・城地種類: 山城
・築城 : 15世紀後半 南北朝時代
・築城者 : 朝倉孝景
・主な城主: 朝倉氏 桂田氏
(登城日:2025年6月14日)
一乗谷城は、戦国大名朝倉氏の館だけではなく城下町と4つの山城を含む縄張りを指します。朝倉氏は南北朝時代から一乗谷の一乗谷川沿いの天然の要害を拠点としました。2つの城戸に挟まれた約1.7kmの細長い城下町は、応仁の乱を逃れてきた公家や構造などにより発展し、華やかな京文化が開花しました。永禄十年(1567)には足利義昭が朝倉義景を頼り、上洛を希望しますが果たせず、織田信長を頼り美濃国に出国します。織田信長と対立し、天正元年(1573)長の侵攻により一乗谷は灰燼に帰し、朝倉氏は滅亡します。一乗谷はその後、農村なり一部の遺構は失われますが、大部分は地中に保存されました。昭和42年(1967)から発掘調査が開始され、特別史跡、特別名勝、重要文化財の三重の指定を受ける中世唯一の戦国城下町跡です。現在、武家屋敷や街並みが復原されています。


上城戸
一条川を渡り、当主屋敷地区に入ります。遠望になりますが、駐車場の奥、南側の谷幅が最も狭くなった場所に土塁と濠により構成された上城戸が見えます。長さ105m、幅20m、高さ5mあったと推定され巻ています。上城戸と下城戸に挟まれた南北約1.5km、東西約300mの細長い土地が朝倉氏の館と城下町の範囲となっています。


諏訪館跡庭園
4つの庭園の中で最も大きい庭園で、5代義景が妻の小少将のために造ったと伝えられています。


堀跡(横堀、竪堀)


中の御殿跡
義景の実母高徳院の館と伝えられています。
湯殿跡庭園
義景館跡を見下ろす高台にあり、一乗谷で最も古い庭園とされています。


朝倉館跡
5代義景が住み、政治などの領国統治の中心となった館です。四方を堀と土塁に囲まれ、敷地内からは16棟もの建物跡が発掘されています。
唐門(朝倉館西正門)
義景の菩提を弔うために建てられた松雲院の山門で、江戸時代中頃に建てられたものと推定されています。



堀 一乗谷川
町並模型








復原街並み
発掘調査により、京都を見習って計画的に町割りされた町並みが確認されています。大規模な武家屋敷と職人等の小規模な町屋から成る町並みが復原されています。



下城戸跡
入口に巨石を組み合わせ、中を見通せないよう矩折状につくられています。現在残されている土塁は、長さ約38m、高さ約4mです。
一乗谷というだけあって、山に囲まれた城下町です。ここに小京都があるなら、応仁の乱から逃れてきた人々にとっては、ひっそりと山に囲まれた別世界で、安心できる場所のように感じられたでしょうね。武人というよりは文化人的な景義、足利義昭が庇護を求めてこなければ朝倉氏の運命も違うものとなっていたかもしれません。
日本100名城 やっと50城目です。まだまだ先は長いなぁ