マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【ちゃらぽこ散歩会】 岩槻城 水陸交通路の城を歩く 2019.12.08(日)

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岩槻城 堀障子

岩槻城 (埼玉県さいたま市) 別名:岩付城、岩附城、浮城、白鶴城
・城地種類 平城  ・築城   長禄元年(1457) 築城者 太田道真
・主要城主 太田氏 後北条氏 高力氏、大岡氏 他

 

 室町時代の後期に築城されたともいわれる岩槻城は、台地を利用した平城で、主郭部、その北の新正寺曲輪、南の新曲輪・鍛冶曲輪がそれぞれ別個の台地上にあり、その間には深い沼地が広がっていました。広大な城郭の内、南端の新曲輪、鍛冶曲輪などの部分が岩槻城址公園として整備され、史跡に指定されています。その地内には土塁、空堀、馬出など、中世城郭の面影がよく残されています。(さいたま市ホームページ 文化財紹介より)

 

岩槻駅 → 時の鐘 → 大手門跡 → 城址公園・新曲輪・鍛冶曲輪・黒門 → 本丸 → 天神曲輪 → 御茶屋曲輪 → 城米曲輪 → 浄安寺 → 大構跡 愛宕神社 → 芳林寺 太田道灌像 → 加倉口跡(岩槻城外郭線)→ 馬坂 → 岩槻城 

 

散歩会で岩槻城を歩くというので参加してきました。

 

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渋江口
まずは岩槻駅から日光御御成道に出て渋江までやってきました。街道歩きの時は雨の中、ここで左に入り日光を目指しました。今回はここを右に入ります。

 

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時の鐘
岩槻にも時の鐘がありました。寛文11年(1671)城主阿部正春の命令で鋳造されました。50年後の享保5年(1720)鐘にヒビが入ったため改鋳されたものが現在の鐘になります。鐘楼は嘉永6年(1853)に岩槻藩により改建されたものです。

 

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大手口跡
城へお出入口の表を大手口といいます。城門が大手門です。大手門跡の写真は・・?

 

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三の丸
消防署の辺りが三の丸

 

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岩槻城址公園
この空き地の奥、ちょっと下がったあたりが公園の広場になっています。そこはその昔は水の中でした。

 

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市民会館いわつき
城址公園前の市民会館でお昼の予定がなんと食堂が臨時休業。B1グランプリで有名になった豆腐ラーメンを食べる予定だったのです。急遽コンビニに買い出しに行って城址公園でお昼となりました。

 

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岩槻城城門(黒門)
長屋門形式の門で、岩槻城の城門と伝えられていますが、設置場所も築年も不明です。数少ない遺構と伝わりますが、城門かどうかの確証はないそうです。

 

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人形塚
毎年11月3日に人形供養が行われます。説明版によると「人形作りの起源は、江戸時代はじめ日光東照宮造営のころ(1630年)とされています。」とのこと。古くから人形の町なんですね。

 

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岩槻城裏門
岩槻城の裏門と伝えられています。左右の本柱のホゾに墨書銘が書かれているそうです。講師によると微妙だそうですが、見てほしいのはこの門の裏とのこと。

 

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で、その裏には・・・土塁が隠れていました。

 

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裏門跡の先にある橋からは堀がみえます。写真でわかるかなぁ。

 

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鍛冶曲輪
空堀にかかる橋を渡って曲輪に入ります。岩槻城の別名「白鶴城」の碑がありました。Wikiによると、「築城を命じられた太田道灌は、沼のほとりで2羽の白鶴が木の枝を水面に落とし、その上に舞い降りたことから、たくさんの竹をたばねて沼に埋め、盛土をして城づくりをし、岩付城ができたという」ことから白鶴城の別名がついたといわれます。

 

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先ほど渡った堀の中に下りていきます。結構高さがありますが、昔はもっと高かったとか。今はふるさと散策路という名の散策コースになっています。どのくらいの人が堀の中を歩いていると知っているんだろう。

 

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菖蒲池
ここはそのままの地形が残っていて、元荒川とつながった船着き場があったそうです。

 

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新曲輪と鍛冶曲輪の間の空堀からは、発掘調査の際に堀障子の跡が見つかっています。後北条の時代に作られたものです。今は保存のために埋め戻されています。土管と土管の間に堀があります。保存のため木橋がかかっていました。

 

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本丸に向かいます。古地図と同じ本丸への別れ道。先ほど買い物したコンビニからスーパーの辺りが本丸だったところ。そういえば目の前にあった歯医者の名前も「ほんまる歯科」だったけ。

 

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この辺りはたしか天神曲輪。だいぶ記憶があやしい・・

 

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しばらく堀の中(だった)を歩いて浄安寺にやってきました。駐車場から見るこの高低差が物語っています。

 

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浄土宗 快楽山 浄安寺
永正2年(1505)増上寺第5世天誉了開上人が開山となり現在の宗派に改めたといわれています。岩槻城主高力清長の墓があります。

 

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愛宕神社
城と城下町を囲む大構の上に祀られています。

 

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大構
長さ8㎞に及ぶ大構は、天正年間、後北条の時代に岩槻城外の町場を城郭を一体化するために築かれました。現在は一部が残っているだけです。愛宕神社を道路側は線路と道路でスパッと切り取られています。

 

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曹洞宗 大平山 芳林寺
太田三楽斎資正が東松山城ゆかりの地蔵堂を岩槻に移し、資正の嫡男氏資の時代に芳林寺と改めています。また岩槻城主太田資家が太田道灌の遺骨や遺髪をもらい受け今日まで供養されています。

 

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太田道灌
なんだか若々しい感じの騎馬像です。

 

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岩槻城の復元図もありました。立派なお城です。

 

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岩槻城址公園や時の鐘のところには大きなわかりやすい復元縄張図もあります。こちらは同じ復元図の一部。駅の案内所でもらえます。

 

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加倉口
この下っている先は堀になっていました。そしてここが加倉畷合戦の現場。第二次国府台合戦のころの小規模な戦いが行われました。この第二次国府台合戦で太田資正北条氏康に降伏したのです。

 

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少し歩いてきました。この辺りには当時のままの土塁が残っています。

 

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久伊豆神社
みんな大好き庚申塔

 

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馬坂
馬も転げ落ちるほどの急な坂だったそうです。


 ちゃらぽこ散歩会で、岩槻城を歩くというので参加してきました。横歴でみた「道灌以降の戦国争乱」という企画展が面白かったので、岩槻城が気になっていたのです。講師はいつもの新津先生。きっと自分で歩いたら、岩附城址公園だけしか行かなかったかも。地図を片手に説明を受けながら歩くと、岩槻城の巨大さや、うまく川や堀を使って水運を使っていた重要な城だったということがよくわかります。ここに堀障子があったこともうれしい発見。資正が帰りたくても帰れなかった城がここだったんですね。
 岩槻は日光御成道を歩いた時に通っているのですが、あの街道歩きはただただ歩くだけだったので、岩槻で思い出に残っているのは、解散前に寄った人形歴史館の圧倒的な数のひな人形と、翌回が雨の歩行でとっても寒かったことくらい。
 さて、今年も今日で終わり。お散歩ブログも何とか間に合わせて年内にアップできました。今年もたくさんの方にお世話になりながら歩いてきました。この場を借りてお礼申し上げます。遅筆でありますが、元気に歩いてるなぁ~と思っていただければ幸いです。ありがとうございました。 (追記:歩いた日付を入れ忘れていました・・)