富岡製糸場(繰糸所)
明治五年(1872) 明治政府が設立した官営の器械製糸工場です。民営化後も製糸技術開発の最先端として国内の養蚕・製糸業を牽引してきました。昭和62年(1987)日本の製糸業の衰退により操業を停止しましたが、停止後も大切に保存管理され、2014年ユネスコ世界遺産(産業遺産)に登録されました。
街道歩きの前にちょっと寄り道。世界遺産に登録されてから、行ってみたいと思っていた富岡製糸場に行ってきました。
富岡駅
旧富岡倉庫 セカイト
駅前にあるレンガ造りの建物が目を引きます。倉庫だった建物は、群馬の絹文化を紹介する施設になっています。カフェや市場も隣接しています。セカイトで歴史を学んで富岡製糸場へ向かいます。
富岡製糸場(東置繭所)
長さが約140mある繰糸所は当時の製糸工場としては世界最大規模でした。そのため器機が新しくなっても建物を使い続けることが出来たそうです。そして建物が残っているのは、操業停止後もきちんと保存してくれた片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業株式会社)のおかげです。
東置繭所(1872)
現在は、富岡製糸場の歴史についての展示室や売店として利用されています。2階への入口は気が付かなかったので、公開されてないと思っていたのですが、後で調べたら見学できるようでした。うっかりです。
ブリュナエンジン(復元機)
設立の際に導入された蒸気機関の復元機です。
西置繭所(1872)
多目的ホールや歴史資料が展示されています。ここは2階へあがるエレベーターがすぐに目についたので、2階も見学してきました。一部のみなので、広々とした空間はありませんが、外廊下に出ることが出来ます。
鉄水溜(1875)
当初はレンガ積みで作られていましたが、水漏れが激しいため、鉄製で作られた貯水槽です。日本に現存する最古級の鉄製構造物です。
繰糸所(1872)
繭から生糸を作る作業所として建築され、当初はフランスから輸入された300釜の繰糸器が設置されていました。現在は操業停止まで使われていたニッサン製の自動繰糸器がそのまま保存されています。創業当初は電灯がまだなかったので、自然光を取り入れるためたくさんのガラス窓がつくられました。
診療所(1940)
操業から数えて3代目の診療所
首長館(ブリュナ館)
設立指導者として雇われたフランス人ポール・ブリュナと家族が暮らした建物です。後に工女のための宿舎や学習施設として使用されました。
寄宿舎(1918)
工女たちの宿舎として使われていました。
社宅
民営化後の社宅が残されています。当時の社宅の生活をイメージした展示や体験施設として利用されています。
検査人館
現在の受付がある所は、生糸や機械の検査を担当したフランス人男性の宿舎として建築されたもので、後に事務所や貴賓室として使用されていました。内部の見学はできないそうです。
旧韮塚製糸場
富岡製糸場の前にあるこの建物は、明治9年から12年頃まで操業していた民間の器械製糸場です。
かいこやき(くらさん家)
かわいくて美味しいお蚕さんをいただきま~す
工女さんも愛したカレーライス(高田食堂)
親しみやすいカレーです。有名なお店のようで色紙が沢山ありました。飲食店は沢山ありました。人気のお店は並んでいました。製糸場にも飲食店にも人出がふえてきましたね。
駅と製糸場の途中にある諏訪神社の創建は不明ですが、慶長六年(1601)に富岡に移され、現在の社殿は昭和九年(1934)に改築されたものです。彫りが見事です。
世界遺産になった頃、横浜でもシルク繋がりでお祝いイベントをしていました。富岡製糸場の事を知ったのはその頃。後に松代で和田英の実家に行ったときに『富岡日記』の話を聞いたりして気になっていたものの、なかなか行く機会がありませんでした。鎌倉街道上道の最終日が上信電鉄の駅からスタートだったので、その前に少し足を延ばしてきました。
操業当初の建物がこれだけまとまって残っているのは素晴らしいですね。操業停止後も保存することにこだわった片倉工業はまさにノブレス・オブリージュです。官営時代の製糸場は技術も待遇もお手本となる先進的な製糸場だったそうです。民営化後については余り展示されていなかったのですが、利益重視になると大変だっだかもしれないですね。西繭置所では片倉工業時代の職場の様子、社宅には昭和30年代の暮らしの様子が展示されていました。昔の大きな工場ってこんな感じでしたよね。産業も移り変わり人々の暮らしも変わっていって、今は格段に清潔で便利な世の中になったのに、閉塞感ばかり感じるのはなんでだろうね。とりあえずコロナ騒動を終わらせてくれないかぁ
街道歩きの前にサクッと見学しようと軽く考えていたのに、見どころがたくさん。上信電鉄の本数の関係もあって、思っていたよりも時間がかかってしまいました。楽しかったです。