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【日本100名城 その22】  97 鹿児島城

97 鹿児島城 (鹿児島県鹿児島市)  別名:鶴丸城
 
 
 
イメージ 1☆データ☆   (100名城ガイドブックより)
 
 ・城地種類 平城
 

 ・築城     慶長6年(1601)ころ 島津家久

 
 ・主要城主 島津氏
 
 
 
                                (登城日: 20151229日)



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鹿児島城
 島津家久が標高107mの城山東麓に築いた平城で、慶長6年(1601)に、築城工事を開始、約10年をかけて完成しました。城山を背後に置き、中世以来の館造りを踏襲した城構えでした。本丸と二の丸が連郭式に並ぶシンプルな縄張で、御楼門以外に天守も櫓もありません。戦国時代に領内に設置された多くの外城(支城)が外敵の侵入を防ぐことで、本城を要塞化する必要がなかったとされています。本丸に政庁と藩主の居館、表書院などがおかれ、野の丸に世継ぎや側室などの居館や庭園が設けられていました。城は元禄9(1696)に焼失、宝永4(1707)に再建されましたが、明治6(1873)に再び焼失してしまいました。城壁と擬宝珠つきの石橋だけが残されています。



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黎明館
鹿児島城本丸跡に建つ黎明館は、鹿児島の歴史や民族、工芸、美術などを紹介する人文系の総合博物館。百名城スタンプはここにあります。


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黎明館の背後には城山


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御楼門跡
大手門にあたる御楼門がありましたが、明治6年城とともに焼失しました。現在、復元計画が進行中で、明治維新150年にあたる平成30(2018)の完成をめざしているそうです。


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この橋は慶長11(1606)に完成したとされています。


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本丸北東面の石垣
北東は鬼門にあたる方角のため、鬼門除けとして石垣の隅を欠いています。


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西郷隆盛の私学校跡地である出丸跡の石垣には西南戦争の銃弾跡が残されています。


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「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」
薩摩藩流の思想によるもので、藩内の各所には兵農一致の郷土団が守る外城がめぐらされていました。城下には鶴丸城を中心に武家屋敷、その外側に上町6町、下町12町、西田町4町が設けられ、5000人余りの町人が集められましたが、圧倒的に武士の多い城下町だったようです。”云々と書かれています。「人をもって城と~」ってなんだか武田信玄を思い出します。それにしても武士の多い城下町だったことが、後の西南戦争にもつながっていったのでしょうか。


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城山から望む桜島



 77万石の大名の城とは思えないくらいの小さな城跡です。背後の城山も城の一部といえば言えなくもないのだけれども。城山には麓にある館に万が一のことがあった場合、上之山城として城代が置かれたこともありましたが、慶長19(1614)以降は立入禁止となっていました。西南戦争の激戦地にもなった城山ですが、公園整備などにより上之山城の城郭部は破壊されて残っていません。とはいえ城山からの桜島の眺めはとても素敵です。ハイキングコースが整備されているので、登ってみる価値ありです。それにしても熊本城のように観光で鹿児島城に訪れる人は少ないでしょうね。御楼門を再建したいと思うのも無理もないのかなぁ。でも再建するなら本丸御殿だよね~