古河桃まつり (3.20-4.5)
江戸時代初期、古河藩主 土井利勝が、江戸で家臣の子供たちに桃の種を拾い集めさせ、古河に送って農民に育てさせたのが桃林の始まりです。領地では、燃料となる薪が乏しかったので、成長が早く、果実が食料となる桃が選ばれました。
江戸時代初期、古河藩主 土井利勝が、江戸で家臣の子供たちに桃の種を拾い集めさせ、古河に送って農民に育てさせたのが桃林の始まりです。領地では、燃料となる薪が乏しかったので、成長が早く、果実が食料となる桃が選ばれました。
古河駅 → ①鍛治町「みらい蔵」 → ②地域交流センター(はなももプラザ) → ③雀神社 → ④古河城本丸跡碑 → ⑤古河公方公園(古河総合公園・桃まつり会場) → ⑥長谷観音 → ⑦古河歴史博物館 → ⑧古河文学館 → ⑨お休み処「坂長」 → ⑩篆刻美術館 → ⑪古河街角美術館 → ⑫永井路子旧宅 → ⑬正定寺 → 古河駅 約9,5km
久しぶりに古河にやってきました。ハナモモが満開というので、駅からハイキングに参加してきました。
古河駅
受付を済ませて出発です。
受付を済ませて出発です。
①鍛治町「みらい蔵」
明治期の歴史的建造物が飲食店として生まれ変わりました。まだ時間が早いので今回は見るだけ。
明治期の歴史的建造物が飲食店として生まれ変わりました。まだ時間が早いので今回は見るだけ。
日光道中 道標
この道標はいつみても立派です。
この道標はいつみても立派です。
こがにゃん
桃香ちゃんがお出迎えしてくれていたような・・。でもかわいいからOK
桃香ちゃんがお出迎えしてくれていたような・・。でもかわいいからOK
②地域交流センター(はなももプラザ)
日光社参ウォークではお世話になりました。
日光社参ウォークではお世話になりました。
③雀神社
伝承によれば、貞観年間(859-876)に出雲大社から勧請したもので、鎮宮が転化して雀宮となったといわれています。古河公方足利利成氏をはじめ、代々の公方の崇敬も厚い神社です。現在の社殿は、慶長十年(1605)松平丹波守康長の造営です。
伝承によれば、貞観年間(859-876)に出雲大社から勧請したもので、鎮宮が転化して雀宮となったといわれています。古河公方足利利成氏をはじめ、代々の公方の崇敬も厚い神社です。現在の社殿は、慶長十年(1605)松平丹波守康長の造営です。
神社の脇から渡良瀬川の土手に上ります。しばらく土手のサイクリングロードを歩いていきます。それにしても風が強いこと! 帽子が飛んでいきそうです。
富士山が見えます!
この写真でわかるかなぁ?
この写真でわかるかなぁ?
④古河城本丸跡碑
古河公方足利成氏が康正元年(1455) に古河へ移座し、古河城は整備・拡張されていきました。寛永十二年(1635) 土井利勝が本丸に御三階櫓を造営し一応の完成をみました。城郭の規模は南北1800m、東西650mほどでした。明治七年(1874) 廃城令により取り壊され、明治四三年に始まった渡良瀬川河川改修工事により、本丸や二の丸、多数の郭を失うこととなりました。
古河公方足利成氏が康正元年(1455) に古河へ移座し、古河城は整備・拡張されていきました。寛永十二年(1635) 土井利勝が本丸に御三階櫓を造営し一応の完成をみました。城郭の規模は南北1800m、東西650mほどでした。明治七年(1874) 廃城令により取り壊され、明治四三年に始まった渡良瀬川河川改修工事により、本丸や二の丸、多数の郭を失うこととなりました。
ハナモモは満開です!
おばさま方は元気です。
丸満餃子
ずらっと並ぶ屋台に目移り。古河名物と書かれた行列に並んでみました。丸いボリュームたっぷりの餃子はこれだけで十分満足です。後でお店の場所を調べたらみらい蔵のすぐ近く。道の反対側を通っていました。
ずらっと並ぶ屋台に目移り。古河名物と書かれた行列に並んでみました。丸いボリュームたっぷりの餃子はこれだけで十分満足です。後でお店の場所を調べたらみらい蔵のすぐ近く。道の反対側を通っていました。
御所沼
メリナ・メルクーリの小径
古河総合公園は、「文化景観の保護と管理に関するメリナ・メルクーリ国際賞」を受賞しています。公園を出て駅の方へ戻りましょう。
古河総合公園は、「文化景観の保護と管理に関するメリナ・メルクーリ国際賞」を受賞しています。公園を出て駅の方へ戻りましょう。
懐かしい常夜燈が見えました。日光道中との合流地点です。こんなところに、飛び出しぼうやを見ーつけた。
⑦古河歴史博物館
古河城出城跡(諏訪郭)に建てられています。古河の歴史をお勉強。中世には古河公方が居城し東国の拠点となっていました。そして、雪の殿様よりも多く展示されている鷹見泉石について初めて知りました。河鍋暁斎も古河の出身なんですね。いろいろと知らないことばかりです。コースに入っていなかったので、鷹見泉石記念館を見逃してしまいました。当時の武家屋敷を利用しているとのことで見ておきたかったなぁ。
古河城出城跡(諏訪郭)に建てられています。古河の歴史をお勉強。中世には古河公方が居城し東国の拠点となっていました。そして、雪の殿様よりも多く展示されている鷹見泉石について初めて知りました。河鍋暁斎も古河の出身なんですね。いろいろと知らないことばかりです。コースに入っていなかったので、鷹見泉石記念館を見逃してしまいました。当時の武家屋敷を利用しているとのことで見ておきたかったなぁ。
⑧古河文学館
歴史館のすぐ隣にあります。古河ゆかりの文学者たちが展示されていて、永井路子も古河出身
でした。「コドモノクニ」の展示もありました。鷹見泉石の曾孫、鷹見久太郎が創刊した雑誌です。「兎のダンス」「アメフリ」などの有名な童謡がここから生まれているんですね。
歴史館のすぐ隣にあります。古河ゆかりの文学者たちが展示されていて、永井路子も古河出身
でした。「コドモノクニ」の展示もありました。鷹見泉石の曾孫、鷹見久太郎が創刊した雑誌です。「兎のダンス」「アメフリ」などの有名な童謡がここから生まれているんですね。
雪の歩道
⑨お休み処「坂長」
江戸時代初期から大正までの商家を修復した施設です。こちらも日光社参でお世話になった場所です。
江戸時代初期から大正までの商家を修復した施設です。こちらも日光社参でお世話になった場所です。
⑩篆刻美術館
酒類卸売業を営んできた平野家の耐火石蔵として、大谷石を用いて大正九年(1920)に建てられ、国の登録有形文化財に登録されています。現在は篆刻美術館となっています。印章は7000年前も前にメソポタミアの図象印章から始まったものとか。奈良時代に日本につたわり、14世紀ごろ印章と分岐して篆刻が誕生したそうです。長い歴史があるんですね。
酒類卸売業を営んできた平野家の耐火石蔵として、大谷石を用いて大正九年(1920)に建てられ、国の登録有形文化財に登録されています。現在は篆刻美術館となっています。印章は7000年前も前にメソポタミアの図象印章から始まったものとか。奈良時代に日本につたわり、14世紀ごろ印章と分岐して篆刻が誕生したそうです。長い歴史があるんですね。
⑪古河街角美術館
古河ゆかりの美術・文学作品の展示や、市民ギャラリーとして貸し出しがされています。
古河ゆかりの美術・文学作品の展示や、市民ギャラリーとして貸し出しがされています。
側溝の蓋に茨城の刻印。日光道中を歩いていた時も気になっていたんだよね。ググってみたら、昔は県の規格品につけていたらしいとのこと。現在はつけてないみたいです。