マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

平泉 さんぽ   2017.5.3(水・祝日)


イメージ 1
「五月雨の 降り残してや 光堂」
天治元年(1124)の造立。藤原氏滅亡後、多くの堂塔が焼失したなか現存する唯一の創建遺構です。金色のお堂の中には、本尊の阿弥陀如来。脇侍の観音・勢至菩薩、六体の地蔵菩薩持国天増長天が本尊をとり巻き、螺鈿細工や蒔絵、彫金で装飾された内陣は平安仏教美術の最高峰をなしています。金堂は保存のため、1965年に建てられた鉄筋コンクリート造りの覆堂内のガラスケースのなかに収められています。
 
 
平泉駅柳之御所遺跡 → 無量光院跡 → 高舘義経堂 → 中尊寺金鶏山毛越寺観自在王院跡 → 平泉駅  歩行約8km
 
 
 小学生のころに行ったはずですが、よく覚えていません。お祭りもやっているということなので平泉をまわってきました。


イメージ 2
柳之御所遺跡跡
平安時代(12世紀)の居館跡で、奥州藤原氏の政務の場と考えられています。


イメージ 3
道の駅 平泉
柳之御所遺跡の近くに2017427日にオープンしたばかりのピカピカの道の駅です。


イメージ 4
平安時代末期に奥州藤原三代秀衝が建てた寺院の跡。浄土庭園として知られ、金鶏山を背景に平等院鳳凰堂に似ている本堂があったことが発掘調査で確認されています。


イメージ 5
春の藤原まつり
高舘義経堂にむかう途中で、義経香を迎える出迎行列を見学。予定より時間がかかったのは牛車が牛が途中で動かなくなったようで・・・。牛や馬も大変だぁ。


イメージ 6
高舘義経
頼朝に追われた義経は、藤原秀衛の庇護のもと高館に住んでいましたが、秀衛の死後、頼朝の圧政に耐えかねた秀衛の子・泰衛の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられています。


イメージ 7
「夏草や 兵どもが 夢のあと」
芭蕉はこんな景色を見ながら詠んだのでしょうか。勝った歴史だけが続いていく世の中だからこそ、敗者に思いをはせ忘れないでいたいものです。


イメージ 8
仁王様
義経堂脇の資料館には作者時代不詳の仁王様。素朴だけど存在感があります。


イメージ 9
卯の花清水
卯の花に 兼房見ゆる 白毛かな」曾良
現在、水は枯れてしまい水道水だとか


イメージ 10
義家
中尊寺月見坂にあるお蕎麦屋さんでお昼です。


イメージ 11
中尊寺 本堂(天台宗東北大本山
850年、慈覚大師円仁の開山。12世紀初め奥州藤原氏初代清衡公が前九年後三年の合戦の死者を弔うため大伽藍を造営しました。


イメージ 12
春の藤原まつり 本行列
今年の義経公は、横浜流星さん


イメージ 13
毛越寺 本堂
奥州藤原氏二代基衝、三代秀衝が造営し、当時の伽藍は中尊寺をしのぐ規模でしたが、当時の堂宇はすべて焼失してしまいました。


イメージ 14
毛越寺 大泉が池
かつては広大な浄土庭園が配されていました。


イメージ 15
二代基衡の妻が建立した寺院。建物は失われてしまいまいたが、舞鶴が池を中心に遺跡が修復整備されています。


イメージ 16
KOZENJIcafe
GW中ということで、観自在王院跡にいっぱい屋台が出ていました。その中で行列を発見。並んでみると、とっても美味しいジェラートが待っていました。


イメージ 17
中尊寺毛越寺の中間に位置する円錐形の低い山で、山頂には経堂があります。登り口には義経妻子の墓が祀られています。


イメージ 18
 
 
 東北の3日目は平泉。この日は藤原まつりが行われていました。中尊寺毛越寺の会場では混んでいたのかもしれないけど、沿道はすいていて、行列も観客ものんびりと楽しんでいました。行列に合わせて行ったり来たりになってしまいましたが、世界遺産になったせいか、子供の頃のうろ覚えな平泉に比べるととてもきれいに整備されています。柳之御所跡や無量光院跡で旗が立っていて、なんだろうと思ったら、平泉文化遺産センターで当時の様子を再現したVRが見られる装置を貸していたそう。リサーチ不足でちょっと残念。広大な大地に煌びやかな伽藍が立ち並ぶ様は見事だったでしょうね!それをみたらきっと、将来自分の敵となりそうな平泉はつぶしておきたいと権力者なら思うはず。奥州征伐(最近では奥州合戦というそう。確かに勝者側の言い分だもの)義経を匿ったのはちょうどいい口実になったというというわけです。歴史にifはないけど、藤原氏で栄え続けたら東北も変わっていたでしょうね。