源智の井戸
市内名水のひとつで、城下町が形成される以前から飲用水として使用されていました。所有者は小笠原氏の家臣川辺与左衛門現智でその名をとって「源智の井戸」と呼ばれるようになったと伝えられています。この井戸の周辺は、女鳥羽川と簿川の複合扇状地で市内でも有数の湧水地帯です。(案内板より)
市内名水のひとつで、城下町が形成される以前から飲用水として使用されていました。所有者は小笠原氏の家臣川辺与左衛門現智でその名をとって「源智の井戸」と呼ばれるようになったと伝えられています。この井戸の周辺は、女鳥羽川と簿川の複合扇状地で市内でも有数の湧水地帯です。(案内板より)
熱帯と化した関東よりも涼しい松本で湧水めぐり。 のはずでしたが、この日の最高気温33度。蒸し暑いです! 冷たい湧水はまさに命の水。
松本駅(観光案内所) → ①深志神社 → ②源池の水源井戸 → ③源智の井戸 → ④伊織霊水 → ⑤女鳥羽の泉 → ⑥北門大井戸 → ⑦北馬場柳の井戸 → ⑧松本城 → ⑨なわて通り → ⑩中町通り → 松本駅 約7.5km
深志の湧水
松本駅お城口の広場改修に合わせて掘られた井戸です。まずは一口めいただきます。
松本駅お城口の広場改修に合わせて掘られた井戸です。まずは一口めいただきます。
緑橋
元和元年(1615) 松本城主小笠原秀政が、長男忠脩・次男忠政(忠真)を伴い大阪の陣に出陣した際、若干18歳の忠政との別れを惜しんだ乳母が長沢川に架かる橋で袖にすがって離さなかったため、忠政が陣羽織の袖を切って発ったと伝えられています。以降「袖留橋」と呼ばれていましたが、明治11年に付替えのため取り壊された大手門の石材を利用して石橋となり「緑橋」と改名されました。塞がれていますが、この下に長沢川は流れています。尚、大阪の陣に出陣した小笠原忠政は無事戻りました。乳母と会えたのでしょう。とはいえ秀政と忠脩が戦死、次男忠政は奮戦を認められ播磨明石十万国へ転封となりました。
元和元年(1615) 松本城主小笠原秀政が、長男忠脩・次男忠政(忠真)を伴い大阪の陣に出陣した際、若干18歳の忠政との別れを惜しんだ乳母が長沢川に架かる橋で袖にすがって離さなかったため、忠政が陣羽織の袖を切って発ったと伝えられています。以降「袖留橋」と呼ばれていましたが、明治11年に付替えのため取り壊された大手門の石材を利用して石橋となり「緑橋」と改名されました。塞がれていますが、この下に長沢川は流れています。尚、大阪の陣に出陣した小笠原忠政は無事戻りました。乳母と会えたのでしょう。とはいえ秀政と忠脩が戦死、次男忠政は奮戦を認められ播磨明石十万国へ転封となりました。
倉科家跡
江戸時代の大名主です。明治維新後は、松本郵便役所本町5丁目取締役を務め、跡地には郵便局発祥の地の記念碑が建てられています。
江戸時代の大名主です。明治維新後は、松本郵便役所本町5丁目取締役を務め、跡地には郵便局発祥の地の記念碑が建てられています。
①深志神社
武の神である諏訪明神への信仰に始まり、のち城下町の形成とともに地域の守り神として展開し、特に天満宮は学問の神として崇敬され、人々から「深志(深き志し)の天神さま」と敬いと親しみをこめて称され、篤い信頼と祈り・願いが寄せられてきました。(深志神社HPより)
武の神である諏訪明神への信仰に始まり、のち城下町の形成とともに地域の守り神として展開し、特に天満宮は学問の神として崇敬され、人々から「深志(深き志し)の天神さま」と敬いと親しみをこめて称され、篤い信頼と祈り・願いが寄せられてきました。(深志神社HPより)
②源池の水源井戸
松本市水道局の水源の一つで、江戸時代から現在まで飲用水として利用されています。
松本市水道局の水源の一つで、江戸時代から現在まで飲用水として利用されています。
③源智の井戸
「当国第一の名水」と称賛されている井戸で、歴代城主は制札を立て保護してきました。明治天皇松本巡幸の際には御膳水として用いられました。
「当国第一の名水」と称賛されている井戸で、歴代城主は制札を立て保護してきました。明治天皇松本巡幸の際には御膳水として用いられました。
源智のそば
源智の井戸のすぐ脇にあるお蕎麦屋さんでお昼。使っているお水はもちろん源智の井戸。美味しいえごまそばをいただきました。
源智の井戸のすぐ脇にあるお蕎麦屋さんでお昼。使っているお水はもちろん源智の井戸。美味しいえごまそばをいただきました。
民家の門の上でひと休みしているウサギさんが可愛くてパチリ
中町通り
土蔵の立ち並ぶ蔵の町を抜けて次の湧水へ。素敵な街なのに車がたくさん。歩行者天国になるといいのになぁ。
土蔵の立ち並ぶ蔵の町を抜けて次の湧水へ。素敵な街なのに車がたくさん。歩行者天国になるといいのになぁ。
⑤女鳥羽の泉
現在残る市街地唯一の造り酒屋・善哉酒造の湧水です。敷地内にある井戸水を使い日本酒をつくっています。店内には団体さんがいてのぞき損ねてしまいました。ちょっと試飲してみたかったなぁ。
現在残る市街地唯一の造り酒屋・善哉酒造の湧水です。敷地内にある井戸水を使い日本酒をつくっています。店内には団体さんがいてのぞき損ねてしまいました。ちょっと試飲してみたかったなぁ。
⑥北門大井戸
旧大柳町の北端の総堀を埋め立てる際、掘られました。北門や馬出しがあった場所です。
旧大柳町の北端の総堀を埋め立てる際、掘られました。北門や馬出しがあった場所です。
⑦北馬場柳の井戸
こちらも総堀が埋め立てられた際に造られた井戸です。江戸時代の城下町絵図にもほぼ同じ位置に井戸の印がつけられています。
こちらも総堀が埋め立てられた際に造られた井戸です。江戸時代の城下町絵図にもほぼ同じ位置に井戸の印がつけられています。
松本市立博物館
「城下町松本のにぎわい(7/28-9/30)」
「城下町松本のにぎわい(7/28-9/30)」
大名町大手門井戸
松本城の表門があった場所です。
松本城の表門があった場所です。
若がえりの水
⑨なわて通り
女鳥羽川の土手から始まった通りで、縄のように長い土手から「縄手」と呼ばれるようになりました。
女鳥羽川の土手から始まった通りで、縄のように長い土手から「縄手」と呼ばれるようになりました。
⑩中町通り
中町通りにもどってきました。この通りには素敵な蔵がたくさん。黒い蔵と白い蔵。何となく建っているところが分かれてる? これってもしかしてお城と一緒だったりする・・わけでもないか。
中町通りにもどってきました。この通りには素敵な蔵がたくさん。黒い蔵と白い蔵。何となく建っているところが分かれてる? これってもしかしてお城と一緒だったりする・・わけでもないか。
牛つなぎ石
というものの、牛をつなぐものではありませんでした。城下町整備の際に移された道祖神で、江戸時代初期この辻で「塩市」が始まりました。江戸後期には、上杉謙信が武田信玄に塩を送った話が伝わり、塩市の始まりだといわれるようになりました。そしていつのまにか道祖神は塩を運んだ牛をつないだ石になりました。
というものの、牛をつなぐものではありませんでした。城下町整備の際に移された道祖神で、江戸時代初期この辻で「塩市」が始まりました。江戸後期には、上杉謙信が武田信玄に塩を送った話が伝わり、塩市の始まりだといわれるようになりました。そしていつのまにか道祖神は塩を運んだ牛をつないだ石になりました。
松本の七夕
あちこちで見かけた紙や布で作られたお人形。七夕のお人形でした。江戸時代から8月7日の夜に、お人形を飾って七夕を祝う風習があるそうです。七夕の日はどんなにたくさん飾られてるんだろう。
あちこちで見かけた紙や布で作られたお人形。七夕のお人形でした。江戸時代から8月7日の夜に、お人形を飾って七夕を祝う風習があるそうです。七夕の日はどんなにたくさん飾られてるんだろう。
マンホール
絵柄になっている「松本手まり」江戸時代 松本藩の士族の子女を中心に身近な玩具として手作りされたのが始まりです。
絵柄になっている「松本手まり」江戸時代 松本藩の士族の子女を中心に身近な玩具として手作りされたのが始まりです。
松本には素敵な建物がいっぱいです。
松本に来たのは4回目。こんなたくさんの湧水があるのは知りませんでした。「定期的に検査をしています。一部を除き飲用可能ですが、手を加えていない生水なので、胃腸の弱い方はご注意ください」との案内もありましたが、とりあえず全部飲んでみました。お腹の調子は大丈夫でした。地元の方も水を汲みに来ていたりして生活の一部になっています。うらやましい限りです。個人的な一番は「伊織の井戸」でした。
久しぶりのブログアップです。さぼっている間に梅雨入りにあっという間の梅雨明け。6月末の梅雨明けからは30度越えの昼間に熱帯夜の毎日。雨が降ったと思えば豪雨か台風って・・・どうなの? なんて書いている間にも2つの台風が日本列島を横断。異常気象が日常になりつつある毎日にすっかり夏バテです。