マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【甲州道中 5日目】13.小仏宿 → 14.小原宿 → 15.与瀬宿 → 16.吉野宿  2019.04.28(日)

イメージ 1
小原宿本陣
後北条家臣の子孫でもある清水家は、寛永二年(1625)から代々問屋と庄屋も勤めていました。神奈川県下で唯一現存する本陣で、県の重要文化財となっています。

13.小仏宿(小仏バス停)・→ 5.7km → 14.小原宿 → 1.7km →15.与瀬宿→ 4.0km → 16.吉野宿→ 2km →(藤野駅) 約13.5km

平成最期の街道歩き。GW前半で一番のハイキング日和。最初の難所 小仏峠を無事に抜け安心していたら、本日一番の難所は貝沢橋でした・・・

イメージ 2
小仏バス停は増発便も出て大賑わいです。

イメージ 3
臨済宗南禅寺派小佛山 宝珠寺
カゴノキは東京都の天然記念物です。


イメージ 4
ヘアピン道を上っていきます。当時は直登だったとか!それはきついなぁ~。景信山への登山口を過ぎると、2017年に行われた高尾小仏植樹祭が行われた地があります。2500本もの広葉樹が植樹されたそう。きっと豊かな森になるね。駐車場の辺りに、江戸日本橋から十四番目の小仏一里塚があったようだけど、よくわかりませんでした。

イメージ 5
小仏東坂
舗装道路から土道へ入ります。最初の難所です。とはいえ、急坂のところもあるけど、よく整備されていて人も多いので安心して歩けます。

イメージ 6

イメージ 7
小仏峠
標高548m。武蔵国(東京都)と相模国(神奈川県)の境にあります。行基が峠に小さな仏像を安置したところから、小仏の地名になりました。この仏像がそうかな。明治天皇碑の方かな。そしてなぜか狸の置物も。峠からは都心の街並みがよく見えます。あの高いのはスカイツリーだよね!ズームで寄ってみた。城山方面に少し進むと明治天皇小休所跡碑や高尾山道標があります。甲州街道は相模湖方面の道標に従って進みます。東京を抜けるまでだいぶかかりました。いよいよ神奈川県です。

イメージ 8
小仏西坂
西坂は道が堀切のような場所がたくさん。何百年も人が歩いてきたから道がどんどん削られちゃったんでしょうかねぇ。晴れていれば歩きやすいけど、雨の日は歩きたくない道です。

イメージ 9
底沢
土道から舗装道路にはいります。ここはぐるっとまわって底沢バス停方面へ進みます。本来の甲州街道は失われていて迂回路になります。

イメージ 10
中央線と中央自動車道
高い高速道路をくぐります。

イメージ 11
分岐
甲州道中はここでぐるっと左に入ります。右に進むと美女谷。ここでも照手姫に出会いました。照手姫はここの生まれと伝えられています。

イメージ 12
小原宿一里塚 江戸日本橋から十五里目
甲州道中板橋」の標柱を過ぎて歩いていると、中央線の架道橋手前に案内板が見えてきます。小原の一里塚です。本来の甲州道中は、板橋の標注から中央自動車道の高架下あたりを通り小原宿本陣脇に通じていたそうです。一里塚も高速道の建設によりなくなってしまいました。この先底沢バス停を過ぎると20号線に合流します。

イメージ 13
小原の郷
史料館になっていますが、道の反対側で渡れなかったのでそのうち行くことにしましょう。手前の横断歩道で渡っておけばよかったな。

14.小原宿
「峰(小仏峠)の尾さきにて、くだりはてたるところの、すこしひらけたるところ」から尾原とも書き、地名の由来となっています。小原宿と与瀬宿は合宿で、小原宿は与瀬宿を越えて吉野宿まで、与瀬宿は小原宿を越えて小仏宿まで継ぎ立てる片継でした。甲州道中宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は183軒、うち本陣1、問屋1、旅籠3軒。宿内人口は890人(男439、女451)

イメージ 14
小原宿碑

イメージ 15
小原宿本陣
後北条家臣の子孫でもある清水家は、寛永二年(1625)から代々問屋と庄屋も勤めていました。神奈川県下で唯一現存する本陣で、県の重要文化財となっています。

イメージ 16
甲州道中小手沢」の道標のところでグランドに下りて横切り旧道に入ります。本陣のおじさんに教えてもらっていなかったら、ここを下りてもいいのかちょっと迷ったかも。右折して国道に出たら、信号で渡って正面の坂を上っていきます。

イメージ 17
坂を上っていくと富士山の頭がチラッとみえました。雪をかぶっているとわかりやすい。

イメージ 18
下り坂の途中に案内板 「甲州道中はこの階段を降り、えんどう坂を下り・・・・」 汚れていてよく読めないけど階段を降ります。

15.与瀬宿 
小原宿との合宿で、脇本陣はありませんでした。甲州道中宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は114軒、うち本陣1、問屋1、旅籠6軒。宿内人口は566人(男281、女285)

イメージ 19
与瀬宿案内
坂の途中で下宿の案内。坂を下って20号線に合流するところには、与瀬宿の案内柱

イメージ 20
相模湖駅
駅前でお昼ご飯。おまめのチラシが美味しそうで入ったけど、注文後私の料理が来るまで40分以上待った。おまけにパサパサで美味しくない・・・。他のお店にすればよかったなぁ。

イメージ 21
与瀬本陣跡
坂本本陣跡 明治天皇輿瀬御小休所跡碑  ここから旧道に入ります。

イメージ 22
高野山真言宗金峰山慈眼寺 与瀬神社
どちらも階段を上って中央自動車道を跨いでいきます。大変そう。で、頭だけ下げて先に進みました。

イメージ 23
中央自動車道を階段でくぐり旧道から20号線に下ります。カーブのところにあるラーメンセンター手前の駐車場わきから旧道に入ります。

イメージ 24
黄色いバケツを被った何にも書いてない柱のところから沢に下ります。字が消えたのかな。

イメージ 25
貝沢橋はありません・・
たぶんここに橋があったんじゃないかと思われる杭らしきものが残っていました。沢を渡ります。雨だと渡るの難しいだろうな。

イメージ 26
渡った先の段差を上るとちゃんと道が続いています。ハイキングコースの張り紙も残ったままだから何だか安心。歩いていくとお約束の倒木もありました。

イメージ 27
実は、貝沢橋があったところを見つけるまで、すごく迷ってしまったのでした・・・。行き過ぎてしまったのです。だってガイドブックにある貝沢橋道標も丸太橋も無いんだもの。明王峠への登山道をどんどん進んでいくと橋の残骸かと思うような丸太がたくさんあったり、貝沢と書かれた道標が打ち捨てられていたり。丸太橋がどんなのかわからず、沢を見たら丸太の一本橋らしきものが見えたので、沢に降りてみたら、沢の向こう側に道はなさそうだったりと、だいぶ時間をロス。写真のようなものを見たら行き過ぎです。降り口は結構手前にありました。コンクリートの橋も渡りません。

イメージ 28
与瀬の一里塚跡 江戸日本橋から十六里目
沢から登りきったところに一里塚跡。相模湖がよく見えます。富士山もまた頭を見せてくれました。

イメージ 29
甲州道中 横道
道標がたくさんあって、うれしいです!

イメージ 30
秋葉神社 石仏石塔

イメージ 31
甲州道中 子の入
この看板のところで左の細い坂に入り、中央自動車道を渡ります。

イメージ 32
椚戸(くぐ度) 甲州古道赤坂
江戸口を見逃してしまいました。観福寺が右手に見えるからおかしいなぁと思ったら案の定。桜野道標で合流したので、坂の下まで行って写真だけ撮って戻り、「矢部道標」から階段を降ります。諏訪口にはちゃんと着きました。

16.吉野宿 
桂川に由来して「桂の里」と呼ばれていました。甲州道中宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は104軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠3軒。宿内人口は527人(男247、女280)

イメージ 33
高札場跡

イメージ 34
旅館ふじや
国道に合流します。道の反対側には藤野町郷土資料館となっている旅館ふじや。

イメージ 35
吉野宿本陣跡
五層楼閣の大きな本陣でしたが、明治27年(1896)の大火で焼失してしまいました。

イメージ 36
吉野橋
沢井川に架かる橋。小猿橋跡。猿橋より少し規模が小さいけど同じ工法の橋が架かっていたそうです。橋を渡って少し歩いて左手の旧道に入ります。

イメージ 37
関野の一里塚 江戸日本橋から十七里目
津久井の名木「エノキ」が一里塚跡。旧道から20号に合流してしばらく歩くとガードレールの向こう側に立派なエノキが見えてきます。

イメージ 38
藤野駅を過ぎて旧道に続く階段を降りようとしたら通行止め。奥にある駐車場が崩れているようです。迂回していこうかとも思ったのですが、なんかいろいろ時間ロスもあって、初めての峠越えをした相方は疲れてしまったようで、今日は藤野駅から帰ることにしました。

 平成最期の街道歩き。平成の内に書こうと思っていたのですが、令和に入ってしまいました・・・。時代を跨いでる感じでいいか。令和は、戦争も災害もない平和な時代となりますように☆
 そういえば、小仏と小原本陣で出会ったウォーカーさんとランナーさん。大月まで行くと言ってたけど、どうしたかな? ウォーカーさんはこの日2日目で、GWの8日間で善光寺まで歩くって言ってたっけ。どこまで進んだかなぁ。ちょっと気になる。
 それにしても貝沢橋!!これは大きな誤算でした。歩かれる方はお気をつけてくださいませ。