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【続・日本100名城 その4】  122  大多喜城

122 大多喜城 (千葉県夷隅郡)  別名:小田喜城

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☆データ☆   (続日本100名城ガイドブックより)
  ・城地種類 平山城
  ・築城      16世紀前半  築城者 真里谷(武田)信清
  ・主要城主 本多氏 松平氏
 (登城日: 2018年8月26日)

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大多喜城
 室町時代末期に真理谷(武田)信清が築城したといわれて、天文期(1532~1555)に安房の里見氏の重臣であった正木氏が入り上総正木宗家の居城として発展します。豊臣秀吉による小田原平定後、徳川家康の家臣本多忠勝が入城し、天守を持つ城に改修し城下町を建設しました。本多氏三代のあと阿部、青山、稲垣氏へ引き継がれ、元禄16年(1703) 松平(大河内)正久が城主となり廃藩置県まで松平氏が治めました。

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大手門

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藥医門
二の丸御殿の裏門と伝えられています。明治の廃城で城下の民家に払い下げられましが、学校の門として大多喜高校玄関東側に移されました。大多喜高校の立つ場所は、二の丸でした。大多喜城で唯一残る建物です。

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大井戸
本多忠勝の掘ったものと伝えられ、水が涸れたことがないといわれています。深さ20m、周囲17m

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二の丸から天守

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天守
昭和50年(1975)、本丸跡に天守を模した千葉県立中央博物館大多喜城分館が建てられました。本当に天守があったかどうか、色々な意見があるようです。

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高校へ下りるあたりには土塁が残っています。
 
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こちらは駐車場から二の丸の途中にある空堀


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大多喜水道跡
駐車場から本丸の向かう途中にある千葉県最古の水道施設。江戸時代から計画され明治3年(1870)に完成しました。

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メキシコ通り
御禁止川(写真左手)から天守(写真右手)に続く崖はとても急峻です。それにしてもなんで「メキシコ」?・・調べてみると、1609年、本多忠朝が城主の時、房総半島御宿沖で遭難したメキシコ人(ドン・ロドリコ一向)を住民が助け、幕府から指示があるまでもてなし、船を再建して故郷に帰したことが縁でメキシコと交流が続いているそうです。

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御禁止川(おとめがわ)
大多喜城本丸下を流れる川で、江戸時代城主が魚を禁止したことから名が付きました。参勤交代の折にはこの川で獲れたムラサキ鯉を献上したそうです。

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城下町
本多氏の時代から整備が始まって城下町には、素敵な建物がたくさん残っています。
左上から 大屋 豊乃鶴酒造 釜屋 渡辺家住宅

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いすみ鉄道
最寄りの大多喜駅まで、いすみ鉄道に乗ってやってきました。国鉄時代のレトロな列車も沢山走っています。私は違いがよくわからないけど鉄道好きにはたまらないんだろうなぁ。
いすみ鉄道の始まりは、大正元年(1912) 大原・大多喜間に開通した人車軌道。その後昭和5年(1930) 国鉄木原線に引き継がれたものの、昭和63年(1988)木原線は廃止され、今は第三セクター線として運転されています。いすみ鉄道のキャッチコピー「ここには“なにもない”があります」これ、いいですね。途中の池端にはムーミンが隠れ住んでいます。

 道がよくわかっていなかったので、大多喜駅から大多喜高校で薬医門と井戸をみて、メキシコ通りに戻り駐車場まで登っていきましたが、高校から直接天守まで登れます。行ったり来たりしなくてもよかったのでした。天守は、天守形の博物館ですが、山の上にお城があるのは単純にいいなぁと思います。大多喜町としては、本多三代を大河にと頑張っているようですが、難しいだろうなぁ。大多喜はメインにはならないだろうし。でも十万石の城下町はこじんまりとして、お散歩するのにちょうどいい大きさです。お土産に、いすみ鉄道最中もいいけど、十万石最中はたっぷりあんこの食べ応え十分でおすすめです。続百名城スタンプは千葉県立中央博物館大多喜城分館2Fにあります。