マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【鎌倉街道 上道】1日目 鎌倉から鉄砲宿  2021.9.5(日)

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鎌倉古道

鎌倉古道 上の道(藤沢市宮前)

宮前御霊神社に続く裏参道の先には、当時の面影を残す鎌倉古道が残されています。

 

鶴岡八幡宮鎌倉駅化粧坂 → 洲崎  → 村岡 → 鉄砲宿 ( 俣野別邸庭園 / 鉄砲宿バス停  約13km)

 

鎌倉街道 上道 始めました。

 

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鶴岡八幡宮

まずは八幡宮でお参り。恒例の鳩みくじを引いてみる。今日の運勢は・・。まぁ気を取り直して行きましょう。

 

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東光山 英勝寺(浄土宗)

横大路を進み横須賀線の線路を渡り、寿福寺、英勝寺を横目に見ながら北に進みます。英勝寺は、太田道灌の子孫で徳川家康に仕えたお梶の方(英勝院)が、道灌の屋敷跡に寛永13年(1636)建立しました。葵(徳川)と桔梗(道灌)が門の装飾に使われています。ここは鎌倉で唯一の尼寺。鎌倉の尼寺というと東慶寺が思い浮かびますが、明治政府が寺領を没収して以降の住職はずっと男僧なんです。

 

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阿仏尼の墓(伝)

英勝寺先の崖下にあるやぐらに納められている層塔は、『十六夜日記』の著者である阿仏尼の墓と伝わっています。所領を巡ってのトラブルを解決すべく京を旅立った尼は当時55歳くらい。4年後の弘安六年(1283)に亡くなってしまうのですが、最終的に阿仏尼の勝訴となりました。息子の為相は冷泉家の祖となり、和歌の家として現在まで続いています。鎌倉まで来たかいがありました。すごい行動力です。

 

道なりに進んでいくと道案内の矢印が見えてきます。まっすぐ進むと海蔵寺に行ってしまうので、ここは「銭洗弁財天・化粧坂切通・源氏山公園」と書いてある道に進みます。

 

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歩いていると崖側にアジサイの花? 今頃? とりあえず写真を撮って家で調べてみると「タマアジサイ」という種類のようでした。つぼみが球形になることから名がつけられたそうで、7-9月に咲くそうです。

 

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化粧坂切通

平家の武将の首を化粧して首実検したからとか、この辺りに遊女が住んでいたからと名前の由来が諸説ある化粧坂。鎌倉最後の防衛線の一つです。朝方まで雨が降っていたので、路面がまだちょっと濡れています。急な斜面。滑らないように気を付けて登ります。

 

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登りきったらまずは鎌倉殿にご挨拶。上道に戻りましょう。日野俊基のお墓に手を合わせて、葛原岡神社左手の道を進みます。崖沿いの道を抜け二車線の通りに出たら左に進みます。

 

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住宅街の中を歩いて、郵便ポストのある公園で右側の道に入ります。ロータリーを右に進み、すぐの横断歩道のところから左の道を下りていきます。深沢中学校の横を歩いていると「寺分大工谷」という地名の由来が記されていました。「鎌倉時代、この付近に建てられた関東十刹の一つ・大慶寺などを修復した工匠が住んでいたと伝えられる」そうです。案内板のすぐ先で道が分かれ、上道は右に進みます。が、ここは左にちょっと寄り道。中学校沿いに道を下り、学校端の信号を右に入ると正面に深沢小学校が見えます。突き当りの右側に梶原御霊神社があります。

 

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梶原御霊神社

鎌倉権五郎景正を祀った神社で、建久元年(1190)梶原景時の創建と伝えられています。境内はとても住宅地の中にあるとは思えないくらい静かな別世界です。この辺りの地名は「梶原」。梶原氏の祖、鎌倉景通がここに住んだことから梶原氏出自の地とされています。隣の深沢小学校裏手のやぐら の中には「梶原景時の供養塔」があるそうですが、見学するには許可を取らないといけないようです。頼朝の信頼を得て大きな存在であった景時ですが、頼朝の死後、鎌倉殿の13人に選ばれたものの失脚。一年ほどで討ちとられてしまいました。頼朝にとっては命の恩人でも、御家人を敵にまわしてしまってはどうしようもありません。

 

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霊松山 大慶寺(臨済宗円覚寺派

上道に戻りましょう。先ほど中学校前の説明板に名が出ていた大慶寺です。創建は弘安年間(1278~1287)と伝えられ、境内には樹齢700年といわれる柏慎や宝篋印塔などがあります。往時は大寺院で広大な寺域を持っていたそうです。少し先に石塔が2基ありました。この辺りも寺領だったのでしょうか。

 

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洲崎古戦場跡碑

モノレール下の道にでたら大船方面に少し進むと、道の反対側に古戦場跡の碑が見えます。道を戻り信号を渡ってスポーツ公園の脇を進みます。

 

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フェンス越しに泣塔がありますが・・・・道側からは見ることはできませんでした。信号を渡ってすぐのスポーツ公園の中に入るのが正解でした。とりあえず戻りましょう。

 

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泣塔

スポーツ公園の奥にこんもりとした塚が見えます。塚の上には文和五年(1356)の銘が刻まれた宝篋印塔があります。洲崎の合戦における戦死者の23回忌の供養塔として建てられたと考えられています。ちなみにこの広大な空地は、JR東鎌倉総合車両センター跡地。広々とした空間にいると合戦の様子が浮かんでくるようです。

でも、2032年頃にはこの先の東海道線大船駅藤沢駅の間、旧国鉄湘南貨物駅跡地に村岡新駅(仮称)が出来て道路で結ばれ、鎌倉市役所や商業施設、スポーツ公園などに生まれ変わるそう。泣塔は、そのまま残るそうです。移設したら祟りがあるかも?

 

【洲崎合戦 (洲崎古戦場)】

元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの際、十六代執権赤橋守時が迎え撃った激戦地。足利高氏の裏切り、高氏に嫁いでいた妹と甥の千寿王丸の鎌倉脱出で、守時は謀叛人の身内と見られることになり、決死の覚悟で先鋒隊として出陣。一昼夜に60回以上もの激戦を繰り広げたものの敗れ、鎌倉に撤退することも許されず自刃しました。享年39。鎌倉幕府を憂い、高氏と共に内部から幕府を立て直したかったはず。さぞ無念だったことでしょう。

 

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天慶年間(938~947)の創建とされる上町天満宮、イボ取り地蔵が有名な泉光院(真言宗大覚寺派)をすぎ、バス通りに出て柏尾川沿いを江の島方面に歩き、神鋼橋を渡ると藤沢市に入ります。

 

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兜松

神戸製鋼所の工場のフェンス沿いに歩いていくと、鍵のかかっている小さな扉の奥に兜松の案内板が見えます。フェンス越しにのぞいてきました。前もって申し出れば見学もできるようです。兜松は、後三年の役に初陣として参戦した鎌倉権五郎景正が戦勝のお礼参りの記念に岩山の松の根元に兜を埋めたのが由来となっています。

 

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フェンス沿いに歩いて、鎌倉古道の案内柱が見えたら、細い坂道を上ると鎌倉古道が少しだけ残っています。

 

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宮前御霊神社

古道の途中にある案内板の先の分岐を上っていくと御霊神社の裏参道となります。村岡五郎平良文が勧請したと伝えられています。御霊神社の上に続く山は旗揚山と呼ばれ、源頼義前九年の役に出陣する際に、源頼家後三年の役に出陣する際に、源氏の白旗を掲げたと伝えられています。

 

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古道に戻ります。古道を下ると工場の脇に出ます。案内は奥にしかないから村岡側から来たら入口がわからないかもしれないですね。東海道線沿いの道を大船方面に歩いて地下道をくぐり線路を渡ります。新駅ができるのは、この辺り。だいぶ風景は変わるだろうな。

 

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村岡城址公園

東海道線をくぐったら、湘南ヘルスイノベーションパークiPark(旧武田薬品工業湘南研究所)沿いに歩いて村岡城址公園へ向かいます。公園につづく坂道はかつては海だったようで、どこを掘っても貝殻が出てくることから「貝殻坂」といわれています。村岡城は、坂東八平氏の祖として知られる平良文の居城と伝わっています。また元弘三年の鎌倉攻めの際には新田義貞が陣を置いたといわれています。ここでちょっと一休み。緊急事態宣言中なので公園飯です。トイレはありません。

 

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ふるさとマップがありました。この辺りは見どころが多そうですね。

 

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右手に日枝神社が見えてきたら、左に曲がります。右に進むと二伝寺があります。今回は寄りませんでしたが、二伝寺の創立は永正二年(1505) 開基は初代玉縄城北条氏時と伝えられ、玉縄城の砦がありました。境内には平良文と子の忠光・忠通の墓と伝えられる3つの塚があるそうです。そのまままっすぐ行くと玉縄城へと続きます。

 

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慈眼寺

道なりに進むと渡内の交差点にでます。その先に突然城壁みたいな白い壁。第三代玉縄城北条綱成を開基とし、天文年間(1532~1555)頃の創建と伝わる慈眼寺です。下から眺めるだけで先を進みます。

 

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柄澤神社

消防署を過ぎ、クリエイトの角を右に曲がります。しばらく歩くと柄澤神社があります。元々は第六天社で創建年代は不詳ですが、建久四年(1193)源頼朝が参拝し、鎌倉武士の崇敬が極めて篤かったそうです。神社の前には多数の庚申塔などが祀られています。住宅地の真ん中にあるので、開発の際に出たものでしょうか。神社の反対側にある宮ノ下公園にはきれいなトイレがあります。柄澤神社の先で左、右と曲がりながら道なりに下り小さな川を渡り、坂を上っていきます。

 

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旧モーガン邸

近くにモーガンが住んでいた屋敷跡があるというので門の前まで行ってみました。残念ながら邸宅は焼失していますが、月に何回かお庭の開放をしているそうです。

 

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鉄砲宿

旧東海道に合流します。国道一号から分かれて遊行寺に下る箱根駅伝の道です。ここに宿場があったわけではありませんが、大蛇を撃った猟師が住み着いたことから鉄砲宿と呼ぶようになったといいます。今日の街道歩きはここで終了。で、ちょっと寄り道。信号を渡ってスズキの販売店の脇を曲がると俣野別邸庭園があります。

 

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俣野別邸庭園

昭和十四年(1939)に建てられた和洋折衷住宅です。国に重要文化財に指定されましたが、その後主要部分の焼失により指定解除。現在の建物は横浜市が資料をもとに保存していた部材も使用して再建されたものです。モーガン邸と違い、こちらは再建されているんですね。晴れていれば富士山もよく見えるし、この辺りは人気のある場所だったのでしょうか。

 

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約58,996m²もある高低差のある自然豊かな庭園ではゆったり過ごせます。秋の花々が咲き始めていました。ヤマホトトギス、フジバカマ、キバナコスモス、シロヤマブキの実もなっていました。「七重八重 花は咲けども~」の八重咲のヤマブキは、雄しべが花弁に変化して雌しべも退化したため実をつけませんが、一重のヤマブキやシロヤマブキは実をつけるんです。

 

 鎌倉街道上道を歩き始めました。「いざ鎌倉」で御家人たちが駆けつけるための道が、まさか討幕の道になろうとは。そう、この道は新田義貞が攻め上った道です。源氏が三代で終わり、内紛を繰り返しながら北条氏が実権を握った後も鎌倉幕府が続いていたのは、きっと武士のための幕府だったから。でも御内人が実権を握って北条氏までも傀儡となってしまったら、もう武士のための幕府ではなくなったのでしょう。長崎円喜の暗殺が成功していたら幕府はもう少し続いていたのでしょうか。一度腐敗したらやはり無理なんでしょうね、頭を変えるくらいじゃ。一度下野しないことには立て直しは難しいでしょう。今も同じです。