マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【鎌倉街道 上道】3日目 南町田から町田  2021.10.10(日)

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金森杉山神社

金森杉山神社

「天和三年(1683)12月 旗本高木伊勢守の一族が下屋敷内に奉斎し、朝夕武運長久を祈願された。」と伝わっています。ご祭神は 日本武尊。現在の拝殿は昭和11年(1936)に新建されたものです。

 

南町田(南町田グランベリーパーク駅)→ 町田 小田急/JR 町田駅)(約5km)

 

 降水確率20%であまり降らず晴れ間もあるという天気予報だったのですが・・・雨に降られて、永山までの予定が町田までになりました。

 

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南町田グランベリーパーク駅までやってくると、パラパラと雨が降っていました。とりあえず様子を見ながら、スヌーピーに見送られて3日目スタートです。

 

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鶴舞公園抜け鶴間パークウォークを北に進みます。16号線を歩道橋で渡ります。あっという間に本降りの雨になってしまいました。ファミマの脇から旧道に入ります。

 

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熊野神社

静かできれいな神社です。創建年代は不明ですが、平安末期以降に勧請されたものといわれています。享保11年(1726)に本殿を造立の記録が残っていて、現在の社殿は昭和46年(1971)に再建されたものです。

 

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お地蔵さん

参考にしているガイドブックでは熊野神社の先の信号で都道を横切って旧道を進み、また都道に合流するようですが、特に見どころもなさそうなのでそのまま旧道を進んじゃいます。常楽寺を過ぎたところにかわいらしいお地蔵さんがいらっしゃいました。

 

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天満宮(金森天神)

都道右手の階段上に天満宮が祀られています。由来には、昭和62年に修復造営が行われたことが書いてありますが、いつごろからあるのかはよくわかりませんでした。神社の入口には、「江戸時代にはこの付近は小名名『時宗久保』と呼ばれていた」と案内柱が建っていました。これも由来はわかりませんでした。

 

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親水広場

都営金森アパートの公園の奥から境川の親水広場越しに三重塔が見えます。境川の向こう側にある泉龍寺の三重塔です。川向こうは神奈川県相模原市。そういえば、暴れ川だった境川の河川改修で生じた町田と相模原の飛び地が少しずつ解消されてるって記事を読んだことがある。都県が変わるのはいろいろ不便だよねぇ。この先都道を歩いていくと道が二手に分かれます。どちらも都道56号線。旧道の細い道をまっすぐ進みます。左手に金森杉山神社が見えてきます。

 

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金森杉山神社

杉山神社。この神社もサバ神社と同じくらい不思議な神社です。鶴見川流域を中心に72社が知られています。ご祭神はほとんど、日本武尊五十猛命イソタケルノミコト)。五十猛命素戔嗚尊の子で、全国に植林をした「木の神様」。紀伊忌部氏の神様です。Wikiには「茅ケ崎中央の杉山神社に伝わる由緒では「天武天皇白鳳3年、安房神社神主の忌部勝麻呂(紀州忌部氏)によって武蔵国の杉山の岡に高御座巣日太命(高御産日命)・天日和志命(天日鷲命)・由布津主命(阿八別彦命)の3柱が祀られ、同氏の麻穀栽培地開墾の拡大とともに神社も広まった」とされている。」と書かれています。また、図書館で見つけた『流域文化考 鶴見川 境川』(小寺篤著)という本には、大伴氏の領導の下に行われた忌部氏の東国進出についてや、日本武尊が祀られた理由(逆臣足利尊氏の武運祈願を拒否したことによる領地没収のため本来の祖神信仰から日本武尊信仰となったのではないか)など杉山神社に関する興味深い記述が載っていました。ほかにも、先日訪れたサバ神社やロウバ地名についても書いてありました。限られた地域にしかない名前を調べるのも面白いですね。

 

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杉山神社参道には多数の石塔・石仏群。日露戦争戦勝記念艦砲模擬弾まで並んでいました。分けて撮ったからダブっていますが、左から、光専神(天文元年)・道祖神(文化七年)・日待塔(貞享四年)・庚申塔(天明五年)・庚申塔(元禄十三年)・地神塔(文化七庚年)・庚申塔(建立年不詳)・地蔵菩薩(大正四年)・鳥居跡記念碑と鳥居台座(大正六年設置)・皇太子殿下御降誕記念碑(昭和8年12月23日御降誕)・日露戦争戦勝記念艦砲模擬弾(大正前期)。光専神はじめて聞きました。説明によると“光専神は「香仙茶菩薩」の当て字と考えられ麦こがしを貢物としたことから「こうせん婆さん」と呼ばれ、六月一日の縁日には竹筒にお茶を入れ咳の神様としてお参りしたとの口承があります。咳の神「姥石」から姥、婆さんと親しまれてきたと考えられています。”・・・・

 

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町田天満宮

雨がやんできました。都道の先に新道が見えてきたところで都道とお別れ。左手の細い道に入ります。くねくねと曲がる道を進むと町田天満宮に到着。参道はどこだろうと思いながら駐車場入り口から入りました。参道は跨線橋に繋がっていたんですね。ちょっとびっくりです。少し早い感じですが、七五三参りの親子がたくさんきていました。町田天満宮は、本町田菅原神社、南大谷天神社とともに町田三天神と呼ばれています。この地域を知行していた北条氏輝が、天正年中の1580年前後、分村に先駆けて元々古い祠のあったこの地に菅原道真公をお祀りしたといわれています。現在の社殿は昭和42年(1967)に造営されたものです。

 

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境内社

明治27年(1894)に再建された社殿は境内社となっています。

 

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ぽっぽ町田

横浜線跨線橋で渡り中央図書館前の交差点でひとつ奥の通りを進みます。まちの駅「ぽっぽ町田」に寄り道。広場では蚤の市をしていました。案内所の前にはポケモンマンホール。近くにある芹ヶ谷公園内に設置されているそうです。町田の特産品はもちろん、北海道と沖縄のショプもありました。町田のお土産は北海道産になってしまいました。

 

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JR町田駅に続く原町田大通りに突き当たります。鎌倉街道は交番の左、鶴川街道を進みます。右に進むと小田急町田駅です。

 

 永山まで歩く予定が、予報よりも雨が降ったので町田で終了となりました。また降り出すかもしれないし、雨上がりの山道を歩くのは気が進まないもの。

 それにして町田を通る度に思うのは、町田はなんで東京都なのかってこと。JRも小田急も両側の駅は神奈川県。JRの南口駅前にあるヨドバシの中には都県境もあるんです。だいぶ解消されているようですが、境川の飛び地はまだ残っています。で、いい機会なのでちょっと調べてみました。

 明治に行われた廃藩置県以降しばらくは町田市を含む三多摩地域(北多摩・西多摩・南多摩)はすべて神奈川県だったのです。ところが明治二十六年(1893)に三多摩地域がすべて東京府(現在の東京都)に編入されました。東京府の水源地である多摩地区を東京府が管理するためです。北・西多摩地区には水源があります。でも多摩川の南側にある南多摩まで編入する必要はなさそう。なのになぜかというと、当時の内海忠勝神奈川県知事が、三多摩地区はつながりが深いため南多摩も東京へ割譲したいと願い出た、というではありませんか。西多摩・南多摩では猛烈な反対運動が起こりましたが、わずか10日の審議で移管法案は成立してしまいます。このころの多摩地域含む神奈川県は自由民権運動が活発で自由党の力が強く、自由党に否定的な内海知事の罷免を要求。多摩地区、特に自由党の牙城とまで呼ばれた町田を、自由党の勢力が弱かった東京府へ移管して分断することが南多摩を含めた理由だったのです。裏に政治的な意図があったんですね。多摩川で分けるのが自然な感じがするもの。町田はやっぱり神奈川県です( ´∀` )