マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

直虎 井伊谷・気賀さんぽ   2018.01.02 (火)

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天白磐座遺跡
「三方を川に囲まれ、渭伊神社本殿の後方にある薬師山(標高40m)の頂上に三個の巨石を中心に中小の石が散在する形で展開しています。古墳時代から鎌倉時代まで「水神」「井の神」を祀った祭祀場と考えられ、これまでに土器や祭具が多く発見されています。」(観光案内より)

気賀駅 → 堀川城跡 → 気賀関所 → おんな城主直虎 大河ドラマ館 → 本陣前公園 → 細江神社 → 井伊共保公出生の井戸 → 龍潭寺井伊谷宮 → 渭伊神社 → 天白磐座遺跡 → 井伊谷城址 → 二宮神社 → 蟹渕 → 井殿の塚 → 井伊氏居館跡 → 金指駅  歩行約15km

 昨年の内に歩こうと思っていたのですが、ぐずぐずしているうちに年を越してしまいました。総集編を見ていたらやっぱり行ってみたくなり、今年の歩き始めは「井伊谷」となりました。

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気賀駅
早起きして在来線と新幹線を乗り継いで浜松駅へ。バスに乗り換えて気賀駅に向かいます。バスの中から、三方ヶ原とか犀ヶ崖の地名を見かけ、この辺りが戦場になっていたんだぁと思いながら乗っているうちに気賀駅に到着。昭和13年に建てられた駅舎とプラットホームは有形文化財になっているそうですが、今はすっかり直虎バージョンです。


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堀川城
浜名湖の水辺にあったという堀川城ですが、今はすっかり田んぼの中。大河ドラマの中では気賀城として描かれていました。ドラマと史実はもちろん違うけど、凄惨な戦いがあったのは事実のようで、「今川方に付いた堀川城を徹底的に攻め、立てこもった城兵や住民を全滅させ、落城後も敗残兵を探し出して処罰。捕虜の首を獄門畷にさらしたと伝わります。家康の生涯における戦の中でも、最も残虐な戦争となりました。」と案内板に書かれていました。信長に比べると穏健なイメージがある家康ですが、武将のトップに立つにはこうした残虐性も必要なんでしょうね・・・。現代の基準ではありえませんが。

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気賀関所
慶長6年(1601) 徳川家康によって創設された関所。番所は気賀四ツ角の交差点の近くにありました。現在の関所は、ふるさと創生事業により再建されたものです。

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おんな城主直虎 大河ドラマ
1月14日で閉館してしまうというので寄ってみました。直虎たちの衣装や井戸の模型とか展示されていたのだけど、入場料に見合う展示かというとちょっと疑問。物足りない感じでした。

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大河ドラマ館開館中だけ、ドラマ館と龍潭寺を結ぶバスが走っています。

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堀川
関所の警備のための要害堀跡が残っています。

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本陣前公園
天正15年(1587) 街道の宿と定められ整備されました。案内板によると、本陣は公園の斜め前にあり、公園の下の堀川に続く水路のようなところが気賀の港でした。

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犬くぐり道
通行手形のない村人のために設けられた抜け道で、道の途中にむしろを一枚たらし、「人は通れないが犬なら良い」と、むしろの下を四つん這いで通っていたそうです。本陣前公園の少し西側から堀江神社の方へ続いているようなので歩き始めたはいいのだけど、途中で反対方向に進んでいるような気がしつつも曲がる道がわからずに進んでいたら、呉石のバス停のところに出てしまいました。

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獄門畷
呉石のバス停の斜め前にあったのは獄門畷。堀川城の獄門首が並んでいたところです。

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秋葉常夜灯
気賀宿の西の端。犬くぐり道を通って無事に気賀宿を抜けていたのでした。

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細江神社
明応の大地震(1498) の折、浜名湖の入口にあった湖の守護神角避比子神社が陥没し、流れ着いた御神体をお祀りしたのが始まりといわれ、地震の神様として信仰されています。大きな地震がきませんように!


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気賀関所
こちらが関所のあったところ。気賀四ツ角の交差点の近くです。建物の一部が残っています。

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清水橋の道標
気賀は、本坂道(姫街道)の関所がおかれ、舟運の物流中継地として浜名湖北岸の交通要衝でした。

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犬くぐり道
ここが東側の出入口らしい。今は通れそうもありません。まぁ関所もありませんが。

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疣観音
境内の岩の窪みに溜まった水を疣につけるときれいに治ると云われています。

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井伊共保公出生の井戸
井伊家初代共保がここで生まれたと伝えられています。共保は地名にちなみ姓を井伊とし、生まれた井戸より旗印を井桁に、井戸のかたわらに咲いていた橘の花を家紋にしました。

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龍潭寺
湖北五山の一つ。天平5年(733)に行基により創建された寺で、井伊家の菩提寺です。直虎が次郎法師として過ごしていたお寺でもあります。直親の死後、井伊家の出である南渓和尚が参謀のように井伊家を支えていたようです。

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龍潭寺庭園
小堀遠州作の庭園。現在の龍潭寺は江戸時代に再建されたもので、ドラマのイメージとはだいぶ違いますが、とてもきれいなお寺でした。

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井伊谷宮
御祭神は後醍醐天皇第4皇子宗良親王南北朝時代、伊勢から陸奥国府へ海路で渡る途中に座礁して遠江に漂着した宗良親王が身を寄せたのが、井伊谷の井伊道政。その縁で代々菩提を弔ってきた井伊家が、明治に入り王政復古の象徴として吉野朝(南朝)方を支えた貢献者を祀る神社を創建するよう勅命が下された折に創建したのが井伊谷宮です。

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渭伊神社
井伊谷の大産神として尊敬されています。

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天白磐座遺跡
渭伊神社の裏手に広がる古代時代から鎌倉時代までの巨岩祭祀遺跡。静とした空気の中にいると身が引き締まります。

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妙雲寺
南渓和尚が開山した直虎の菩提寺です。

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新野左馬之助館跡
今川氏の一族で、妹 祐椿尼(直虎の母)が井伊家当主直盛と結婚し井伊家と親族になり家老となりました。


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井伊谷城跡(虎口 大手口)
標高115mの丘陵地に築かれた井伊氏の城跡です。道がすっかり舗装されて歩きやすいけど風情に欠けます。

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井伊谷城跡からの眺め(井伊谷 浜松方面)

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三岳山(三岳城)
井伊谷城跡からは戦いの際に本城とした三岳山が見えます。

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二宮神社
急な坂を下りていくと二宮神社に着きます。井伊郷の荘司である三宅氏の始祖・多道間守を祀る神社で、後に宗良親王を合祀しました。

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小野但馬守政次の供養塔
政次の子も処刑されたそうです。ドラマは設定が違いますが、実際の政次はどんな人物だったのでしょうね。

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蟹渕
供養塔近くの井伊谷川の河原で政次は処刑されました。磔ではなく斬首だったそうです。


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井殿の塚
天文13年(1544) 家老小野和泉守の讒言により謀反の疑いかけられ、駿河今川義元に殺害された井伊直満と弟直義の供養塔です。大樹はタブノキ

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道端に直虎様が!


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井伊氏居館跡

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小野但馬守政次屋敷跡

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井伊谷
帰りは金指駅まで3キロもないので歩くことにしました。直虎の時代もこんな風に広々と田んぼが広がる豊かな風景が広がっていたのでしょうか。

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金指駅に着いたらすでに電車が到着していたので急いで乗車。車内のカーテンやカバーがマリメッコでちょっと不思議な面白さです。

 実は男だったという説もある直虎。大河ドラマとしても視聴率が振るわずつまらないと云われましたが、個人的にはとても面白く見ていました。華々しい合戦もないし、舞台も井伊谷が中心で広がらないけど、小さな領主が大国に挟まれて右往左往して生き残りをかけていく物語はとても面白かったです。ドラマと史実はもちろん違うわけだけど、「戦わずして勝つ」という政次の言葉を実践していった直虎。力に頼りすぎ何でもかんでも壊して、勝っても後始末ができずに怨みを買うことは、それこそ愚の骨頂。孫子の兵法だそうですが、何千年も昔に書かれた兵法から今も学ぶ事が出来ていない人類っていったいなんでしょうね。
 井伊谷はこじんまりと落ち着いた町です。名物のみそまんも美味しかったです。気賀は姫街道の宿場町。東海道を歩いていた時に、見付宿に姫街道の追分があって気になっていた街道です。ここも近いうちに歩いてみたいなぁ。まだ中山道も途中だけど。今年も沢山歩いていきたいと思います。