☆データ☆ (日本100名城ガイドブックより)
・城地種類 平城
(登城日: 2018年11月11日)
長篠城
今川氏配下の土豪菅沼元成が宇連川と寒狭川(豊川) の合流点の断崖上に築城しました。本丸・帯郭・野牛郭・巴城郭・瓢郭・弾正郭等、総面積約10ha。桶狭間後、菅沼氏は徳川に、信玄の三河侵攻後は武田配下に、信玄亡きあと徳川家康の攻撃により菅沼氏は開城して退去。一度は武田氏についた奥平氏を、家康は城主として長篠城を守らせました。武田勢15000の兵に対し、500の兵で籠城し長篠城を死守しました。長篠の戦い後、城は新城に移され廃城となりました。
長篠城縄張図
内堀跡
平地につながる北側には堀がつくられています。
平地につながる北側には堀がつくられています。
土塁
本丸から
本丸跡
鳶ヶ巣山
向かい側山なみの左手高所に武田軍の陣寺跡がありました。
向かい側山なみの左手高所に武田軍の陣寺跡がありました。
ここから鳥居強右衛門磔の地が見えるというのですが・・・木が茂りすぎていて見えません
不忍の滝
葉っぱが邪魔ですが、奥に滝があります。「本流の豊川に落ち込む滝が少しづつ後退してできた滝で、浸食された深い谷は、西側の天然の堀の役目をしています。1kmほど北を通る大断層・中央構造線の活動によって岩(三波川変成帯の緑色片岩や黒岩片岩)が砕かれて弱くなり深い谷ができやすくなっています。」そういえば大橋の近くで、中央構造線はこちらっていう看板を見かけたような。
葉っぱが邪魔ですが、奥に滝があります。「本流の豊川に落ち込む滝が少しづつ後退してできた滝で、浸食された深い谷は、西側の天然の堀の役目をしています。1kmほど北を通る大断層・中央構造線の活動によって岩(三波川変成帯の緑色片岩や黒岩片岩)が砕かれて弱くなり深い谷ができやすくなっています。」そういえば大橋の近くで、中央構造線はこちらっていう看板を見かけたような。
弾正郭跡
武田の運命を決定付けた長篠城に行ってきました。城址自体は、堀と土塁が残っているくらいかな。ここはなんといっても鳥居強右衛門の活躍でしょう。本丸と二の丸だけを残す落城寸前の長篠城。強右衛門からの狼煙で援軍が来る知らせはうけたものの、いつ来るかわからない状態だったわけで、もし強右衛門がそのまま切られていたら武田の調略に応じてかもしれないよね。だいたい命がけで援軍を請うために脱出した兵が「援軍は来ない」なんて言うわけないじゃん。これは強右衛門を甘く見過ぎです。きっと長篠城も簡単に落とせると思っていたんでしょうね。武田軍は侮れないと用意周到に準備をした織田・徳川軍の勝ちです。本丸から強右衛門の磔の地は、木が邪魔で何も見えませんでした。対岸からも長篠城が見えなかったは残念でした。
長篠城は城を見るというよりも、長篠の戦いの地を設楽原も含めてまわるのが正解ですね。今回ぐるっとまわって戦いのイメージがだいぶ変わりました。馬防柵や連吾川、茶臼山など実際にまわれたし、鳶ヶ巣砦の位置も納得。結構起伏がありました。あと心残りは、スタンプの碑の隣に描かれている合流地点からの長篠城を見損ねたこと。悔しいのでグーグルさんのストビューで確認しちゃいました。合流地点の断崖の上に築かれているのがよくわかります。牛淵橋は歩道のない狭い橋でした。たくさんの人が歩いて写真なんてとったら危ない。ということでコースから外れたんですね、きっと。ここはちゃんと見ておきたかったです。