玉縄城跡 (七曲坂)
永正九年(1512) 伊勢宗瑞(北条早雲)が三浦道寸(義同)攻略のために築城した武蔵国や房総半島に対する拠点でした。天正十八年(1590) 豊臣秀吉の小田原征伐の際、玉縄城主北条氏勝は山中城で援軍として戦っていましたが落城、玉縄城へ撤退し籠城しました。家康に包囲されますが龍寶寺住職の説得により降伏しました。その後、徳川家重臣の城となりましたが元和五年(1619)の一国一城令で廃城となりました。戦国時代の典型的な山城でしたが、学校や住宅の造成により、城の大半は失われています。
龍寶寺/玉縄歴史館 → 諏訪神社 → 七曲り → 玉縄城跡(太鼓櫓) → ふわん坂 → 久成寺 → 玉縄首塚 → 大船観音 → 大船駅 (約4km)=横須賀線= 鎌倉駅(鎌倉歴史文化交流館「戦国時代の鎌倉」・北条小町邸跡)
所用で出かけたものの早く用事が済んだので、少し足を延ばして玉縄城跡を歩いてきました。
陽谷山龍寶寺(曹洞宗)
玉縄城主の菩提寺。第三代城主北条綱成が建立した香華院に始まり、第六代城主氏勝により現在地に移されました。この場所は鎌倉時代、公暁の七人の部下が源実朝の首を隠した場所と伝わっていて実朝の位牌も安置されています。
玉縄北条氏供養塔(龍寶寺)
玉縄城主 北条綱成、繁氏、氏勝の供養塔です。栄光学園の敷地内から造成工事のため諏訪神社の裏手に移されましたが、現在はお参りしやすいようにと境内に移されています。
玉縄歴史館
一階にはジオラマや玉縄城の説明が、二階には玉縄で使用されていた農具などが展示されています。ここで玉縄城址マップがもらえます。
旧石井家住宅(国指定重要文化財)
石井家は北条時代の字侍から発したと伝わる旧家でこの地の名主を務めていました。もとは関谷にありましたが、江戸時代中期の民家が取り壊されることを惜しみ龍寶寺に寄贈されました。
玉縄城内の諏訪壇に祀られていましたが、廃城後村人の手により現在地に遷座され、近くの御霊神社と合祀され旧玉縄村の鎮守となりました。
境内の御神木がまるで巨人の足のようです。
七曲り
急坂でいくつにも折れ曲がっていることから七曲りと呼ばれています。途中には武者だまり址も残っています。
太鼓櫓
七曲り坂を上りつめた所に本丸土塁の間の狭い土塁が残っています。ここで合図の太鼓を鳴らしたと考えられています。
硝煙蔵
太鼓櫓の南の区画で火薬を置いていたと考えられています。整備中と書いてあったので、近いうちに歩けるようになるかもしれません。
諏訪壇(2019.9.26)
玉縄城最後部(標高約80m)の平地には諏訪神社が祀られていました。本丸は、現在の清泉女学院の校舎が建てられている場所にありました。ここは学校の許可を取らないと見学ができません。写真はだいぶ前に鎌倉ガイド協会の史跡巡りで訪れた時のものです。この時カメラを忘れてスマホで撮っていたのですが・・手違いで消してしまいツイッターにアップしたものしか残ってないのです・・・
玉縄城址の石碑があるはずだけど・・庚申塔しかわからなかった。ここでいいのかなぁ?ここから坂を下ると城主の館があった陣屋坂です。
ふわん坂
陣屋坂の1つ先の切通しの坂道を下っていきます。坂の両側にはかつて平場があり道を防御できるようになっていました。
坂を下ったところには「右かまくら」と刻まれた庚申塔?「左・・」読めなかった。でもここは「右」かまくら?
光園山久成寺(日蓮宗)
小田原北条の家臣であった梅田尾張守秀長が建立しました。徳川家康が小田原征伐の際に祈祷を頼み恩賞を寄進したり、鷹狩りの途中で柚子を献上したお礼に三葉葵の門が入った弁当箱を与えられたりという縁で、寺紋として三葉葵の紋も使用が許されています。また、境内には長尾砦(横浜市栄区長尾台)から移した長尾定景と一族の墓があります。長尾台は玉縄城の出城とされていますが、上杉謙信の祖 長尾氏発祥の地でもあるんですね。後北条氏の家臣が建立したお寺に謙信の祖先が眠るなんて・・なんだか不思議です。
大永六年(1526)江戸湾の制海権をめぐり安房国の里見氏と玉縄北条氏の合戦が行われ、里見氏を撃退しました。合戦後両軍の戦没者の霊を弔うため塚が築かれました。
大船駅から見える大きな真っ白い観音さま。久しぶりに上ってきました。大船観音は、昭和四年(1929)に永遠平和のため地元有志が大船観音の建立に着手しましたが、戦争により未完のまま放置されていました。戦後、財団法人大船観音協会が発足し、昭和35年(1960)に現在の像の形に完成しました。昭和56年(1981)から曹洞宗大船観音寺となり伽藍が整備されています。
大船漢音参道でもまた大仏コーンを発見。
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鎌倉歴史文化交流館
玉縄歴史館で展示されている甲冑が出張しているとのことで、鎌倉まで足を延ばしてきました。「戦国時代の鎌倉」という企画展が開催中。そういえば戦国時代の鎌倉ってあまり考えたことがなかったけど、鎌倉府と室町幕府の対立も戦国時代へのきっかけのひとつですよね。この交流館は個人の建物だったそうです。鎌倉時代にはお寺があって庭園跡が発掘されているようですが詳しいことはわかりませんでした。でも素敵な場所なのでおすすめです。
北条小町邸跡
歴史交流館で鎌倉時代の遺跡から発掘された品々を見ていたら、発掘現場を見たくなりました。確か若宮大路のビルの中にあると聞いたような。八幡宮にお参りがてら見に行くことにしました。鶴岡八幡宮前の交差点近くのビルの奥にありました。ビル建設時に行われた発掘調査で出土した遺構が、発掘された状態に近い形で展示保存されていました。ガラスの床の下に鎌倉時代が眠っています。この道を御家人たちが歩いたんですね!
侍気分
遺跡のわきに小さなお店があります。店長さんが遺跡の説明をしてくれました。歴史に詳しくてとても面白い話が聞けます。お店では源氏から維新までちょっとひねりの効いたデザインの素敵なバックやTシャツがあります。ついお土産にトートバックを買ってきてしまいました。あれっ?鎌倉は関係ないじゃん・・
今年はいい年になりますように!
「枯るる木に また花の木を 植え添えて もとの都に 成してこそみめ」
伊勢宗瑞が初めて鎌倉に入ったときに詠んだとされる和歌です。戦乱で荒れてしまった鎌倉を復興させようと詠んでいます。戦国時代というと織田・豊臣・徳川を中心として考えることが多かったけど、東国もとても面白そうです。東国を知るには平安時代の源平あたりまで遡らないとならないかな。関係がとても複雑でまだまだついていけません。少しずつ調べていきましょう。
---☆☆ 追記
後日、長尾砦址に行ってきました。
大船駅から柏尾川沿いに大船方面に進んで、笠間大橋の手前を上っていきます。長尾砦は、戦国時代に小田原北条氏が築いた玉縄城の出城・長尾砦の跡といわれています。
また、ここは長尾氏発祥の地ともいわれています。鎌倉権五郎景政の子孫が長尾次郎と名乗りここに居を構えました。次郎の子孫の長尾定景は、石橋山合戦で平家方についたもののその後一族の三浦氏の配下となり、源実朝を殺害した別当公暁を討った人物です。定景の子景茂は宝治合戦で三浦泰村と共に法華堂で自刃し、長尾氏の一族はほぼ滅亡しましたが、一族の子孫は上杉氏の家臣となり、長尾景虎(上杉謙信)へと繋がっていきます。