天平十三年(741) 聖武天皇によって発せられた「国分寺建立の詔」に基づいて建立された下総国分僧寺の後身で、ほぼ同じ場所に建てられています。本堂の下からは、金堂の基壇が発見されています。
市川橋 → 里見公園 → 国分尼寺跡 → 下総国分寺 → 須和田公園 → 弘法寺 → 市川駅
駅ハイで小岩を巡ったあと、鎌倉街道下道歩きでゴールした時に日が暮れてしまった国府台付近を歩いてきました。心配していた雨雲は南関東までは南下せず、何とかお天気は持ちました。それにしても湿度が高く、蒸し暑い一日でした。これからの季節は熱中症に注意です。
江戸川沿いの土手を歩いて国府台を目指します。
今日のにゃん
里見公園(国府台城跡)
公園に到着。バラはまだ咲いているけど、そろそろ終わり。アジサイは少なめ。今はすっかり葉桜だけど、サクラは200本以上あり、お花見の名所になっています。
紫烟草舎(里見公園)
北原白秋が住んでいた離れが復元されています。
里見群亡の碑(里見公園)
永禄七年(1564)、里見義弘は八千の軍勢を率いて国府台に陣を構え、北条氏康の率いる二万の兵を迎え撃ちました。有利な戦いをしていた里見氏を夜襲し、一斉に攻撃した北条軍に里見軍は敗退。この合戦で敗北した里見広次らをはじめとして、五千名もが討死したと伝えられます。この戦は、第二次国府台合戦と呼ばれています。この碑は、文正十二年(1829)に戦死者の亡霊を弔うために建てられました。
夜泣き石(里見公園)
里見群亡の碑に隣接しています。第二次国府台合戦で戦死した里見広次(里見義弘の甥)には12~13歳になる美しい姫がいました。父の霊を弔うため、遠い安房の国から国府台を訪ねてきましたが、戦場跡の凄惨な情景を目にして打ちひしがれ、傍らにあった石にもたれて泣き続け、ついに息絶えてしまいました。以来、この石から夜になると悲しい声が聞こえてきたという伝説が残されています。ですが、国府台合戦の記録には、広次は15歳の初陣で戦死したとされていることから、もとは明戸古墳の石棺近くにあった夜泣き石の伝説が、広次にまつわる伝説として語り伝えられたのではないかといわれています。年端もいかぬ美少年の広次を討った北条方の松田康吉は、広次を討ったことを悔やみ、出家して菩提を弔ったそうです。敦盛の話を思い出しました。夜泣き石の台座は、明戸古墳石棺の蓋とされています。
雲が無ければ、右端に富士山が見えるはずです。
公園内を歩いてみましたが、土塁なのか古墳なのかよくわかりませんでした。縄張り図を探してから来ればよかったな。奥に見える橋の辺りが市川市の最高地点、標高30.1メートルです。
明戸古墳石棺(里見公園)
全長40mの前方後円墳で、周辺からは埴輪などが採集されていて六世紀後半につくられたことが確認されています。この二つの箱型石棺は、黒雲片麻岩(筑波石)で造られ、後円部墳頂近くの位置を保っています。文明十一年(1479)に太田道灌が城を築いたときに、露出したものと伝えられています。
文明十一年(1479) 当地の鎮守として太田道灌が建立したと伝えられています。公園の近くに神社があったので、お参りして、説明板はちゃんと読まずに写真だけ撮ってきました。後で見たらこの天満宮では「辻切り」という行事が行われていて、大蛇を作って侵入してくる悪霊を追い払うそうです。鎌倉街道上道でみた「フセギ」みたいなものかと調べてみると、里見公園の南と西に「辻切り」の大蛇が木の上で見張っていたらしい。気が付かなかった・・
じゅん菜池緑地
天満宮から坂を下りていくと大きな公園。ちょっと覗いてみました。国府台と国分の台地の間に深く入り込んだ沼に、じゅん菜が沢山生えていたそうです。昭和初期に沼が干上がり、じゅん菜は絶滅したため、沼は田んぼに変わりました。しかし、地元の人々から復元してほしいという要望を受け、昭和54年(1979)に緑地として整備されています。
辻々にある石仏を眺めながら、下総国分尼寺を目指して台地を上っていきます。
下総国分尼寺跡
天平十三年(741) 聖武天皇の詔により建立された国分尼寺のひとつです。建物があったとされる場所には表示がありますが、草をかき分けて行く気が起こらず遠目に眺めて先に進みます。
国分寺に向かう途中にも庚申塔がありました。赤い鳥居の庚申塔はとてもいい感じです。享保十八年(1733)の建立だそうです。
下総国分寺跡 附北下瓦窯跡
この辺りには、国分寺の造営を担当した造寺所が置かれたとされています。
石板に小さな字で歴史がかかれていたのですが、細かすぎてよく読めませんでした。
国分寺の隣にある市川薬師。順光法印が開基となり元和七年(1621)に創建され、境内は国分寺の寺領でした。目を引く大きなヤカンは、グーグルマップのクチコミによると、先代の住職が、廃業を考えていた中華そば店からもらい受けたものだとか。
天平十三年に建立された国分僧寺(金光明四天王護国之寺)です。七重塔をはじめとする壮大な伽藍が立ち並んでいましたが、平安時代には衰退、その後、真言宗豊山派の寺として再興しています。境内は下総国分寺跡として国指定史跡となっています。
急坂を下っていきます。坂の途中にも庚申塔
郭沫若記念公園
中国出身の文学者・歴史学者・政治家として中国現代の文学と史学で大きな功績を残した郭沫若の旧宅が、移築復元されています。
須和田公園
弥生時代後期の須和田遺跡を整備した公園です。発掘調査では、五棟の住居跡が発見されています。
真間山 弘法寺(ぐほうじ)
奈良時代に行基菩薩がこの地を訪れた際、手児奈の悲話を聞き、哀れに思い「求法寺」を建立したのが始まりとされています。その後、平安時代に弘法大師空海が境内を整備し「弘法寺」と改称、鎌倉時代に日蓮宗に改宗し、真間の道場となりました。
伏姫桜(弘法寺)
境内には樹齢400年という枝垂桜があります。満開の時期は見事でしょうね。
手児奈霊堂
「手児奈」の物語は、いろいろと形を変えて伝えられていますが、その美貌ゆえ、身を投げてしまったり、苦労したりという悲しい物語が多いようです。文亀元年(1501) 弘法寺の七世日与上人が、手児奈の霊を祀る霊堂とし、真間の地を守っています。
真間の継橋
市川北部の台地とその南の市川砂洲の間を流れていた川に架かっていた橋の欄干を模しています。このあたりは「真間の入江」と呼ばれ、古より行き交う船で栄えていました。この橋は『万葉集』にも詠まれています。また、広重の『名所江戸百景』の中にも描かれています。
「われも見つ 人にも告げむ葛飾の 真間の手児(奈)が奥津城処」 山部赤人
「足の音せず行かむ駒もが葛飾の 真間の継橋やまず通わむ」 読み人知らず
真間川
江戸川から分流し東京湾に注ぐ利根川水系の一級河川。全長8.5kmで、真間の入江の跡とされています。かつては、国分川、大柏川を合流して江戸川に注いでしましたが、東京湾に注ぐ放水路が堀削されて流れが逆になってしまったそうです。そういえば、先ほど歩いてきた江戸川の土手に水門がありました。勝手に放水用と思っていたけど、実は分派するためだったのですね。かつて境川と呼ばれた放水路沿いには、たくさんの桜が植えられて、花の時期はとても賑わうそうです。
弘法寺から市川駅に向かう参道には、万葉の歌が掲示されていたり、食事処やカフェもあり楽しく歩けます。途中にある和菓子屋さん(大門岡埜)でお土産を買って帰りました。わらび餅も豆大福も美味でした。
駅ハイのポイントをまわってから、江戸川を渡り、先日ゴールしただけの国府台へ行ってきました。国府台には城址だけではなく、古墳もありました。谷を挟んだ国分の台地には下総国府がおかれ、古代の遺跡もあります。利根川(現江戸川)や真間の入江には舟が行き交い、砂洲の上を街道が通る要衝の地でした。鉄道開通後は、市街地の開発も始まり、昔も今もずっと賑わっています。面白い街歩きになりました。