マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

鎌倉さんぽ  2022.2.9(水)

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永福寺跡

永福寺跡

源頼朝が文治五年(1189)に奥州平泉を攻めた後、奥州藤原氏源義経など、亡くなった数万の将兵の鎮魂のため、建久三年(1192)に創建した寺院です。

 

鎌倉駅無量寿院跡(鎌倉歴史文化交流館)→ 寿福寺鶴岡八幡宮 → 法華堂跡 → 荏柄天神社 → 永福寺跡覚園寺 → 天園ハイキングコース →(北鎌倉駅

 

鎌倉散歩に行ってきました。大河ドラマが始まり案内板も新しくなっていました。

 

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無量寿院跡

鎌倉歴史文化交流館が建つ谷は、無量寺谷と呼ばれ、安達氏の菩提寺無量寺院や甘縄の邸宅があったと考えられています。ここは安達盛長のゆかりの地です。鎌倉歴史文化交流館の企画展は、「北条氏展 VOL.1 伊豆から鎌倉へ」(~3/26)。後白河上皇院宣が展示されています。永福寺VRも体験してきました。

 

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鎌倉歴史文化交流館から今小路に戻る途中にあるお蕎麦屋さん(五島)で少し早いお昼にしました。細い更科のおそばにサクサクの天ぷらもついてランチ1100円はでした。

 

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巽神社

今小路を進んでいくと右手に神社があります。巽神社です。ご祭神は、奥津日子神、奥津日女神、火産霊神。境内のご由緒はかすれていて読めなかったので、神奈川県神社庁のご由緒から「延暦20(801)年坂上田村麻呂が東夷鎮撫の途上、当郡葛原岡に勧請したのに始まり、永承4(1049)年源頼義が社殿を改修したと伝える。その後、寿福寺境内の鎮守として奉斎されたが、再び遷って現在地に鎮座した。この地が寿福寺の巽の方角に当ることから「巽荒神」と称された。近世、浄光明寺が所管した。天正19(1591)年社領一貫文の地を寄せられたと『相模風土記』に見える。また徳川幕府から朱印地を寄せられている。天保6(1835)年社殿の改築があり、明治6年村社に列格した。」頼朝も奥州討伐の際に詣でたのでしょうか。小さな神社ですが裳階が存在感を大きくしています。

 

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八坂大神(相馬天王)

寿福寺の手前にも神社があります。ご祭神は、素戔嗚尊桓武天皇、葛岡親王高望王寿福寺の真横にある境内の由緒書には「建久三(1192)年 相馬次郎師常己が邸内に守護神として勧請して崇敬したのに始まる。その後現在の地に奉還する。世に相馬天王と称するはこの故である。・・・・」と書かれています。相馬次郎師常って誰かと調べたら、千葉常胤の次男で相馬氏の初代当主でした。頼朝の挙兵に参加し、奥州合戦の際には頼朝から「八幡大菩薩」の旗を賜っています。名前には「胤」じゃなくて「常」なんですね。巽神社の辺りに師常の屋敷があったと伝わっています。念仏を唱えたまま合掌し正座した姿勢で亡くなったので、その姿を拝もうと鎌倉の民衆が集ったそうです。今度拝みに行ってみましょう。

 

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寿福寺

正治二年(1200)北条政子が頼朝の死後、頼朝の父である義朝の旧邸跡に明庵栄西を招いて創建した寺で、本尊は釈迦如来坐像、鎌倉五山の第三位です。ここの参道は風情があります。本堂は非公開になっています。参道脇から裏のお墓にまわります。政子と実朝とされるお墓があります。

 

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墓地の山側にはやぐらが並んでいます。そのうちの一つは政子、一つはその子源実朝の墓だといわれています。案内がわかりにくいのです。

 

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踏切を渡り、八幡宮に向かいます。ここもちらほらと梅が咲き始めています。

 

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鶴岡ミュージアム大河ドラマ館になるのね

 

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鶴岡八幡宮

鎌倉に来たらお参りしておかないとね。願うはただひとつ「コロナ退散」

 

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八幡宮の東鳥居から出て頼朝の墓に向かいます。ここは清泉小学校の脇の道。曲り角の先に大倉幕府跡碑があったのですが、撮り損ねてしましました。この辺りが大倉幕府のあった場所。治承4年(1180)源頼朝が邸宅を建てて政治の中心地となりました。源氏三代(頼朝、頼家、実朝)、そして北条政子が亡くなり、宇都宮辻に幕府の中心が移るまで鎌倉幕府の中心となっていました。この先に頼朝の墓があります。

 

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源頼朝の墓(法華堂跡)

「・・・・正治元年(1199)に五十三歳で没すると、地震の持仏堂であった法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。法華堂は後に廃絶しましたが、この丘の上一帯がその跡です。現在建っている塔は後に島津藩主・島津重豪が整備したものとされます。」

と、案内に書かれています。そうなんです。供養塔がお墓ではないんです。鎌倉幕府滅亡後も法華堂は存続していましたが、17世紀初頭までには堂舎が無くなり、現在の墓域は安永八年(1779)に島津重豪により整備されたものだそう。なぜ島津かというと、鎌倉殿に仕えた島津忠久は頼朝のご落胤だとか。比企尼の娘である母の丹後局が頼朝の寵愛をうけていたというのです。本当かどうかはわかりませんが、源頼朝や比企氏とは深い関係があったのは確かです。それにしても江戸幕府八幡宮を整備したのに、ここは整備しなかったんですね。家康は頼朝を尊敬していたといいますが、個人としての頼朝というよりも武家政権の手本としての鎌倉幕府を尊敬していたということでしょうか。

 

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法華堂跡

案内板には、「この平場は、鎌倉幕府第2代執権の北条義時の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。・・・義時は貞応3年(1224)に62歳で没しました。『吾妻鏡』には、源頼朝の法華堂の東の山上を墳墓の地とし、そこに新法華堂(義時の法華堂)を建てたことが記されています。義時の法華堂は鎌倉時代の終わりには途絶えたようですが、平成17年(2005)に行われた発掘調査により、8.4m四方の平面正方形の建物跡が確認され、『吾妻鏡』の記述が裏付けられました。」と記されています。前に訪れた時は草ボウボウでただならぬ気配を感じるような場所でしたが、なんだかとってもきれいに整備されています。VRで法華堂も再現されているとか。スマホが古すぎて対応していませんでした。

 

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なんの案内も出ていませんが、法華堂跡の奥の山肌には三浦泰村一族の墓と伝わるやぐらがあります。宝治合戦(宝治元年/1247)で三浦一族が自刃した場所です。五代執権北条時頼三浦泰村との間に勃発した合戦で、泰村以下総勢約500名余りがここで自刃しました。義村には手は出せなかったけど、泰村なら邪魔者にしちゃうんだね。

 

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毛利季光の墓、大江博元の墓、島津忠久の墓

法華堂の奥にある急な階段を上ると3つのやぐらがあります。島津忠久の墓は、頼朝の墓と同時期に島津重豪により整備されたもので、広元、季光の墓は毛利家が整備しています。大江広元は実務官僚として幕府を支えました。毛利季光大江広元の四男。毛利氏の祖となった人物です。幕末の薩長の祖が並んでいるのは何だか不思議な光景です。

 

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荏柄天神社

平安時代中頃、雷雨と共に天神の姿絵が降りてきたのを里人が敬い、そこに神社を建てて祀ったのが始まりとされています。源頼朝が大蔵に幕府を開くと、その鬼門を守護する神社として崇められました。」ご祭神は、菅原道真 創建は、長治元年(1104)受験生だった頃はお参りしました。

 

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鎌倉宮

後醍醐天皇の皇子である護良親王を祭神とする神社です。創建は明治二年(1869)

参拝後に永福寺跡に向かいます。永福寺跡にはトイレがないのでここでお借りしました。

 

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永福寺跡

頼朝が、平泉で毛越寺中尊寺を見て建立を思い立ったとされています。歴史文化交流館で予習をしてきました。極楽浄土のような世界がここに広がっていたんですね。とてもきれいに整備がされています。平泉はすごく開けた印象ですが、ここは谷戸にあるため閉じられた別世界のようです。頼朝に義経も平泉も包み込む度量があれば源氏の鎌倉幕府が続いたかも・・・。いったん鎌倉宮に戻り覚園寺を目指します。

 

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梅の花がきれいです。

 

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覚園寺

 建保六年(1218)年 北条義時が​十二神将の戌神将のお告げを受けて建立した大倉薬師堂を前身としています。本堂のお堂には本尊薬師如来坐像日光菩薩月光菩薩十二神将が祀られています。大きなお像でとても素敵なお顔をしていました。コロナ前は時間を決めてご住職が案内をしていたそうですが、コロナのため順路に沿って各自で参拝するようになっていました。静とした境内の中はとても落ち着きます。祈りをささげる場所なので写真撮影が禁止されているというのがよくわかります。

 

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来た道を戻って天園ハイキングコースへ入ります。石仏群が目印です。

 

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やぐら

ハイキングコースを上っていくとやぐらがありました。

 

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瑞泉寺への道はまだ通行止めのままでした。建長寺方面に進みます。十王岩に気付かず通り過ぎた・・

 

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勝上嶽展望台

富士山は見えませんでした。建長寺には下らず明月院方面に進みます。

 

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下っていくと分岐があります。この細い道を行くと明月院方面につくのかなぁ。案内板がなかったので今泉に出ることにしました。住宅地を抜けて明月院方面に進みます。途中の坂道に天園ハイキングコースの道標がありました。歩けたのかな。

 

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明月院の前を通って線路沿いまで来ました。ロウバイがきれいに咲いていました。北鎌倉駅から戻ることにしましょう。

 

 予定があって有休を取っていたのですがコロナで延期。特にプランもなくぶらぶらと鎌倉を歩いてきました。平日ですが小町通り八幡宮の辺りは人が多いです。頼朝の墓なんていつもは人がいないのに今日はそれなりに。義時の法華堂跡はとてもきれいになっていて、今日は全然怖くありませんでした。大河ドラマ効果ですね。鎌倉街道を歩き始めてから少しずつ鎌倉時代も勉強中。鎌倉も訪れているわりにはよく知らないことが多いので、これを機にもっとよく知りたいと思います。大河ドラマもそれなりに面白く見ています。ツッコミたいところも多々ありますが、一番は、頼朝どうでしょう。品がないよね、どう見ても。都育ちの貴種だよ。個人的には、お兄ちゃん(宗時)と交代するとしっくりくる気がするのだけど。どうでしょう。