マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【中山道 25日目 その1】 58.関ヶ原宿 → 59.今須宿     2018.09.15(土)

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桃配山(関ヶ原
徳川家康最初陣跡です。壬申の乱の際、大海人皇子がここに布陣し、兵士に桃を配って勝利した故事に習って家康はここに最初の布陣をしました。

垂井駅57.垂井宿 → 58.関ヶ原宿 → 59.今須宿 → 60.柏原宿 → 61.醒井宿醒ヶ井駅    約19km

久しぶりの中山道です。雨です。今年は雨が多いです。垂井駅で雨支度をして出発です。

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垂井宿
前回GWに歩いた時はお祭りでとても賑やかでしたが、今日は静かな雨の中です。

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旧旅籠長浜屋
お休み処が開いていたのでちょっと一休み。埼玉から来たおじさんが雨宿りしていました。垂井まで来たけど、思ったよりも降っていて、このまま歩くかどうか迷っているとのこと。確かに足元がスニーカーだとびっしょりになりそうです。お城めぐりにでも変更しようかと言ってたけどどうしたかなぁ。

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垂井一里塚跡
江戸日本橋より百十二里目。南塚がほぼ完全に残っており、国の史跡に指定されています。そして関ヶ原合戦 東軍・浅井幸長の陣跡です。南宮山に布陣した西軍毛利秀元に備えました。


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伊富岐神社鳥居
本殿はここから900mほど奥にあります。鳥居前でご挨拶だけ。


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野上 七つ井戸
野上は、垂井宿と関ヶ原宿の間の宿でした。街道筋の井戸は野上の七つ井戸として親しまれていたそうです。休息所を兼ねて再現された井戸で、つるべで実際に水を汲むこともできるそうですが、「飲用はしないでください。」と書かれています。

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しゃもじ塚 平安中期の豪族 平忠常の墓
長元4年(1031) 平忠常の乱で捕えられ京に護送される際、里人の出した食物をしゃもじごと口に入れ息絶えてしまったそうです。しゃもじごとって・・・どんな人だろうと思ったら、平忠常は上総・下総・常陸に勢力を持つ豪族で、朝廷に反乱を起こし夷隅を拠点に戦ったとか。先日訪れた大多喜城の夷隅です。聞いたこともない人物だったけど、一気に存在感が。そしてこの乱の制圧を機に清和源氏が東国に勢力を持つことになったそうです。


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東軍・山内一豊陣跡
松並木が見えてきたところには山内一豊陣跡。南宮山の西軍に備えましたが、動きがないため有馬・蜂須賀隊と共に前身します。一豊は、関ヶ原の実戦よりも小山評定掛川城提供のほうで評価されてますよね。

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松並木
街道を歩いていると何故だがテンションが上がってしまうのが、松並木です。

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六部地蔵
六部とは、六十六部の略で、全国の社寺などを巡礼しながら修行してる行者が、この地で亡くなったために祠を建ててお祀りしたといわれています。また、「六部地蔵 歯痛なおりて 札参り」と読まれているように、痛みのひどい病気を治すことで知られています。


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桃配山
徳川家康最初陣跡です。道の反対側から見学して終了。雨じゃなかったら行ったんだけどね~


58.関ヶ原宿
伊吹山地鈴鹿山系が迫る狭隘の地で軍事上の要衝でした。勢州路(伊勢街道)や北国脇往還(北国街道)の追分を控え、美濃十六宿中可能に次ぐ規模をほこりました。中山道宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は269軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋場8、旅籠33軒。宿内人口は1389人(男685、女704)


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旧道から国道21号線に合流。さっきまでの風情ある道は一変。交通量が多くて歩道のない道を歩きます。関ヶ原の一里塚(江戸日本橋より百十三里)がこの辺にあったようだけど、よくわかりませんでした。


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関ヶ原駅前観光交流館 いざ!関ヶ原
駅前にある交流館でひと休み。少し小降りになったし、何よりもレインウェアが暑かったので、脱いで身軽になってリスタート。やはり歩くと暑いです。トイレはここでいっておくのがおすすめ。駅の奥に煙るのが笹尾山かなぁ。

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関ヶ原脇本陣
脇本陣を勤めた相川家は、臨済宗妙心寺派の高僧 至道無難禅師の生家です。

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西首塚
関ヶ原合戦の戦死者数千名の首級を葬った塚

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松尾 交差点
右に650m行くと関ヶ原開戦地。ですが、ここは左に曲がります。

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美濃不破関 東城門跡
美濃不破関のほぼ中央部を東西に東山道が通りぬけていました。このあたりが不破関の東端になります。

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東軍・福島正則陣跡
東城門跡から100mという看板につられてちょっと寄り道。写真右の大きな杉は、関ヶ原合戦屏風にも描かれているそうです。この奥には松尾山も見えるのかなぁ。今日は全然わからないや。


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不破関庁跡と兜掛石
この辺りに中心建物があったとされています。 兜掛石は、壬申の乱の際、大海人皇子が兜を掛けた石と伝えられています。案内板に沿って狭い隙間を通って個人のお庭に入っていくような感じです。

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不破関
東山道の美濃不破関は、東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発関とともに、古代律令制下の三関の一つとして、壬申の乱(672)後に設けられたとされています。左が中山道。右に行くと資料館があります。

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藤古川(関の藤川)
関所のそばを流れるところから関の藤川と呼ばれていました。壬申の乱(672)では、東が天武天皇軍(大海人皇子)、西が弘文天皇(大友皇子)軍が陣して川を挟んでの開戦となりました。今でも東と西の神社ではそれぞれを祭神として祀っているそうです。関ヶ原合戦では、大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、軍事上の要害の地でした。

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矢尻の井
壬申の乱のとき、水を求めて大友皇子軍の兵士が矢尻で掘ったものと伝えられています。

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戦国ロード(広域農道)をくぐり国道21号線を歩道橋で渡って旧道を進みます。

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若宮八幡宮を登っていくと大谷吉継の陣跡です。

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高札場跡 
このあたりは間の宿 山中。立場がありました。

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黒血川
壬申の乱の流血で、川底の岩石が黒く染まったと伝えられています。

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常盤御前の墓 常盤地蔵
都一の美女と言われ、16歳で源義朝の愛妾となり、今若、乙若、牛若(源義経)を産みました。義朝が平治の乱で敗れた後、義経の行方を案じ乳母と後を追う途上、賊に襲われて息を引き取ったといわれています。街道を通って都に上る義経の姿を見たいという常盤御前の願いを叶えるため村人が街道脇に地蔵を築きました。寿永2年(1183) 義経は上洛のためこの地を訪れた義経は、母の塚と地蔵にひざまずき冥福を祈ったといわれています。

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今須峠を越えて国道に合流します。峠自体は舗装されているし大したことはありません。国道に合流するところの方が注意。旧道から国道を渡ったところで振り返ったのがこの写真。横断歩道も信号もありません。旧道側には歩道もありません。そして写真には写っていませんが、交通量が多いのです。とにかく車の切れ目を待つしかありません・・・

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今須の一里塚
江戸日本橋から百十四番目の一里塚。国道に合流して直ぐのところに復元された一里塚があります。すぐ先の横断歩道を渡って国道沿いの細い道に降りて行くと今須宿に入ります。


59.今須宿
妙応寺の門前町として発展し、琵琶湖から美濃への物流で賑わいました。中山道宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は464軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋場7、旅籠13軒。宿内人口は1784人


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旧道に入ってすぐのシャッターには今須宿の浮世絵・・・何かが違う? よく見るといろいろなものが隠れています。小学生とかヒヨコとか・・・・

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本陣跡 脇本陣

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妙応寺
正平15年(1360)に、今須領主長江重景が創建した、県下で最も古い曹洞宗寺院。線路をくぐった先にあります。ここは駐車場になるのかな。トイレがあります。

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問屋場跡(山崎家)
文政三年(1820)築の建物。美濃16宿の中で、当時のまま現存している問屋場はここだけです。

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常夜燈
京都の問屋河内屋が、大名の荷物を運ぶ途中で荷物を紛失し、途方に暮れ金毘羅様に願をかけてお祈りしたところ今須宿で荷物が出てきたので、お礼にと建立したものです。


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車返しの坂
南北朝の頃、荒れ果てた不破関屋の月が風流と、わざわざ都から公家の二条良基がやってきたが、坂を登る途中で屋根を直したと聞いて引き返してしまったため、この名で呼ばれています。自転車のおばあさんが登っているのが、旧道の車返しの坂。奥にはお地蔵さんが祀られています。おばあさんは、お地蔵さんのお花を取り換えに来たんだって。最近はお参りする人も少なくなったとかで、お参りしたら喜ばれました。お地蔵さんの先は行き止まり。現在の中山道は国道と東海道線を渡っていく舗装された道です。

---☆☆ 次ページへ続く