マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【中山道 27日目 - その2】 64.高宮宿 → 65.愛知川宿 → 66.武佐宿    2018.12.08 (土)

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追分道標
ガードレールの裏側には道標が隠れていました。左は御代参街道。東海道土山宿を経て伊勢へと続きます。東海道の写真を見返したら、土山宿で道標を撮っていました。その時は何も思わなかったけど、道はいろいろ繋がっていて面白いですね。中山道は右に進みます。

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常夜燈

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歩道のある道はホッとします。とにかく歩道のない道が多くて歩くのに気を遣うのです。川沿いのフェンスには天秤を担いだ近江商人の可愛らしいモチーフが飾られています。

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五個荘
大正十四年(1925) の竣工

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常夜燈

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五個荘 市田庄兵衛家
明治初期の建築で、京町屋風の商家造りです。市田家は、呉服繊維商として活躍しました。

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常夜燈 金毘羅大権現

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とても素敵な葉牡丹の寄せ植え

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観音正寺道標
西国三十二番札所の観音正寺への道標です。

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石塚一里塚
江戸日本橋から百二十三里目の一里塚。割と最近できたようです。

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てんびんの里
五個荘近江商人発祥の地で、天秤棒一本から豪商にまで立身出世をした商人がたくさんいます。行商に出て辛くなると「てんびん千両」とつぶやきながら耐えたそうです。いったん国道に出て少し先の信号を渡り繖山沿いの旧道に入ります。

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清水鼻立場
醒井宿「居醒の清水」「十王水」と並ぶ湖東三名水のひとつです。飲んでも大丈夫そうだったので一口いただきました。脇にある日枝神社に続く参道から繖山に登ることができます。山頂近くの観音正寺まで行けます。そう観音寺城址まで行けるのです。が、だいぶ時間がかかりそうなので、ここは中山道を先に進みます。

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常夜燈
八幡道(八風街道)との追分を左に進むと大きな常夜燈。滋賀に入ると常夜燈をよく見かけるようになりました。見かけるとつい写真を撮ってしまいます。東海道を歩いているときに、常夜燈を見かけるとなんだかうれしくなったのを思い出します。

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国道に合流して新幹線のガードをくぐり国道を渡って旧道に進みます。奥石神社の案内板のところで、ちょっと分かりにくい国道下の隧道をくぐって反対側に渡ります。

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繖山
右手にずっと見えていた繖山。幟のようなものが見えたので、アップで寄ってみると、石垣が見えました。今回は無理そうだけど、そのうちに行くからね。

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奥石神社(おいそじんじゃ)
 繖山を御神体とするもっとも古く原始的、根源的な神社です。現在の本殿は、天正九年(1581)に建てられた安土桃山時代の建造物で、安土町の国指定重要文化財の中では唯一の神社建築です。奥に見える老蘇の森は、約2259年前 考霊天皇のとき、この地一帯は地裂け水湧いて、とても人の住める所ではありませんでしたが、石辺大連(いそべおおむらじ)という人が神の助けを得てこの地に松、杉、桧を植えたところ、たちまち大森林になったといわれています。

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轟地蔵跡 轟橋

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奥石神社御旅所
祭礼の際に神輿を仮に鎮座しておく所

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中山道 西生来
吹き流しが気になりました。五重相博と書かれています。浄土宗の大切な法要が行われたようです。

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泡子地蔵
 「茶店で休んでいた僧に妹は恋をし、この僧が立ち去ると、僧の飲み残した茶をのんだ。すると不思議なことに懐妊し、男の子を産んだ。3年後、その子を抱いて川で大根を洗っていると旅僧が現れて、「嗚呼不思議なるかな、この子の泣き声がお経を読んでいるように聞こえる」という。振り向いてその旅僧を見ると恋をした僧であった。 妹が前年の話をすると、その僧が男の子にフッと息を吹きかけた途端、泡となって消えてしまったという。 僧は、西の方にある「あら井」というところの池の中に貴き地蔵があり、この子のために、お堂を建て安置せよと言った。」
こういうお話よくあるけど、一生懸命育てた母親や子供がそこにいるのに、いなかったことにしてしまうなんて、気に入らないなぁとか思ってしまうのです。だって子育てって大変なんだよ。ねっ!
この地蔵は西福寺の地蔵堂に祀ってあります。西生来の町名の由来にもなっています。

66.武佐宿
 近江商人の町である近江八幡が近くにあり、物資の往来が盛んに行われ、伊勢に通じる八風街道の追分を控え賑わった。 中山道宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は183軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠23軒。宿内人口は537人(男272、女265)、宿長八丁二十四間(約873m)

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大門跡
牟佐神社の門前に武佐宿東口の大門がありました。

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脇本陣
武佐町会館になっています。

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旧八幡警察署 武佐分署庁舎

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本陣跡

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武佐駅
駅の辺りがちょうど西見附跡になります。次の駅まではだいぶあるので、今日はここで終了です。

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湖風(うみかぜ)号
武佐駅から近江鉄道線で宿のある近江八幡に向かいました。駅に下りたら写真を撮る人がたくさんいたので混じってパチリ。元西武鉄道の電車です。そういえば西武の創業者も近江商人でしたね。
 
今年は12月に入っても暖かい日が続いていましたが、中山道を歩こうと思ったら冬将軍がやってきました。この日は、最高気温も9℃あったかどうか。風もあり、ダウンを着ていても歩けました。雲は多かったものの雨に降られなかったのはラッキー。お日様が隠れて雨が降り出したらきっとみぞれになりそうだもの。
   高宮駅から武佐駅まで、旧道も国道も、歩道がない道が多くて、特に旧道は狭いうえに車通りが多くて、車に注意しながら歩かなくてはならないので、とても気を使いました。昔の道がそのまま残っているのは喜ばしいことではあるけど、今の交通手段にはあってないから危ないよね。
  近江商人の街を歩いていると、大きなお屋敷もたくさん残っているけど、崩れかけたお屋敷や空き地も多くて代々維持していくのは大変なんだろうと思わされます。今日歩いた辺りは、京や伊勢、江戸、北陸など各地に行く街道が交わる要衝の地が多く、旅人が行きかうなかで情報が自然と集まって、近江商人を生み出してきました。交通網の発達や首都圏への一極集中で、人の行き来が変わって街も変わって、これからもネットなどの情報網がもっと発達してまた変わって・・・。逆に情報網が発達すれば住む場所にこだわらなくてもよくなるってことでもあるわけで。このところお世話になっている近江鉄道沿線は人口が減って、利用客も減って大変だそうです。ここを拠点に新たな近江商人が街を活性させてくれると面白いなぁとか思ったりもするのです