マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【中山道 28日目】 66.武佐宿 → 67.守山宿 → 68.草津宿    2018.12.09 (日)

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追分道標
高札場もあり、多くの旅人が道に迷わぬよう、旅の安全を祈って文化13年(1816)、江戸大阪をはじめ全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されました。高さは一丈四尺七寸(4.45m)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠でした。火袋以上は取り換えられてはいますが、当時の姿をとどめています。

武佐駅 67.守山宿68.草津宿草津駅)   約21km

昨日よりもさらに寒い朝です。天予報によると最低気温は3℃。最高気温は6℃とか!夜から降っていた雨は止んだようです。さて、本日は中山道の最終日! いざ出発です!

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武佐宿西見附
昨日の終了地点 武佐駅から出発です。武佐駅脇の踏切を渡ると武佐宿ともお別れです。


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伊庭貞剛邸跡
伊庭貞剛は、33歳で裁判官を辞し、住友に入社。第二代総理事となりました。別子銅山煙害事件解決のため、四阪島への製錬所移転を決断。環境復元に心血を注ぎ、企業の社会的責任の先駆者として知られています。

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西宿町の交差点で国道に合流します。左側にはずっと歩道がありません。右側は途中から歩道があるので、歩行者用の信号(写ってませんが右手にあります)を渡って道路の右側を歩きます。

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題目碑
六枚橋の交差点を左折して道路右側を歩いていくとすぐに題目碑があります。ここを右折して旧道に戻ります。

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住蓮坊首洗い池
公園の奥にあります。住蓮坊は、鎌倉時代前期の僧侶。法然源空の弟子で美声だといわれています。専修念仏の弘通(くずう)につとめ、安楽房とともに教えを広めていました。後鳥羽上皇の二女官(松虫姫、鈴虫姫)が帰依したことで後鳥羽上皇の怒りに触れ、法然上人門下への弾圧も強まり、住蓮は近江馬渕の荘の池のほとりで処刑されました。この池は、その首を洗ったといわれています。

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高札場跡 八幡神社
国道に合流してしばらく歩きます。真淵町の交差点を渡り旧道に入ります。交差点の脇には高札場跡がありました。

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茅葺きの屋根にはホタテ貝。そういえば昨日見た茅葺きの屋根にはアワビが置いてあったっけ。 なんだろう。火除け? 鳥除け?

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横関川(日野川)の渡し跡
藪が生い茂っていてここからは川は見えません。江戸時代、通常は舟で渡っていましたが、水量が減ると川に杭を打って止めた二艘の舟の上に板を渡した舟橋を作り渡っていました。明治になるとこの場所に橋が架けられましたが、昭和になって国道に橋が架けられると旧橋は撤去されました。河原に下りると旧道の橋の名残も確認できると書いてありますが、藪過ぎで下りれるのかなぁ

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しばらく土手を歩いて国道に架かる橋に向かいます。奥に見える青い橋が横関橋。橋を渡った先で土手道に戻ります。車両進入禁止の鎖がありますが、木製の中山道の案内板があるから大丈夫。土手道を歩いていくとすっかりおなじみとなった害獣除けのゲート。開けたらちゃんと閉めましょう。山じゃないけど、ここには何がいるんだろう

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民家の塀に飾ってあった素敵な干支の瓦

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西横関交差点で国道に合流。足元に道標。ここを左に行くと水口を経て伊勢に続く道となります。

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鏡の里 旅籠跡 常夜灯 源義経宿泊の館跡 本陣
旧道に入ると旅籠跡の看板が立っています。鏡の里に入ります。ここは、平安時代末期から室町時代東山道の宿場町として栄えましたが、江戸時代に入り、中山道が整備され、武佐宿・守山宿ができ、指定から外れて愛の宿となってしまいました。ですが、本陣、脇本陣も置かれ旅人の休憩の宿場町としての役目をはたしていました。愛宕山常夜燈のある鏡口交差点で国道に合流します。国道脇には旅籠の跡や本陣跡を示す案内板が立っています。そして鏡の里は、源義経 元服の地です。

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鏡神社・源義経 元服の池
16歳になった牛若丸は、烏帽子名を源九郎義経として、天日槍新羅大明神を祀る鏡神社へ参拝し源氏の再興と武運長久を祈願しました。道の反対側なので行かなかったのですが、本殿は国の重要文化財に指定されています。参道の脇にある切株は、義経が烏帽子をかけた松といわれています。鏡神社の麓に元服の池があります。元服加冠の儀を行なった際に使った水がこの池の水でした。

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道の駅 かがみの里
道の駅でちょっと一休み。かがみの里がある竜王でつくられた農産物や花が販売されています。レストランもあります。竜王そばのかりんとうとももどらを旅のお供にゲット。そういえば火曜日は定休日なんだって。道の駅にも定休日があるんだね。

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平宗盛胴塚(平家終焉の地)
壇ノ浦合戦で捕虜となった平家最後の当主平宗盛と清宗の父子は、源義経によって鎌倉に連れて行かれます。ここは鎌倉から京に戻る途中、この地で首を刎ねられた宗盛父子の胴塚です。その後父子の首は京にて市中引き回しとなりました。意気揚揚と鎌倉に凱旋した義経ですが、宗盛父子とは対面した源頼朝は、義経とは会うことを拒みました。源氏の再興を誓い元服した地の近くで、平家の終焉を見届けた義経。願いはかなったはずなのにね・・・。首を洗ったという池では父子をあわれに思い蛙も鳴かなくなったと云われています。胴塚は国道に合流した先で案内板に従って土道に入ります。昔はすぐ際まで池がひろがっていたそうですが、今は国道に戻り少し歩かないと池はみることができません。

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旧篠原宿
淨勝寺前の交差点で信号を渡り、中山道の案内板にしたがって旧道に入ります。この辺りは、東山道時代は宿駅でしたが、中山道となり立場になりました。この先また国道に合流しますが歩道が狭いです。でもすぐに旧道に入るのでそのまま右側を進みます。

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愛宕山大神と金毘羅大権現の常夜燈  家棟川
常夜燈の先にある家棟川は、昔は天井川で、通行するには堤防に上がり苦労しながら川を渡っていたそうです。大正六年(1917)の大正天皇行幸にあたり天井川の下にトンネルが掘られ、家棟隧道が造られました。しかし天井川は大雨による堤防決壊のため多くの被害を出してきました。治水安全のために天井川の川床を最大10m切り下げる工事が平成七年(1995)~平成十九年(2007)にかけて行われ隧道も撤去されました。左下は現在の様子。右下は説明版の当時の写真です。説明板を読まなきゃ気が付かないですね。

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子安地蔵尊
平安時代末期の造像と考えられる地蔵菩薩が祀られています。安産祈願の子安地蔵として毎年1月と8月の縁日には開扉されるそうです。

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桜生(さくらばさま)史跡公園
大岩山古墳群のうち、天王山古墳(全長50m前方後円墳)、円山古墳(直径28m)、甲山古墳(直径約30m) があります。甲山古墳は内部の石棺が見学できます。ガイダンス施設では古墳から出土された副葬品や古墳の断面が展示されています。防水のために粘土をつかっていたりして結構面白いです。(月曜休園)

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稲荷神社
本殿は国道の先だったので寄らないつもりでしたが、食堂の看板につられて国道まで出たので参拝してきました。

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稲荷神社近くにあった食堂でお昼ごはん。すぐ近くのグランドではセアカゴケグモが確認されているそうなので注意です。

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新幹線のガードをくぐり左の道に進み、野洲小学校の前の交差点をわたると中山道の碑があります。

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朝鮮人街道追分
歯医者さんの先で、鳥居本で別れた朝鮮人街道と合流します。

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背比べ地蔵
鎌倉時代の石仏で、昔は乳幼児の死亡率が高かったため、親たちが子どもの背の高さが、背の低いほうのお地蔵様と同じ位になれば、後はよく育つと背比べをしたことから、背比べ地蔵と呼ばれるようになりました。

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行事神社
すごく不思議な注連縄です。「勧請吊り」の張り紙が貼ってあったので、調べてみると、「勧請吊り」は、正月に神社や集落の境界などへ「勧請縄」と呼ばれる大縄を渡し、そこへ勧請板などを吊るして厄除けや豊穣祈願をする風習で、注連縄のようなものは勧請縄といい、中央には「トリクグラズ」という杉か蔓で出来た丸い輪をつけ、その左右には細縄に常緑樹を編みこんだ小勧請縄と呼ぶものを一年の月の数、平年は十二本(閏年は十三本)吊るすそうです。12月22日に行うと書かれていたので、もう新しいものになっているかも。

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行事神社の参道ではまだきれいな紅葉が残っていました。

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十輪院
中山道沿いの野洲川のほとりに、明暦三年(1657) 徳允居士が開いたお堂です。本尊地蔵菩薩立像は、新川神社と縁のある尊像と伝え、鎌倉時代に遡ると考えられています。

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野洲川
昔河口に八つの洲があったので八洲川 → 野洲川となったそうです。通常は仮橋、増水時は舟渡し、朝鮮通信使の通行時は仮土橋が架けられていました。

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橋の上から見える形のいい山は、近江富士かな

67.守山宿
 比延延暦寺の鬼門にあたる東方を守護するために東門院が建立され「比叡を守る寺」から守山寺と名付けられ、守山の語源となりました。守山宿は今日を立った東下り旅人の最初の宿泊地で「京立ち守山泊まり」といわれ賑わいました。 中山道宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は415軒、うち本陣2、脇本陣1、旅籠30軒。宿内人口は1700人(男837、女863)宮津藩


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高札場跡
野洲川を越えて守山宿へと入ってきました。京側から振り返っての撮影。守山宿は歩道のない狭い道が続きます。

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うの家 (宇野本家酒造跡)
江戸時代末期から明治初期に建てられた主屋、造り酒屋で現在は展示室や貸室、レストランになっています。第75代総理大臣宇野宗佑の生家。ちょっと入りにくい感じですが、見学だけでもOKです。

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本陣跡

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中山道街道交流館
江戸時代から続く町屋です。守山宿の話を聞きに来たのに、「横浜から来た」って言ったら、横浜にいたことのある横浜大好きお姉さんと、すっかり横浜トークで盛り上がってしまいました。写真を撮り忘れてしまったけど、ここにも素敵な干支の瓦が飾ってありました。三十六歌仙の木札もあります。

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錦識寺道道標 高札場跡

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東門院守山寺
延暦七年(788) に伝教大師最澄が、比叡山寺(後の延暦寺)を建立した時、四境に構えた門のひとつで、比叡山の東門として設けられました。

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土橋
栗太郡今宿村と野洲川郡守山宿の郡境を流れる境川(吉川)に架かる、中山道の重要な橋として、瀬田の唐橋の古材を使って架け替えられた公儀御普請橋です。端の幅は二間(3.6m)、橋の長さは二十間(36m)ありました。 現在は、長さ4.8mのコンクリート橋になっています。

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今宿一里塚
日本橋から百二十八番目の一里塚
滋賀県内で唯一現存する一里塚です。南塚のみが残っています。

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十王堂
嘉祥二年(849) 開基小野篁により十王と倶生神を刻まれて安置し十王寺と名付けられました。小野篁の滅後に堂内より十王が居なくなり倶生神一体が残りました。現在の十王は日野の信楽院から寄付を受けたものです。

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大宝神社
木造の狛犬が国の重要文化財に指定されていますが、現在は京都国立博物館に寄託されています。

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県道からJRのトンネルを抜けて線路の反対側を歩きます。

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伊佐佐神社

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アーケードを抜け、トンネルをくぐると草津宿に入ります。が・・・

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草津
ガイドブックにはトンネルをくぐらずに土手に上って旧草津川を越えましょうと書いてあるので、土手に上ろうとしたら、土手がなくておしゃれな階段。なんだか様子が違う! 川の上にはとてもおしゃれな広場が続いています。「de愛ひろば」というそうで去年(2017)4月にオープンしたそうです。現在は2区間のみが整備されてますが、全長7キロにわたる6区間が整備される予定です。

68.草津宿
 東海道との分岐点であり、琵琶湖舟運の矢橋湊へ至る矢橋街道との分岐点にあたり、交通の要衝の地として繁栄しました。 中山道宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は586軒、うち本陣2、脇本陣2、旅籠72軒。宿内人口は2351人(男1172、女1179)

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追分道標
おしゃれな川を越して階段を下ると、東海道と中仙道との分岐点です。東海道とつながりました! 

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草津宿本陣
草津宿にあった本陣のひとつで、235年間本陣を勤めました。全国に残る本陣遺構の中でも、ひときわ大きな規模で、かつての本陣の姿を髣髴とさせる数々の建築物が残され、関札・大福帳・調度品などの貴重な資料も数多く保管されています。また見たいと思っていたのですが、到着が少し遅れてしまったし、前回見学をしているので今回は外観だけ。

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マンホール
草津宿にはいろんな絵柄のマンホールがありました。来た道を戻り、こんどはトンネルをくぐって駅に向かいます。

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晩御飯は、草津で買ってきた「はこずし」ハモの押しずしです。美味でした。

 草津から京都までは東海道で歩いているので、中山道は本日で終了です \(^^)/
昨日の夜から雨が降り出していたので、お天気が心配でしたが、雨に降られずに歩けました。それにしても寒かったぁ。室内に入ることがあるとつい長居してたせいか、寒さのせいか思っていたよりも草津の到着が遅れてしまいました。それにしても旧草津川があんなにきれいになっていたとは驚きでしたぁ。道は生活に合わせてどんどん変わっていくのですね。何回歩いても新しい発見がありそうです。
 2016年5月から約2年半、28日をかけて中山道を歩いてきました。思えば長かったような短かったような・・・。歩き始めたはいいものの、峠越えが心配。街道仲間に話したら、中山道を歩いている方を紹介してくれました。素敵な方たちと知り合えて一緒に峠越えもしました。なかなか予定が合わず一足早く草津に到着してしまったけど、彼女たちと出会わなければまだ峠を越えられていなかったかもしれません。街道を歩いている途中で町を案内してくれた方、道案内をしてくれた方、素敵な場所を教えてくれた方、差し入れをくれた方、声をかけてくれた方、アドバイスをくれた方、沢山の人々に支えられて中山道を完歩することが出来ました。ありがとうございました!