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【日本100名城 その8】  54 大阪城

54 大阪城 (大阪府大阪市)  別名:錦城、金城




イメージ 1    ☆データ☆   (100名城ガイドブックより)
 
     ・城地種類  平山城
 
     ・築城   天正11年(1583) 豊臣秀吉
           元和6年(1620) 徳川幕府
   
     ・主要城主   豊臣氏、松平氏、徳川氏
 
  •                                                  (登城日: 2015222日)
 



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2014年・2015年は、大坂冬の陣1614年)・大坂夏の陣1615年)から数えて400年。「大坂の陣400年天下一祭」が開催中。黄色いモニュメントは、大坂の陣の戦を表す兜をかぶった武将と、大阪の「大」の字をロゴです。
 

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現在の天守閣は三代目。大坂夏の陣図屏風に描かれた豊臣時代の天守の外観に基いて復興されました。当時としては珍しい鉄筋鉄骨コンクリート造りで、第二次大戦の空襲にも耐えて現在に至っています。そしてこの天守閣が一番長く建っているんだって! 秀吉時代の初代天守天正13(1585)から慶長20(1615)大阪夏の陣で焼失するまでの31年間 徳川時代2代目は寛永3(1626)から寛文5(1665)まで落雷で焼失するまでの40年間 3代目の現在の天守は昭和6(1931)から84年と最長記録更新中。とはいえ、4層目までは徳川の白、最上階のみ豊臣の黒というのはちょっとどうなのかしら。


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天守閣からの眺めは最高。本丸を見下ろします。正面右手に見える高い建物はアベノハルカス。
 

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本丸跡にあるこの井戸みたいな蓋をあけると、下には豊臣時代の石垣が眠っています。金蔵裏でも発掘が進んでおり、大坂城豊臣石垣公開プロジェクトが進んでいます。


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日本庭園
昭和6(1931)の大阪法天守閣復興に合わせ、当時東側に建っていた紀州御殿の庭園として整備された純日本式庭園。


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桜門
本丸の正面をまもる桜門は、徳川幕府による大阪城再築工事が行われていた寛永3年(1626)備前岡山藩主池田忠雄の担当によって築かれましたが、明治維新の大火で焼失。明治20(1887)に陸軍が再建し現在に至ります。石材は備前産の花崗岩が用いられていて、正面の蛸石と呼ばれる城内第一の巨石は、表面積がおよそ36畳敷(59.43)、重量は約108トンもあるとか。大きさに圧倒されます。
 

山里丸と二の丸を結ぶ橋。現在の橋は長さ約54m、幅約5.4m。江戸時代の橋は幅が8mもあったそう。


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秀頼・淀殿ら自刃の地
極楽橋を渡った先の奥まったところにひっそりと建つ記念碑。慶長20(元和元年/1615)、山里丸にあった櫓に潜み自害したと伝えられています。


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青屋門
大阪城二の丸の北に位置する出入口


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肥後石
京橋口枡形の内、京橋口を入って正面に見えるのが、表面積約33畳敷き(54.17)の城内第2の巨石「肥後石」。こちらも備前岡山藩主池田忠雄によって運ばれてきました。


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千貫櫓
大手門と千貫櫓は修復中。大手口は二の丸西側の虎口で巨大な桝形と土橋が特徴です。


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乾櫓
二の丸北西に建つ徳川らしいL字型の櫓 


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西の丸庭園
訪れた時はちょうど大阪城マッピングイルミネーションの期間中(2015.3.1)で中に入れませんでした。


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内堀(東側)

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内堀(西側)

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東外堀
日本でも12を争う高い立派な石垣はすべて徳川時代に、豊臣時代の石垣を埋め立てて造られました。


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刻印石広場
大阪城を作るために各地から集められた大名たちが運んだ石がわかるようにと刻印をしました。探すと石垣にもあるそうだけど、ここにはいっぱい集められているのでよくわかります。


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梅林(市正曲輪)
豊臣秀吉の後見人、片桐東市正且元の屋敷があったと伝えられています。江戸時代には大阪城を守衛する役職の内、青屋口加番・中小屋加番・雁木坂加番の小屋が北から順におかれていました。


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豊国神社
江戸時代にはもちろんなかったこの神社。明治天皇により創立され「豊臣秀吉公」「豊臣秀頼公」「豊臣秀長卿」を奉祀する神社です。


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こま犬
こんなところに何故かこま犬。案内板によると、中国・明の時代の文化遺産日中戦争の最中に日本に運ばれました。その後正式に中国政府から寄贈され、日中友好の象徴となっています。


現在の城は徳川の時代に、豊臣時代の城をそっくり埋めてしまったため、豊臣時代の遺構はすっかり土の中。ですが、秀吉の城といったほうがしっくりくるのが大阪城です。

大阪城の地は、織田信長に抵抗した一向宗本願寺派の総本山石山本願寺として始まりました。信長による本願寺の退去後、天下を獲った豊臣秀吉により大阪城は築城されます。秀吉の死後、堅牢を誇った大阪城も、堀を埋め立てられて大阪の陣で落城し、徳川の城として豊臣時代の遺構をすべて埋め立て大阪城は再築されました。落雷による天守閣の焼失後は大坂城天守はなく、徳川時代大坂城の城主は歴代の徳川将軍でしたが、幕府から任命された城代をはじめとする大名や旗本たちが城を守り、3代将軍家光が訪れた後、14代家茂が入城するまで230年もの間、大坂城を訪れた将軍はいませんでした。幕末の混乱により、本丸をはじめほとんどの建造物が焼失し、大阪城は再び落城。明治以降、大阪城跡は陸軍の軍用地として整備されていましたが、昭和にはいり、当時の市長が天守閣復興を提案。昭和6年(19313代目の大阪城天守閣が竣工しました。第二次世界大戦の空襲で櫓などは焼失しましたが、天守閣は焼失を免れ、敗戦後、3年近く占領していた米軍から大阪城地が返還され、修復・再建工事が続けられ、広大な史跡公園として整備されています。
 
本願寺と敵対していた信長はこの地をとても気に入っていたそうです、本能寺の変がなかったら信長がここに城を築いていたはず。歴史にもしもは無いとはいえ、信長ならどんな城を築いたでしょう。この地に城を構えた信長はきっと世界を目指したはず。今とは全然違う日本になっていたでしょうね。