり、次の信号で田んぼ沿いの道に入ります。八高線の踏切を渡ります。

 

本郷埴輪窯跡

古墳時代に登り窯が築かれ、埴輪が焼かれていました。

 

土師神社

道なりに進むと赤い鳥居が見えてきました。神社の裏参道からお邪魔します。ここは野見宿禰を祀る神社です。山辺の道を歩いていた時に、相撲神社で野見宿禰当麻蹴速が天覧相撲を行い宿禰が勝利した、との記憶があるけど、埴輪の祖でもあるというのは初めて知りました。境内には日本三辻のひとつといわれる相撲辻(土俵)があります。土師神社の参道を出ていったん神流川に向かいます。

 

藤岡氏上水道水源地の脇から、神流川の土手に上ります。

 

神流川の土手沿いの道を西に進みます。土手の下はパークゴルフ場や広場になっています。少し先で川辺に出ようと土手を下りたら、そこは川辺までは下りられませんでした。ゴルフ場の辺りで下りればよかったかな。とりあえず石の上に座っておにぎりでエネルギー補給。この辺りに橋があれば6㎞も遠回りしなくて済んだのになぁ。看板に現在地と書いてあるすぐ先で土手を下り北に進んでいきます。

 

板碑のような道祖神

 

葵八幡

木曽義仲の側室葵御前が討たれた場所といわれ、2基の板碑は1300年代初頭のもので葵御前の卒塔婆ともいわれています。でも義仲といえば巴御前の方が有名だよね。鎌倉殿の巴御前は・・すごくかわいい。

 

美九里東小学校脇の道を進み、正門まえから北に進みます。本郷橋を渡り細道を上っていきます。ガイドブックでは迂回するように書いてありましたが、グーグルマップでは龍田寺の脇に抜けられそうだったので進んでみました。竹林の風情ある道です。といっても旧道はこの道ではないようですが。この辺りから少しずつ起伏のある道になります。

 

竹林の道を抜けると六地蔵が出迎えてくれました。龍田寺の脇を道なりに進みます。

 

カラスウリが鮮やか。サザンカももう咲いてる。

 

またまた竹林を抜けてモータースクールの脇を上っていくと、ガイドブックの道に出ます。

 

石仏群、牛にモズ のんびり歩きます。

 

坂を下ると田んぼが広がります。すっかり空が高くなりました。

 

朝晩は涼しくなったけど、陽射し強くて歩くにまだ暑い。コンビニで今日もアイス休憩。信号を渡って、歯医者脇の細道を進んでいきます。火の見やぐらだ。

 

フセギ発見。隣の大きな石碑には「凱旋馬頭尊」英霊とか書いてあるから馬頭観音とは違うみたい。このまままっすぐ進むと鮎川です。

 

鮎川

ここも橋がないので迂回します。でも1㎞程なので神流川に比べたら楽勝です。

 

千部供養塔

鮎川越えの旧道から続く道に見えてきたのは、天明三年七月(1783)の浅間山大爆発の被害を刻んだ供養塔で、9年後の寛政四年(1792)に建てられました。天明の大飢饉です。浅間山岩木山の噴火による異常気象が発端とはいえ、近世では最大の飢饉となってしまいました。藩の治政の良し悪しでだいぶ対応が異なったようです。今はどうだろう・・

 

田んぼの中の道を進み、上信越自動車道のガードをくぐり、ガソリンスタンドの前で左に入ると旧道が復活です。国道254号線を渡り、道なりに歩くと井戸が見えてきます。

 

 

吉良上野介陣屋跡(井戸)

吉良上野介の祖父の時代(寛永五年/1628)頃に上野国白石村に所領を拝領し、陣屋を置き治めていました。この井戸で上野介義央の産湯を汲んだと伝えられていますが、月に1回赤く染まるので 「汚れ井」と呼ばれ飲て料水には使われなかったそうです。討ち入り後の元禄十六年(1703)まで吉良氏の所領でした。領民から名君と慕われ、昔は白石村では忠臣蔵の芝居は行われなかったそうです。

 

この先はいくつかルートが分かれているようですが、ガイドブックに沿って古墳に続く道を進みます。なかなか面構えのいい牛さんです。

 

田んぼを眺めながらののどかな道です。石碑のその奥に見えてきたのは・・

 

白石稲荷山古墳

五世紀前半につくられた前方後円墳で、同時期の古墳としては東日本最大級の規模といわれています。すごく大きいけど、全景がよくわからなかったぁ。上れるのかわからなかったので行かなかったけど、上から見たらまた違う景色が見えたかな。古墳の上に桜が咲いている素敵な写真をよく見ます。咲いたら素敵だろうな

 

皇子塚古墳・平井地区1号墳(毛野国白石丘陵公園)

白石稲荷山古墳から川沿いを歩いていくと、きれいに整備された公園の中に古墳が並んでいます。皇子塚古墳と平井地区1号墳です。ともに六世紀後半に造られた円形の古墳です。すぐ近くには藤岡歴史館がありますが、見学していたら帰るころには真っ暗になりそうなので先に進みます。

 

七輿山古墳

こちらも東日本最大級の前方後円墳。六世紀前半につくられました。全長150m、前方部幅115m、後円部径85m、高さは前方部・後円部ともに16mもあります。高さ110㎝もある大きな円筒埴輪も出土されています。名前の由来が藤岡市のHPに載っていました。 『七輿山の伝説』

「七輿山の名前の由来は、羊太夫の伝説からきています。奈良時代に新設された多胡郡を賜った羊太夫は、八束の小脛という神童の引く天馬に乗って朝廷へ日参していました。ある日、羊太夫は悪ふざけで昼寝をしている小脛の両脇に一本づつ生えている白羽を抜いてしまいました。すると、神通力を失い天馬が走らず、朝廷へ日参できなくなりました。朝廷は羊太夫が謀叛を計っているとして討伐軍を派遣しました。八束城を追われた羊太夫の一族が落ち合った場所が「落合」という地名になり、羊太夫の女房ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せ葬ったので「七輿山」と言う名称が伝えられています。」

 

七輿山ドライブイン

古墳のすぐ近くにあるレトロゲームやレトロ自販機が現存しているというドライブインに寄り道。おそばを頂きました。若い子たちが結構来ているのね。

 

伊勢塚古墳

七輿山古墳の北にあるこの円墳も白石古墳群のひとつです。石室の入り口が開いていて中にも入れます。

 

街道にもどって、鏑川橋で鏑川を渡ります。高崎市に入ります。鏑川は、烏川に合流して利根川に流れます。橋を渡ったら交差点よりも少し西に進んで細道を入っていくのが児玉往還ですが、もうちょっと先まで進んで古墳群の中を抜けてみました。

 

山名古墳群

6世紀中頃~7世紀前半につくられた古墳群で、合計で17基もの古墳が並んでいます。古墳群を抜けて児玉往還に合流し、進んでいくと県道と合流するところで、左手に山名駅で見えてきました。

 

名神社に参拝をしようかと思っていましたが、時刻表を見るとすぐに電車が来そうです。ちょっと疲れていたので、帰ることにしました。

 

高崎駅に着くと駅の改札外に「上野三碑(レプリカ)」が展示されていました。古代から重要な地域だったんですね。

 

 今日のルートは途中リタイアがなかなか難しいルート。神流川を挟んで丹荘駅群馬藤岡駅から先は、鮎川を渡った先に本数の少ないバス停があるくらい。何だかんだウロウロしていたせいもあって歩数計を見たら28km近くも歩いている・・疲れるわけだぁ。児玉からだとちょっと長かったです。

 児玉駅から歩き始めるとだんだんと山が近くなってきて、神流川を越えるとさらに山が近づいてきます。武蔵の国から上野の国に入っただけでこんなに景色が変わるものなんですね。そして古墳の多さにも驚きました。今回は見る機会がありませんでしたが、埴輪の出土も圧倒的だそう。古代から東日本の中心的な地域だったんですね。鎌倉街道を歩いているのに時代が一気に古墳時代までさかのぼっていきました。古墳巡りも楽しそうです。