マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【甲州道中 3日目】 9.府中宿 → 10.日野宿 → 11.八王子   2019.03.21(木・春分の日)

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日野本陣
都内で唯一残る本陣です。古くからの主屋は、嘉永二年(1849)の大火によって焼失してしまいました。現存する建物は、文久三年(1863)に上棟したものです。本陣には佐藤彦五郎が近藤周助に師事して開いた「佐藤道場」がありました。ここでは近藤勇土方歳三、沖田宗司等が稽古をしていました。

9.府中宿 →(9.3km)→10.日野宿 →(5.7km)→ 11.八王子宿   約15km

春分の日です。東京では早くも桜の開花宣言です。春ですね! 本日は南武線府中本町駅からスタート。大國魂神社に向かいます。

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武蔵国府跡
駅を下りて歩き出すとすぐ右手に国府の跡。ここにもあるんだと思いながら見学をしているとボランティアの方が声をかけてくれました。なんとVR体験ができるとのこと。しかも無料。早速手続きをして借りることにしました。これがなか々面白い。指定されたポイントでスコープを向けると、柱のある場所に建物が現れ、国司が動き出します。家康御殿もあり、家康公が鷹狩をしていました。

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大國魂神社
国府から府中街道沿いの鳥居をくぐり、旅の安全を祈願して鳥居を抜けて甲州街道に出発です。

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高札場
甲州道中、川越街道及び相州街道が交差する宿場の中心地で「札の辻」と呼ばれました。

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番場宿碑

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曹洞宗龍門山  高安寺
平将門と倒した藤原秀郷の館跡に足利尊氏が安国寺として再建しました。鎌倉入りを許されなかった源義経、弁慶一行が赦免祈願のため大般若経を写した際に清水を汲んだ「弁慶硯の井」があります。お彼岸の中日でたくさんの人がお参りに来ていました。山門裏の奪衣婆の迫力は半端ありません!怖いです・・

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片町文化センター
京王線の踏切を渡ります。分倍河原駅はすぐそこ。分倍河原といえば古戦場だけど、最近はこっちかな。かるたが一番楽しかったのは・・きっとここ

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本陣門
すごく立派な門です。矢島本陣の表門を移築した門ってここでいいのかな?

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秋葉常夜燈
本宿村は、甲州街道が古街道から現在の街道に移され家並みが出来ましたが、水に乏しく度重なる火災に苦しみました。そこで講を作り秋葉神社で火伏の祈祷をして、寛政四年(1792)に常夜燈を設けたそうです。秋葉燈を見つけると東海道を思い出します。

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武蔵府中熊野古墳
飛鳥時代(7世紀中頃)に築造された古墳で、四角い墳丘の上に丸い墳丘が重なった形で、上円下方墳と呼ばれています。全国的にも希少な形の古墳です。

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薬医門の旧家
下谷保村の名主で幕府の馬医者を勤めていました。

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秋葉常夜燈
薬医門の旧家前にもあります。

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関屋かなどこ跡
鋳物三家(矢澤、森窪、関氏)のひとつで、江戸時代から明治初期まで鋳造を業としていました。

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谷保天満宮
菅原道真大宰府流罪となり、第三子三郎はここに配流されました。道真の死後、父の像を刻み鎮座したのが起こりです。甲州街道から鳥居をくぐると本殿まで下っていくのが何だか気持ち悪いと思ったら、古甲州街道は立川段丘の下を通っていたそうです。街道が段丘上を通るようになり参道は鎮守の森を抜け本殿に向かうようになったそうです。納得。この辺りから街道が段丘上を通っているのがよくわかります。

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元上谷保村の常夜燈(秋葉燈)寛政六年(1794)建立
元青柳村の常夜燈(秋葉燈)寛政十一年(1799)建立
青柳稲荷神社
青柳地蔵堂

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甲州街道
日野橋の交差点から少しだけ旧道に入ります。なんだかホッとします

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日野の渡し碑

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立日橋
昔は渡し船で渡った多摩川ですが、今はモノレールと一緒に橋を渡ります。

10.日野宿
日野本郷とよばれ、幕府代官の直轄支配を受けた大村でしたが、慶長十年(1605) 宿場に取たてられたとされています。多摩川日野渡船場の管理・運営を行っていました。甲州道中宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は423軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠20軒。宿内人口は1556人(男796、女760)

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福地蔵(東の地蔵)
日野宿の江戸口になります。享和九年(1809)の建立

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有山家(屋号・綿十)
道の反対側に、朽ちていきそうな石造りの建物がありました。有山家は佐藤彦五郎の四男彦吉の養子先です。明治26年(1893)の大火により主屋が消失したため、本陣の上段の間と御前の間の二間が有山家に曳家され現在に至っています。公開はしていないそうです。

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手打ちそば(そば処ちばい)
ちょっと遅いお昼ご飯。有名人のサインも沢山飾られているお蕎麦屋さんですが、お店というより個人のお宅です。のぼりや看板があっても入っていいのか戸惑うところ。


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日野宿本陣
隣同士で建っていた上佐藤家と下佐藤家が交代で名主を勤め、正徳六年(1716) 上佐藤家が本陣、下佐藤家が脇本陣と定められましたが、幕末には下佐藤家が本陣となりました。下佐藤家の当主佐藤彦五郎は天然理心流近藤周助の門人であり、近藤勇とは弟弟子の関係でした。土方歳三とは義弟の間柄で、新撰組に大きな影響を与えた人物でした。日野と新撰組は深いつながりがあります。

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問屋場・高札場跡
図書館になっています。

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渡邊家
江戸末期から明治初期の建築といわれています。

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八坂神社
天然理心流近藤周助の門人が奉納した額があります。

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坂下地蔵(西の地蔵)
日野宿の西口です。旧道は線路で途切れてしまうため、駅まで戻ってガードをくぐり線路脇の道を上って行きます。

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日野自動車
都道に合流したら日野自動車の大きな工場脇をずっと歩いていきます。日野にあるから日野自動車なのかなぁとググってみたら、東京瓦斯会社(後の東京ガス)の日野にあった機械部門が独立して始まったとか。その後合弁や分社、分離独立等により日野自動車となったそうです。そういえば、ガイドブックによるとこの辺りに一里塚があるはずだけど・・見当たりません。

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一里塚公園 
日野台の一里塚 江戸日本橋から十里目
日野台の交差点まで来ると、右側に「一里塚公園」を発見。立札には「この一里塚は、江戸時代日本橋から10里目の一里塚で、この公園の南、日野台交差点から東へ50mほどの街道の両脇にありました。人通りも少ない「ひのっぱら」を行く旅人たちが一息ついた場所でした。北側の塚は昭和の初め頃、南側は昭和30年代に取り壊され現在は残っていません。」と書いてあります。さっきの場所の辺りにあったのかな。そして「ひのっぱら/日野原」で日野なんだね。

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高倉稲荷神社
火の見櫓に誘われてお稲荷さんにやってきました。登ってみたいなぁ。この少し先で国道20号と合流します。

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富士見橋
八高線を跨いで、八王子バイパスをくぐるとちょっとだけ旧道に入ります。富士見橋っていうだけあって昔はきっと富士山がきれいに見えたんだろうなぁ。石仏石塔群があると書かれていますがよくわかりませんでした。

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大和田橋
旧道を抜けると浅川に架かる橋に出ます。4月より9月までは徒歩渡りで、10月から3月までは架橋されていました。鮎が名物で将軍家にも献上されていました。
そしてこの大和田橋には焼夷弾の弾痕が残っています。八王子は太平洋戦争終結の13日前(昭和20年8月2日)、B29爆撃機180機の空襲を受けました。多くの市民がこの橋の下に避難し助かりました。橋の上にはこの空襲時の焼夷弾痕が残っています。改修の際に焼夷弾痕を残し伝えていくことにしたそうです。ちょうどこの日の朝、出かける前にTVでこの橋の話をみたばかり。まさかその日にこの橋を歩くなんて! 「こぐまのケーキ屋さん」という好きな漫画があります。同じ作者がかいた「ぼくはせんそうをしらない」が紹介されていました。読んだことがなかったのですが、Webで公開されているので早速読んでみました。焼夷弾ケバブの話の中がとにかく衝撃すぎ・・。私も戦争をしらないし、ちゃんと向き合ってきていません。でも忘れちゃいけないし、ちゃんと知っておかないとならないことなんですよね。 橋を渡り右折して中学校の先で旧道に入ります。

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竹の鼻一里塚
江戸日本橋より十一里目

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永福稲荷神社
八王子新町の鎮守で、宝暦六年(1756) 江戸時代中期に活躍した力士八光山権五郎像が再建し落成と同日に相撲を奉納したといわれています。享保八年(1723)建立の青面金剛像などがあります。

11.八王子宿
八王子城落城後、八王子の町は現在地に移され、後に領主となった家康は大久保長安に新たな街づくりを命じました。、宿並は東から横山宿、八日市宿、八幡宿で構成され、総称して八王子宿となりました。甲州道中宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は1548軒、うち本陣2、脇本陣3、問屋場2、旅籠34軒。宿内人口は6026人(男3112、女2914)

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市守神社 大鳥神社
市取引の平穏無事を守るため創建されました。商売繁盛の神様として知られています。神社前が八王子宿の江戸(東)口で木戸がありました。

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八王子駅入口で本日は終了です。

  「トントントントン♪ヒノノニトン♪」口ずさみながら歩いていたのに、危険を察知できませんでした。歩道に自転車が多くてもうちょっとでぶつかりそうに。この日歩いた道は、歩道に自転車が多いです。しっかりKYしなくちゃ。
  そして七番目の一里塚の次は十里目の一里塚でした。八里目と九里目はどこにあったかというと、どちらも古甲州街道沿いにあり、八里目は本町交番前交差点を南に入ったNEC府中工場内、九里目は多摩川を渡った先の多摩モノレール 甲州街道駅と万願寺駅の間にあります。そういえば七里目も古甲州街道でした。日野に入ると新撰組ゆかりの地がたくさんあります。高幡不動も行ったことがなくて気になる。九里目の万願寺一里塚も合わせて散歩してみたいと思います。