☆データ☆ (日本100名城ガイドブックより)
・城地種類 平城
・築城 永禄3年(1560)頃 築城者 武田信玄
酒井氏 真田氏
(登城日: 2018年08月16日)
松代城
千曲川と犀川が合流する肥沃な土地であり、また交通・軍事上の要地であった松代に、武田信玄が山本勘助に命じて築城させました。築城当初は海津城と呼ばれ、川中島の戦いの舞台となった場所です。信玄の死後、織田氏や上杉氏の家臣など城主が入れ替わりますが、元和8年(1622) 真田信之が松代藩真田十万石の城主となり、真田氏三代幸道の時に松代城と名が改められました。
千曲川と犀川が合流する肥沃な土地であり、また交通・軍事上の要地であった松代に、武田信玄が山本勘助に命じて築城させました。築城当初は海津城と呼ばれ、川中島の戦いの舞台となった場所です。信玄の死後、織田氏や上杉氏の家臣など城主が入れ替わりますが、元和8年(1622) 真田信之が松代藩真田十万石の城主となり、真田氏三代幸道の時に松代城と名が改められました。
太鼓門前橋 橋詰門 太鼓門
本丸跡
北不明門
戌亥隅櫓台
川中島の古戦場を横目に見ながら長野駅からバスで松代にやって来ました。古戦場の辺りには武田・上杉の旗も見えましたが、松代に入るとあちこちに六文銭があふれています。ボランティアの方とお話をしていると、今でも真田松代藩は続いているような感じがしてきます。今は横浜に住んでいる真田家当主も、お祭りには行列に参加をしていて、その様子をまるで参勤交代から戻ってくるお殿様のように話してくれました。愛されていますね~。そして真田宝物館では、松代藩の戊辰戦争についての展示(~9/24)も面白かったです。海防内懸りとして品川台場や横浜で行われたペリーとの応接場の警備にあたった際の資料や佐久間象山の展示などとても興味深いものでした。佐久間象山は松代藩士だったんですね。個性的な風体と京都での壮絶な暗殺が強烈だけど松代藩士ということは知りませんでした。地元の方は「しょうざん」ではなく「ぞうざん」というのですね。それも初めて聞きました。 真田邸をはじめ家臣の屋敷がたくさん残っていて、素敵な城下町でした。百名城スタンプは真田邸にあります。
戌亥隅櫓からの眺め(北)
戌亥隅櫓からの眺め(西)
戌亥隅櫓からの眺め(南)
戌亥隅櫓からの眺め(東)
埋門
二の丸土塁
東不明門 東不明門前橋
二の丸
旧樋口家住宅
藩の目付役などを務め、禄高は230石でした。
藩の目付役などを務め、禄高は230石でした。
旧横田家住宅
郡奉行などを務め、禄高は150石でした。「富岡日記」を書いた和田英の実家です。
郡奉行などを務め、禄高は150石でした。「富岡日記」を書いた和田英の実家です。
川中島の古戦場を横目に見ながら長野駅からバスで松代にやって来ました。古戦場の辺りには武田・上杉の旗も見えましたが、松代に入るとあちこちに六文銭があふれています。ボランティアの方とお話をしていると、今でも真田松代藩は続いているような感じがしてきます。今は横浜に住んでいる真田家当主も、お祭りには行列に参加をしていて、その様子をまるで参勤交代から戻ってくるお殿様のように話してくれました。愛されていますね~。そして真田宝物館では、松代藩の戊辰戦争についての展示(~9/24)も面白かったです。海防内懸りとして品川台場や横浜で行われたペリーとの応接場の警備にあたった際の資料や佐久間象山の展示などとても興味深いものでした。佐久間象山は松代藩士だったんですね。個性的な風体と京都での壮絶な暗殺が強烈だけど松代藩士ということは知りませんでした。地元の方は「しょうざん」ではなく「ぞうざん」というのですね。それも初めて聞きました。 真田邸をはじめ家臣の屋敷がたくさん残っていて、素敵な城下町でした。百名城スタンプは真田邸にあります。