マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

関ヶ原 陣跡制覇 ウォーキング 2019    2019.9.29(日)

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笹尾山

関ヶ原合戦
慶長5年(1600) 9月15日 徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍による天下分け目の合戦が行われました。決戦の火ぶたが切られてわずか6時間余、東軍の勝利が決まりました。

 

【制覇コース】スタート:ふれあい広場 → 1 細川忠興陣跡 → 2 丸山/黒田長政竹中重門陣跡 → 3 陣場野/徳川家康最後陣跡 → 4 田中吉政陣跡 → 5 東首塚 → 6 松平忠吉井伊直政陣跡 → 7 本多忠勝陣跡 → 8 藤堂高虎京極高知陣跡 → 9 福島正則陣跡 → 10 脇坂安治陣跡 → 11 松尾山/小早川秀秋陣跡 → 12 常盤御前の墓 → 13 大谷吉継陣跡(眺望地)→ 14 大谷吉継の墓 → 15 平塚為広の碑 → 16 宇喜多秀家陣跡 → 17 小西行長陣跡 → 18 開戦地 → 19 島津義弘陣跡 → 20 決戦地 → 21 笹尾山/石田三成陣跡 → ゴール:笹尾山駐車場  約16km


 関ヶ原の陣跡を歩くイベントがあったので参加してきました。欲張って制覇コースを選んで歩いてきました。雨予報でしたが、当日は晴れ。それも9月も終わるというのに30℃以上の真夏日。とっても暑かったけど戦死者を悼むように咲く彼岸花を見ながら、関ヶ原を足で感じてきました。

 

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始 ふれあい広場
受付を済ませ待っていると、島左近殿が直々にイベント案内。そしてスタートの合図は、大砲です。

 

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1  細川忠興陣跡(東軍)
関ヶ原と忠興で一番に浮かぶのは、妻ガラシャのこと。明智光秀の三女に生まれ、最後は人質に取られることを拒み自害したとても芯の強い女性です。忠興は神経質で気の短い人のイメージかな。「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」ガラシャの辞世の句です。

 

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彼岸花の咲く田んぼの向こうには、何やら幟が見えてきました。狼煙も上がっているぞ。

 

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2  丸山/黒田長政竹中重門陣跡(東軍)
田んぼの向こうに見えたのは、丸山でした。ここには、黒田長政竹中重門が陣を張っていました。関ヶ原がよく見え、狼煙を上げるには絶好の場所です。

 

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3  陣場野/徳川家康最後陣跡(東軍)
スタートのふれあい広場の脇を通り、東軍・徳川家康の最後の陣跡にやってきました。最初は壬申の乱の故事にちなみ、中山道沿いの桃配山に陣を置いていましたが、一進一退の戦いの中、西軍の陣地から直線で500~600mほどの場所に陣を移します。

 

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4  田中吉政陣跡(東軍)
家康最後陣跡の近くにあります。聞いたことのない名前だと思っていたのですが、実はどこかで目にしていたかも。豊臣秀次近江八幡時代の家老でした。そして小田原合戦後は岡崎を任され、あの「岡崎二十七曲がり」を整備したという人物です。秀吉逝去後は、徳川家康に近づき関ヶ原では東軍として、黒田長政藤堂高虎等と一緒に戦っています。

 

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5  東首塚
地元の子供たちがガイドをしてくれました。ここは戦いの後、首実検に供されたり、戦場に残された夥しい戦死者を供養するため、家康の命により竹中重門が造営した東西二か所の首塚の一つです。現在に至るまで丁寧に供養されています。

 

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6  松平忠吉井伊直政陣跡(東軍)
首塚のすぐ脇が陣跡です。東の先鋒に決まっていた福島隊の制止を振り切って、宇喜多隊に発砲。決戦の火ぶたを切ったのが、松平・井伊隊でした。一年後、関ヶ原で島津隊に受けた鉄砲の弾がもとで井伊直政は死に至ったといわれています。

  

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7  本多忠勝陣跡(東軍)
中山道を渡り、旧伊勢街道沿いの民家の間のちょっと奥まったところにある本陣跡。この街道を島津隊が走り去っていったのかぁ。さて、本多家本隊は嫡男忠政が率い徳川秀忠とともにいました。本多忠勝は、関ヶ原では井伊直政の代理として軍監の役目でした。神出鬼没で400名ほどの手勢にも関わらず上げた首級はなんと90余。やっぱりすごいです。

 

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8   藤堂高虎京極高知陣跡(東軍)
関ヶ原中学校の校庭内にあります。藤堂・京極隊は戦いが始まると不破関あたりまで兵を進め、大谷吉継率いる諸隊と戦いました。校門を出たところでかわいらしい女の子が応援してくれました。幼稚園くらいかな。うれしいなぁ

 

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9  福島正則陣跡(東軍)
福島正則が直々にねぎらってくれました。このかっこいい兜はもともと黒田長政のもの。仲直りのしるしにと交換したものです。関ヶ原では、いの一番に東軍に参加。石田三成憎しの感情でつっぱしったものの、まさか豊臣家滅亡につながっていくとは考えなかったのかも。家康は長生きしたからねぇ。ここで飲み物とバナナの差し入れをもらい、松尾山にむけエネルギー補給です。

 

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松尾山の登り口で小早川秀秋公にお会いしました。隣にいるのは・・・遠藤秀清。宇喜多直家・秀家に仕え、関ヶ原後、宇喜多家の改易により浪人となり備前で死去したそうです。日本初のスナイパーとか。なぜ宇喜多隊でなくここに居るのか謎です。さ・ら・に・関ヶ原には参戦しておりません。あら~

 

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松尾山に登ります。道はよく整備されています。40分くらいかかるかなぁ。最近体力の落ちているオバサンには結構きついです。

 

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10  松尾山/小早川秀秋陣跡(西軍/東軍)
標高293m 松尾山に登ってきました。ここからは関ヶ原が一望です。小早川秀秋は、どんな思いで戦いを見ていたんだろう。小早川隊はどうして松尾山に陣取ったのだろう。大垣城主の伊藤盛正が布陣していたのを小早川が追い出したわけで、裏にはやっぱり徳川がいたのかなぁ。小早川隊が松尾山にいなければ、石田三成大垣城から出ることもなかったし、夜を徹した関ヶ原への行軍で体力を消耗することもなかったはず。「人面獣心なり 三年の間に祟りをなさん」って大谷吉継の言葉通り亡くなってしまうとは・・なんだかんだ可哀そうな人生です。

 

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11  脇坂安治陣跡(西軍/東軍)
松尾山にふもとにある脇坂陣跡。西軍として小早川の裏切りに対処するために陣取っていたにも関わらず、小早川とともに寝返り大谷隊を攻撃しました。といっても、成り行きで西軍に陣を置いたけど、徳川と連絡を取っていて、最初から裏切る予定だったそうです。こんな輩ばかりじゃ西軍は負けるわ・・

 

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歩いたことのある道にでました。ここを戻ると不破の関。しばらく中山道を歩いていきます。なんだか懐かしいなぁ

 

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ここを上ると大谷陣地、と思いながら歩いていたっけ。でも陣跡にはここから上りません。

 

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12  常盤御前の墓
中山道でも寄り道した常盤御前のお墓。関ヶ原合戦とは関係ないけど、ここでお茶やお菓子を配っていました。ちょっと一休み。

 

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中山道を黒血川まで戻り、東海道線の橋梁をくぐります。道標に従って右手に曲がり山道を登っていきます。立派な堀切になっています。

 

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13  大谷吉継陣跡/眺望地(西軍)
陣跡碑を先に進むと松尾山眺望地に出ます。大谷吉継は、ここから小早川の動向を探っていたのです。

 

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14 大谷吉継の墓
陣跡碑から少し下ったところにある義の人 大谷吉継の墓。石田三成との固い友情物語は有名な話。吉継は挙兵を諫めていたけど、聞き入れなかった三成のために軍師として戦いました。この時の吉継はもう自力では歩けないほどだったとか。もし健康であったらこの戦は止めることができたんだろうか。そして切腹後の藤堂高刑とのエピソードも泣ける。吉継の首を差し出す大手柄よりも武士の約束を守ったというもの。三成にも吉継のような人望があれば・・・・

 

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吉継陣跡から下ってきたこの辺りでは、首実検が行われたあとの慰労を行ったとか。

 

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15 平塚為広の碑(西軍)
垂井城主として関ヶ原に参戦。藤堂・京極隊を相手に善戦していましたが、小早川、脇坂らの寝返りにより支えきれず討ち死にしました。辞世の句は「名のために 捨つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ 浮世と思へば」為広も義に散った一人です。大谷吉継が返歌を送っています。届いたかどうかはわかりません。「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事もありとも」 あの世で酒を酌み交わしているのでしょうか。

 

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16 宇喜多秀家陣跡(西軍)
西軍で一番の兵力1万7千を率い南天満山に陣取った秀家。まさかともに育った金吾(秀秋)が裏切るとは思いもしなかったと、刺し違える覚悟で松尾山を目指したものの、家臣に制され落ち延びました。薩摩まで逃れたものの徳川に捕らえられ八丈島に配流となります。明暦元年(1655) 84歳でなくなるまで八丈島で過ごしました。

 

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17 小西行長陣跡(西軍)
約6千の兵を率いて北天満山に布陣。開戦を告げる狼煙を上げました。小早川の寝返りにより総崩れとなり逃走したものの、熱心なキリシタンのため自害することができず捕縛され、三成、安国寺恵瓊とともに斬首されています。加藤清正とは折り合いが悪く、武闘派/文治派分裂の一因を作ったといわれています。

 

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18 開戦地
東軍の松平・井伊隊が宇喜多隊に発砲。関ヶ原合戦の火ぶたは切られました。その後、福島隊と宇喜多隊が激突。ちょうどこの正面辺りに福島隊がいたのです。

 

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19 島津義弘陣跡(西軍)
島津といえば「島津の退き口」 もともと島津は、徳川からの要請を受け伏見城に応援に駆け付けたものの追い返されてしまい、成り行きで西軍に付いたわけで積極的に戦わなかったようです。とはいえ開戦地からほど近い陣跡をみると、積極的に戦って福島隊を叩いていたら小早川も裏切らなかった・・かなぁ。小早川寝返り後の総崩れの中、背中を見せての退却じゃ何のために戦ったのかわかりません。敵中突破しかないよね。あわよくば家康も。島津あり!です。そしてやたら立派な陣跡碑。これは薩摩の人々が義弘をたたえてわざわざ建てたそうです。

 

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20 決戦地
決戦地一帯には、最後に残った石田隊や島津隊に押し寄せる東軍諸隊で埋め尽くされ、最も激しい戦いが行われた場所といわれています。

 

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21 笹尾山/石田三成陣跡(西軍)
標高198m 笹尾山の陣跡からは関ヶ原が一望できます。松尾山からは観客席的だけど、ここは司令部としてとてもいい場所。とはいえ、小早川の裏切りで壊滅していく自軍を見ていくことになるわけだから、辛いよねぇ。人望がなかったといわれる石田三成だけど、豊臣第一の気持ちは誰よりも強かったんだろうな。真面目で実直、だけど人付き合いが苦手で人望がないのが一番の欠点。吉継ほどの人望があれば、関ヶ原も変わったろうに。

 

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終 笹尾山駐車場
ゴールではいろいろなイベントが開かれていました。鉄砲隊や各地の武将隊が大活躍です。

 

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本日の戦利品

 

関ヶ原 歩いてきました! 中山道を歩いているときは、関ヶ原の陣跡が気になって仕方ありませんでした。だいぶ前まで、石田三成のイメージが悪くて好きじゃなかったのですが、いろいろなエピソードを知るたびに、だんだん好感度アップです。豊臣を思う気持ちはほんとに強かったと思う。真面目で実直。秀吉を立てるため、あえて憎まれ役を担ってきたというのもあると思うけど、きっとご機嫌を取るようなことは苦手だったんだろうな。もっとうまく立ち回れていれば、、家康の切り崩しによる豊臣家臣団の分断もなかったろうに。それもこれも秀頼が生まれてからの秀吉の失政が原因。秀次の排除や朝鮮出兵が内部分裂を促進して家康の介入を許したわけだから、秀吉自身で豊臣家を潰したといってもいいのかも。一致団結していれば、小早川の裏切りがなければ、吉川の裏切りがなければ、秀頼を引っ張りだせていれば・・・豊臣政権が続いていたかもしれない。もし・・・・・がいっぱい浮かんでくる関ヶ原でした。